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あの日々を抱えて

2022.07.25

短歌研究

結局、kindleで購入した。
短歌ブームの特集でおもしろかったのは、岡野大嗣さんが短歌総合誌の原稿料に言及しているところ。僕もいつも疑問だったんだ。「300人の歌人が新作7首って……原稿料はおひとりおいくらなのだろう?」って。
あと、ナナロク社の村井社長の話と書店員さんへのアンケートが興味深かった。
読み終えた結果、「やはり僕からは遠いなにか」だった「短歌ブーム」。

三十一筆箋原画完売

最後の1点が旅立っていきました。
よかった……。

におみくじ

におみくじで「当たり」を引いた方には、リクエストをお聞きして、そのリクエストに沿った短歌を送ることになっている。送る際に「この短歌については、SNSで公開していただいても、していただかなくても構いません」と添えている。
当たりを引いた方が、お送りした短冊を自作で屏風風に額装した写真をアップしてくれた。
すごいすてき。

リクエストの内容は伏せますが、お送りした短歌は以下の四首。「あの」が多すぎるのは、僕も自覚していて気になりながらも、こうしか言いようがなかったのです。

その悔いで曇る幸せじゃないでしょう? あの頃のあの猫との日々は

あの猫が遺した置き土産だから心に空いた穴も愛しい

やさしさでひらくとびらがひらくのをとびらのむこうで待つ猫がいる

あの日々を抱えて生きてまた猫を抱えて生きていく道もある

2年

2年前のきょう、中学の時の友人Mのお通夜だった。
ちょうど『猫のいる家に帰りたい』を上梓したあとで、本の話を中学の同窓生らにもしていたので、「Mを見送る短歌を詠んでもらえないか」と依頼されたのだった。
もうそんなことはしないけど、Mだから詠んだ。詠んだ短歌は、もう忘れてしまったけれど。
僕にとって、Mは少し特別な存在だったのだ。憧れと言うか、眩しいような存在だった。

中学というのは、先日書いた「悼めなかった」という日記の中の「中学生日記」というエッセイの、中学だ。

Mは、同じ小学校出身で、同じバスケ部だった。
中学時代は、MともうひとりTと3人でいつもつるんでいた。馬鹿なことばかりやっていた。
ああ、そう言えば、その馬鹿なことの中からエッセイも書いたことがある。

2014年に突然思い立って、当時住んでいた街に行ったときも、Mのお店(居酒屋を営んでいた)に飲みに行って、そのままMの家に泊めてもらったんだ。
あのとき、会っておいてよかったな。
人は、死ぬ。

きょう作った短歌

「肌感」って変な語感なんだけど、昔からある言葉なのだろうか。

《世の中で一番信用しちゃダメなものは「肌感」(特に他人の)》

そんなに一般的ではない「テレビ語」みたいな感じだろうか。


そんなそんな。