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雨でダメ

2022.03.19

きょうも雨で、ダメだった。

『おやすみなさい(仮)』のこと

昨日、下記のように書いたけれど、巻紙とかじゃなくて、本当に封筒に入れて封をして販売すればいいのでは、と思った。
ただ、あんまり奇抜な感じにしたくないかも、という気持ちもあって、作るかどうかもわからないのに、ぐるぐる考え中。
静かなモノにするのがいいよね、きっと。

作るなら冊子かリーフレットかわからないけれど、オビではなくて、オビみたいな封(巻紙というか)をして、その封にかんたんな内容の説明と「すぐには読まなくてもいいです」みたいな文言を入れておくとかするといいのかも、と思った。

引き続き、反応が。
どこかの出版社が出してくれないかしら、とも思うけれど『これから猫を飼う人に伝えたい11のこと』が、あまり芳しくないから、同じように「読者を限定しそう」で「ボリュームのない本になりそう」な『おやすみなさい(仮)』も、あんまり積極的に売り込めない……。

流行ってる?

『たんぽるぽる』(雪舟えま)の文庫版が。
すごい。
先日、「今は詩歌にくわしい書店員さんがポツポツと現れ始めて、そのかたがたを起点に歌集や句集が売れている」みたいな話を聞いて「最終的には『人』だよな……」と思った。

『水上バス浅草行き』(岡本真帆 ナナロク社)も面白そうだし、売れそう。

先日、「木下龍也書店」にお邪魔したときに平積みされている数々の歌集を眺めて思ったことは「どの帯文も、すごく大仰だな……」だった。
「天才」や「才能」のインフレがすごい。
帯文というモノの性質上、仕方ないのもわかるし、そもそもこんなに歌集を「帯が見える状態(平積み)」で「一望」するような機会なんてほぼないはずだから、いいのかもしれないんだけど。
帯文を書くえらい人(?)はもうちょっと考えてあげてほしい、と思った。

それらに比べてこの『水上バス浅草行き』の帯文は、著者の代表作とともに「あの短歌のひと、」と書ける強さがいい。
「『あの』っていうほど?」みたいな意見もあるだろうし、あっただろうけど、知らなかった人は「『あの』って言われるほどバズったんだ……」と思うし、知ってる人は「ああ、あのバズってた短歌か……」となるし、虎の威を借る必要もなく、自立してて、とてもいいと思った。

個人的には楽天ブックスでも販売してくれると助かるんだけど……。

そして、『天才による凡人のための短歌教室』は、13,000部か……。まっすぐに羨ましい。コンスタントに10,000部売れる歌人、すごいよね。
凡人だからちゃんと読んだけど、木下さんは「惜しげもない感じ」がいいな、と思う。

オールドルーキー

僕は、短歌を始めたのが2004年だから35歳のとき。
短歌の賞には全然興味がなくて、(いや、「歌葉新人賞」の最後の回は少し興味があった。出せなかったけど)「商業誌に連載を」という方向に興味があって、2006年に『ネコまる』(辰巳出版 当時は「日本出版社」だった)で連載を持つことができて、(その後、『猫びより』でも連載を持てて)そこから13年を経て、2020年に初めての商業出版本『猫のいる家に帰りたい』(五行歌集『ストライプ』(市井社)もISBNが付いてるから"商業出版本"なのだろうか? 自費でもないんだけど、ギャラが発生していないから違うものとしている)を出した。これが51歳のとき。
もう始めた年齢から、デビューから、何もかも圧倒的に遅いのよ。
遅いことは、別にいいんだ。若いうちだったらできないことも、年の功でできたことだってあるだろうし。
ただ、ときどき若い人と話すときの立ち位置がしっくりこない。
こんな奇妙な経緯で、猫歌人なんていう肩書で、どうにかこうにか出版にこぎつけた僕には誰かにアドバイスできることなんてなにもないのだ。賞も取っていないし、なにか特別な才能があるわけでもない。何ひとつ成し遂げていないし、目指して頑張ってたどり着いたわけでもない、というかどこにもたどり着いていない。なんの成功例でもない。
むしろ今後、若い人たちが、どんどん世に出ていって、自分より立派なことになっていくに決まっているのだ。
それなのに、なんだか先輩面で話す自分が滑稽で仕方ない。

要するに「いい作品を作る」ことに尽きるのではないか。
それには「いい作品」の定義を自分で設定しないといけないから、たくさん考えて。
あと「どうなったらうれしいか」をめちゃくちゃ突き詰めるといいと思う。
僕が言えることなんて、本当にそれくらいなんだ。

そんなそんな。