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東京大好き (#東京嫌い に寄せて)


私は東京が大好きだ。

私は東京出身ではない。アンチ東京の多い大阪出身だ。

だから地元の友達には「東京が大好き」とはなかなか言いづらい。


東京在住21年。今となっては独り言も「標準語」になってしまった。

関西人の友達と喋る時もなぜか東京弁だ。

以前は「関西弁スイッチ」というのがあって、関西の人と喋るとすぐにスイッチオンして大阪弁が炸裂していたというのに、いつからか分からないが大阪弁が出てこなくなってしまった。これはもう死活問題だ。地元の友達とうかうか喋れなくなってしまった。どんだけ非難されるか想像しただけでも恐ろしい。

「東京に魂を売ったな」と、白い目で見られることは間違いない。

でも何故そうなったかをじっくり考えてみると、それは子供たちの存在だろうと思う。

上の娘は28になるが、彼女が小学校1年の時に東京へ引っ越してきた。友達がたくさんでき、人生初の勉強も東京でスタートした。息子においては言葉を話す前から東京に暮らしている。なので脳内の言葉は初めから東京弁だ。

そうなると家の中での会話は必然的に標準語になる。その方がコミュニケーションがとりやすい。なので私も自然と東京のことばを話す時間が増えていった。


人によると思うが、自分の気持ちを表す時、ニュートラルな気持ちで言葉にできるのは標準語だ。

大阪弁だと本音は出るけど少しだけエグミが加わる。もっとウケを狙いたくなる。大阪人の本性が爆裂して私という人間を超越してしまう。本当はそこまで振り切っていないくせに、何故か大阪弁だと振り切らなくてはいけない義務感に襲われる。この感覚はなかなか伝わりにくいだろう。

とにかく今となっては標準語が一番自分の気持ちにフィットする。

そう。気持ちとのバランスがちょうどいい具合に取れているのが東京弁なのだろう。今となっては「お引っ越し」を「おしっこし」と言ってしまうし「真っ直ぐ」を「まっつぐ」という方が言いやすい。

これは非常になんとも信じがたいアイデンティティ崩壊の事案なのだが本当のことだから仕方ない。


東京には私の「自由」がある。そして一人で生きていこうとする「決意」と「自信」と「覚悟」がある。自分の足で立って歩いてきた痕跡がある。東京でできた友達は私個人のパーソナリティーだけを価値観に選んでくれたという「確信」がある。私が私であることを肯定できる素養がたくさんある。だから東京は私の味方だと思える。そしてともに歩んできた同志だと思う。

東京が好きだ。私は東京が大好きだ。これからもここで生きていく。

ありがとう、東京。

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