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old boy

◆戸倉

 母校のバスケ部OB会に参加したことを、少し後悔をしていた。
 毎年8月にOB会の案内が届く。案内のハガキを眺めながら、夏の体育館を思い出していた。暑くて、息苦しくて、汗臭くて、甘美な場所だった。ドリブルの音、ストップのたびにキュッと鳴る床、顧問の吹く笛、ボールがネットを通過する音。絞ればしずくが落ちるTシャツ、転がるスポーツドリンクのボトル、パスを呼ぶ声。そのときは、そうすることが当たり前に思えて、往復ハガキの「参加」の文字をマルで囲んだ。いま思うと、魔が射したとしか言いようがないのだけれど。
 前に参加したのは、確か28歳のときだ。同期の高橋と倉山と3人で参加した覚えがある。15年ぶりにこの体育館に来た。今回、同期は誰もいない。知っている先輩も後輩もいない。それどころか、参加しているOBの中でもぽつんと抜けた最年長だった。来たばかりなのに、もう帰りたい気持ちでいっぱいになっている。

 (ひとまず着替えてみるか)

 体育館を出て、部室に向かった。在学中は新設校でピカピカだった校舎も体育館も、想像よりずっとくたびれている。それはそうだ。卒業してもう25年も経つのだから。
 バスケ部の部室の扉を開くと、煙たかった。若者がひとりくつろいだ感じで煙草を吸っていた。「あ、ちわーっす」と愛想笑いをしながら、椅子を空けてくれた。多分卒業したばかりのOBなのだろう。
 部室は、そのまんまだった。カビやホコリや高校生特有の脂っぽい何かで満たされていた。ああ、ここは変わらない、と思った。この部室で、高橋と殴りあい、『アドルフに告ぐ』をむさぼり読み、「回帰線」のカセットテープを借りたのだ。いろんな意味で暑苦しい場所だった。そして今も暑くて、煙たくて、臭い。名前も知らない若い卒業生に軽く会釈をして、部室を出た。
 体育館に戻り、サブのリングでシュートを打って遊んでいた。
 久々のボールの感触は、悪くなかった。シュートのときの指先の感覚は、自分で思うほどは衰えないものなのだ、と思った。スリーポイントシュートも、何投かに1本は「スチャッ」という心地よい音を鳴らしてリングをくぐった。気持ちいい。
 昼休憩が終わったのだろう。現役生がハーフ5対5の練習を始めた。みんな細くて、足が長い。そして下手くそだった。「バスケットボールはストップの競技だ」と教えられた。3歩以上歩く「トラベリング」は、最も恥ずべき反則だと教えられた。そんな人間から見ると、とにかく全員腰が高く、プレーが軽かった。その上、オフェンスもディフェンスも淡白だった。ゼッケンを付けているほうが、レギュラーメンバーなのだろうか。ゼッケン組の中で、ひとりだけ抜群に上手いヤツがいた。背は高くないけれど、速い。パス、ドリブル、シュート、ディフェンスのどれをとっても他のメンバーとはちょっとレベルが違っていた。完全にワンマンチームだな、と思った。しかもそいつが、とてもつまらなそうにプレーをしていて、このチームは弱い、と結論づけた。
 コート脇で座って眺めていると、マネージャーらしき女子が、お茶を持ってきてくれた。
「これ、ゼッケンのほうがレギュラー?」
「はいそうです」
「6番の彼、上手だね。なんて名前?」
「桂木ワタルです。彼が部長をやっています」
「ふーん。だろうね」

◆桂木

 きょうは朝から気が重い。
 OB会の日は、軽い練習後、昼からOB連合チームと現役生が試合をすることになっている。OB会という行事が好きになれないのは、OBたちの「ちょっと遊びに来た」的なユルい雰囲気が、現役側にも伝染して、練習がとてもだらしなくなるからだ。午前中の練習では、みんなどこか身が入らず、俺はずっとイライラしていた。昼休憩くらいからOBがポツリポツリ体育館に集まってきた。どこか浮かれたような会話が断片的に聞こえてくる。
 「おー、久しぶりー、お前いまどうしてるんだよ」「大学はどう?」「彼女は元気?」「今度飲みに行こうぜー」「俺たちの代の女子は誰が来んの?」「えー、お前らまだ付き合ってんだ!」「ジュース賭けてフリースロー勝負しようぜ!」「まだバスケ続けてんの?」「免許取ったんだ? 車は?」「そういえば2浪らしいよ」「10年で10キロ以上太ったよ……」「今年も弱いの?」「バッシュ、持ってないからスリッパ借りてきたよ」「あのこ、かわいいな」とかとか、圧倒的にどうでもいい話ばかり。そんなことは体育館じゃなくて、Facebookかなんかで話すといいんじゃね?
 なんというか、終わってるな……と思う。これ以上、この場にいたくなくて、部室に逃げた。
 部室の扉を開くと、煙たかった。覗き込んで見ると、2年上のOBである矢部さんが煙草を吸っていた。
「おー、桂木か。お疲れー」
 まるで自分の部屋のようなくつろぎ方で、気だるそうに話しかけられた。「……ちわす」
 思わず舌打ちが出そうになったのを、なんとかこらえて挨拶の声に変えた。部室で煙草とか吸うの、マジで勘弁してくれよなー、くっせーんだよ。最悪。特に必要でもないタオルを取りにきた振りをして、すぐに部室を後にした。OB会ってなんでやんの? OB会に来る奴らってなんなの? ほかにやることないの? バカなの?
 結局、昼休憩の残りは、部室と体育館を結ぶ階段に座って過ごした。「OBになっても、OB会には絶対に参加しない」と誓いながら。

 体育館に入ると、知らないOBがサブのリングで、シュートを打っていた。

 最初は見慣れないOBだから気になっていた。年齢もひときわ上っぽいし、しかもひとり。でもシューティングの様子を盗み見していて、目が離せなくなったのは、そのきれいなシュートフォームのせいだった。スリーポイントシュートの弧が、やけに高く見える。リングの真上から吸い込まれていくような入り方。あの人、上手い。

 午後の練習は、レギュラー対準レギュラーによるハーフ5対5から始まった。ゆるんだ空気は、部長の俺がいくら口うるさく言っても戻らないものなのだ。もう怒鳴ったり、怒ったりするのも面倒だった。
 OB、早く帰れよ、としか考えていなかった。

◆戸倉

「あの……、最初から入っていただけますか?」
 さっき部室でタバコを吸っていた若いOBがおずおずと話しかけてきた。
 14時になり、現役生との試合が始まろうとしていた。 
 ぼんやりしていたら、スターティングメンバーでの出場を命じられてしまった。シューティング練習で十分楽しかったので、内心「試合には出なくてもいいな」と思っていた。暑さと普段からの運動不足のおかげで、試合の前から息が上がっている有様だった。

「あー、うん。すぐバテると思うから、そのときは交代よろしく」
 7番のゼッケンをかぶり、再度シューズのひもを締め直した。

 両チームがセンターラインをはさんで向かい合う。並んだ現役生のレギュラー陣を眺める。改めて、細くて、白い。桂木ワタルだけが、ガッシリとしていて、アタリに強そうな体つきだった。拗ねたような、ふてぶてしい態度も、他のメンバーとは異質に見えた。
 審判は1年生だろうか。少し緊張しているようにも見える。互いに挨拶をしてから、センターサークルを囲む。両チームで一番身長の高い選手同士がジャンパーとして向かい合う。
 ザッと見渡したところ、身長的にもポジション的にも、マンツーマンの相手は桂木だった。

 「あー、6番つきまーす」と少し声を張って宣言したあと、小声で桂木にも「よろしく」と告げた。桂木は、無表情に会釈を返した。

 わかるよ。OB会、僕も嫌いだったから。
 まだ、わからないだろうな。それでもここに来てしまう気持ちなんて。

 審判がボールを垂直に投げ上げて、試合が始まった。
 さっそく桂木にパスが入る。
 少し腰を落として、ディフェンスにつく。
 桂木が、笑ったように見えた。あ、仕掛けてくる。左を抜こうとするモーション。これはフェイク。そこからそのままジャンプシュート、か。シュートの体勢に入り、桂木の持つボールが、彼の身体の正面に来る。ここ! ボールを下から上に「ポン」と、軽く突いてやる。下から上への慣性が働き、桂木はボールを掴み損ねた。ルーズボールを奪う。
 桂木が苦々しい顔をしている。

 わかるよ。お遊び気分のOBにやられるの、すごくむかつくよな。僕もそうだった。
 まだ、わからないだろうな。今の、体育館で過ごしている時間が、ものすごく「特殊」なことなんて。好きなことだけをひたすらできるのも、バスケットが上手いというだけで傲慢にふるまえるのも、この体育館にいる間だけだ。

◆桂木

 戸倉さんっていうのか……。
 さっきのシューティングが気になって、矢部さんに尋ねた。
「今年のOB会って矢部さんの代が幹事ですよね。少し歳が上のあのかたって、誰なんすか?」
「ああ、戸倉さんだよ。ほら、あの。県ベスト8に入った代の部長さん」

 噂には聞いたことがある。創部以来、これまでで最も強かった代の話。中学で県選抜だった選手が3人、偶然一緒に入学してきて、夏の大会で、県ベスト8まで勝ち残ったらしい。あまりに昔のことだし、ずっと2回戦どまりの俺たちにとっては都市伝説みたいな話だった。

 なるほど、どうりで上手いわけだ。ちょっとおもしろくなってきた。

 OBとの試合開始の時間になった。
 俺のマークは、戸倉さんだった。
 試合開始早々、1対1を仕掛けて、あっさりボールを奪われてしまった。県ベスト8の話を聞いたからかもしれないけど、なんだか見下されているように感じた。この人には負けない、と強く思った。
 戸倉さんのプレーは、速いわけでも、高いわけでもなかった。ただ、なんかやりにくかった。ディフェンスのときの距離感がいやらしい。抜こうにも、外からシュートを打とうにも、とても目ざわりな距離にいる。

 さっき取られたお返しに、ここは絶対に1本取り返すつもりでいた。
 戸倉さんはゆったりとボールを受け、そのままスリーポイントラインより外からシュートを放とうとした。
(え? そんなのやらせるかよ!)
 思わず身体が反応して、シュートブロックのために足が浮く。
(跳んじゃダメだって!)
 試合前に、あのきれいなシュートフォームとその軌道を見ていなければ、こんなにあわてなかったのかもしれない。
 完全に身体が浮いた俺の左側を、ズンと一歩目で抜いてそのままレイアップシュートを決められた。
 俺の方がずっと速いし、ずっと高く跳べるのにやられる。つまり、上手いんだ。

◆戸倉

 視野が狭くなり、頭がぼんやりする。夢の中で走っているみたいに、身体が重くて進まない。そろそろ本当に無理、と思い、ベンチにその旨を告げた。

 まだ第1ピリオドも終わっていないのに、だらしない。そういえば現役の頃は、まだ20分ハーフの前後半で1試合だったな。スリーポイントの制度が導入されたのも、僕が現役の頃だった。スリーポイントのラインがこの体育館に引かれた日のこともよく覚えている。
 ベンチから交代選手が出て、オフィシャルに告げている。次にプレイが止まると、自動的に僕はお役御免となる。カットインが1本決まったし、大満足だった。

 プレイが止まる前に、桂木がボールを持った。
 これが最後の1対1だろう。

 現役のときから、オフェンスよりディフェンスが好きだった。そのことでよく変人扱いされていた。
 ディフェンス力は、つまるところ「観察眼」だ。シュートの射程圏や右ドリブル、左ドリブルの得手不得手、フェイクのくせ、ジャンプ力、パス能力などをインプットしておき、次に相手が何をするつもりか、を瞬時に考える。考える、というよりは、情報に殉じて、身体が反応する感じ。
 僕が一番反応しづらいのは、「本当にシュートを打とうとしてやめる」という、フェイク(偽物)ではないフェイクだ。だから自分がオフェンスのときは、常にシュートを最初に考えることを心がけていた。

 桂木のフェイクは、確かに上手い。でも最初から「ここでフェイクを入れてやる」と決めているように見えた。だから、ボールを持ってからリングに意識が向かうまでが、ちょっと遅い。そのちょっとの間にディフェンスは態勢を整えるのに。

 桂木がグッと膝を折り、直接シュートを打つそぶりをみせた。これはフェイクだとすぐにわかる。さっきのハーフ5対5から、この試合で今に至るまで、桂木はこの距離からシュートを打っていない。
 わかるよ。このあとわずかに右で抜くと見せて、勝負は左のドリブルでのカットイン、だろ?
 桂木の得意の型なのだろう。そのパターンで、きれいに抜いていく姿を、今日何度か見ている。
 予想通り、シュートのフェイクの後、一瞬だけ首を右に振った。
 そのすぐあと、僕は(今!)と右にステップを踏み、桂木の左ドリブルのコースを塞ぐ。
 (完璧なタイミング!)と、自画自賛したいくらいだった。だったのに。
 桂木は左足とクロスさせて大きく踏み出した右足を戻し、軸足に引きつけながら、再度グッと膝を折った。
(え、ここからジャンプシュート? 届かないだろ?)
 コースを止めに入っていた僕はバランスを崩し、身体は大きく右に流れていて、シュートブロックに跳ぶことすらできなかった。桂木は、すうっと真上にジャンプした。高い。
 あとはもう眺めるしかなかった。
 ジャンプの最高到達点から、わずかに落ちてきたタイミングで、ボールが放たれる。美しいジャンプシュートだった。見とれてしまった。
 「ガゴン」という音とともに、ボールがリングに吸い込まれた。
 思わず「おー、ナイッシュー(ナイスシュート)」と、声に出してしまった。
 桂木は、無表情を作っているように見えた。

 もう、足が動かない。

 交代して、ベンチに戻った。置いてあったアクエリアスをがぶ飲みして、仰向けに寝転がる。

 あいつ、あんなシュートも打てるのか。なんだか急に可笑しくなってきた。やっぱりバスケはおもしろい。

 試合が終わり、OBは全員着替えて、三々五々、二次会という名の飲み会に向かった。(飲み会は、もういいや)と、酸素の足りない頭でぼんやりしていると、現役生に取り囲まれた。
 なんだなんだ? ああ、なんかそういう風習あったな、そういえば。
 OBが来たときは、練習の最後、全員集まって、OBから一言もらうのが常だった。すっかり忘れていた。突然囲まれて、話すことが思い浮かばなかった。

「えー、15年ぶりにバスケをしました」
 桂木が「えっ」という表情をしたのを、僕は見逃していない。
「現役のときは、OB会ってすごく嫌いで絶対行かないって思ってたんだけど」
 なにを話しているのだろう、僕は。
「バスケットする人のことを、英語でケイジャーって言うんだって。『ケイジ』ってカゴのことな。そのまま訳すと『カゴの人』なんだけど」
 てっきり先輩風を吹かされると思っていたのか、それともよほど話が見えなかったのか、現役生は不思議そうな顔で僕を見ていた。
「一度バスケを好きになると、そのカゴから逃げられなくなるんだ、多分。それくらいしか僕がここにいる理由が思い浮かばない。どうせみんなも同じカゴのムジナだから、きっとまた会うことになるよ。そんときはよろしく」
 一斉に「ありざしたーっ」としか聞こえない挨拶をされて、なんだか締まらない顔になってしまった。
 全員が顔を上げたあと、桂木だけが小さく、短く、でも意思を持って「ありざしたっ」と再度挨拶をして走っていった。

◆7年後(エピローグ)

 暑い。
 商談を済ませて、取引先の会社を後にする。
 駅までの道は、緑が多かった。公園では盛大にセミが鳴いている。仕事でなければ、一生来る理由がない普通の住宅街を歩く。右手に学校が見える。中学校だろうか。
 体育館から、ドリブルの音と笛の音が響いている。いまあの体育館の中には、嘘みたいな量の汗をかきながら、何の疑いもなく走ったり、停まったり、怒鳴ったり、笑ったり、泣いたり、泣かせたりしている奴らがいる。

 それに比べて、と思う。
 もう何年全力で走っていないのだろう。いつ以来本気で怒っていないだろう。愛想笑いばかり上手くなった。流す汗はもれなく嫌な汗で、流す涙はもれなく悔し涙だ。
「ふーっ」
 わざと声に出して、長く長くため息をつく。

 仕事を終えて、1人暮らしの部屋に戻ると、実家から封書が送られてきていた。OB会の案内のハガキが入っていた。母が転送してくれたらしい。
 夏だな、と思う。むんとした体育館の熱気が、脳内で再現される。ああ、いいなぁ、と、うっとりしたところで我に返った。

「カゴの人、か」

 桂木は苦く笑いながら、ハガキの「不参加」をマルで囲んだ。(了)

〈初出〉『日常キングダム』(2011)

そんなそんな。