じじいの本分
生まれて、若いころは元気盛ん。20代、30代に頂点を元気を極める。それからだんだん、弱くなって、死んでいく。無機物が有機物になってまた無機物に戻る。じじいは若いころに比べたらよほど無機物に近くなっている。じじいは、半分透明、半分幽霊みたいなもの。
じじいは何を求めるか
半分透明のじじいは形としてではなく、心が大事になってくる。
例えば、誰かを応援するのではなくて、志を応援する。若いうちは、自分が好きな人を応援するでしょう。それでいい。じじいになったら、誰ではなくて、その人が目指していることや、考えていること、感じていることを応援する。物としてのある人ではなく、抽象的な観念がじじいが相手にする対象になる。
組織だったら、その組織が目指しているものがじじいの対象になる。野球のチームが大会での優勝を目指していたら、優勝することに徹底的にこだわるのがじじいだ。誰がスタメンになるとか、誰ば4番とか関係なくなる。自分の成績や自分のチームへの貢献はどうでもよくなる。じじいはそもそも選手ではないだろう。コーチか監督かもしれない。自分のコーチとしての役割とか、監督としての責任とかもどうでもよくなる。優勝を目的として、自分がコーチや監督として適任でないなら辞めればいい。自分の代わりを自分で探してくるくらいでちょうどいい。
若い子にとっては、自分の成績が大事だろう。若いころは未来があるから、実績を積んでよりよい未来に向かいたい。じじいには未来はない。せいぜいあるのは現在。年を取るということは今できる最善を尽くすことに向かっていくということだ。半分消えかかっている自分ではなく、目的という見えない世界のないかに向かっていく。消滅に向かって全力疾走と言ってもいいかもしれない。
若いころは物が対象になる。雑念だらけなので、すべてをそぎをとして目的に忠実なることができない。自分の成績、それでほしいものを買う。家も車も、旅行も。それは家族のためであることもあるだろう。
じじいはいまさら良い成績なんか叩き出せない。物に執着したって、死んだら終わり。墓場までものをもっていっても仕方がない。
本分というのはよく武士の本分として使われる言葉だ。武士の本分は忠義だ。それでも、家柄や、禄や職位にしがみつく武士も多かったようだ。じじいだった、俗世の栄達や財産にしがみついたっていい。しがみつかない生き方もあるよということだ。
勤めている会社に忠義を尽くしたいという人もいるだろう。それでもかまわない。しかし、せっかく封建社会が終わったのだから。近代市民として、自由に自分が見つけた目的に忠義を尽くしたらどうだろうか。
正しいかどうかは問わない
目的が正しいかどうかはわからない。野球のチームが勝つことを目指すのは、間違っているかもしれない。企業が利益を目指すのも間違っているかもしれない。
勝つことに血眼なじじいは素晴らしい半幽霊だ。わき目もふらず利益をもとめる鬼畜のようなじじいもまさにこの世のものと思えない。
勝つことよりもチームワークが大事だという言葉は美しい響きを持つ。しかしただそれだけだ。じじいは言葉にこだわってはいけない。自分が選んだ目的に忠実にならなくては。
武士は、忠義のために敵を切り殺していた。博愛的ではない。忠義に生きると決めただけなのだ。じじいには博愛も美談も似合わない。じじいは正しく生きるのではない。ひたすら生きるのだ。
美しい言葉の響き、博愛精神。本当に正しいかどうかはわからない。そういう余分な着物はぬぎすてて、裸になっていくのがじじいの生き方だ。まわりに気を遣わない、純な生き方。虚飾を排した純な生き方。これがじじいの生き方だ。
いいお父さん、いい爺ちゃん、いい課長、いいおじさんみたいなことはなくてもいいんじゃないかと思う。私利私欲に走るじじいはかっこ悪いので、最後の修行として、何か目的に忠義を尽くしてみたらどうかと思う。
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