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脳内が人生で一番忙しい1年


昨年の3月4日。父が亡くなって1年が経とうとしている。

ちょうどコロナが騒ぎ始めてまもない頃だった。


「お父さん、入院したから。もしもの事があるかもしれないから、覚悟しといて」

実家からの突然の電話から、わずか五日ほどで呆気なく父は旅立った。


夜中に知らせを受けた次の日、居住地の東京から実家の大阪へは新幹線で帰省した。平日の朝9時。車両内はかなり空いていた。あぁ、やはりコロナの影響なんだな、とまだはっきりしない頭で考えた。


お父さん、死んだんだ…。


現実は理解している。でも実感はまるでなかった。

父と最後に会ったのは4年前の夏。なんと7年ぶりに里帰りした夏休み。

親不孝だったなと思う。2度の離婚。最初の結婚が失敗に終わり、北関東の居住地から当時2歳になる娘を連れて出戻ったのは27歳の夏だった。

離婚に関して父は私に何も言わなかった。一言も。

連れ帰った娘を、言葉少なに溺愛してくれた。

娘と私の二人暮らしの新居を、実家のすぐ近くに探してくれたのは父だった。新しいハイツで、小さな娘と二人で暮らすには少し贅沢な気がするほどに広々とした間取りだった。

「ほら、あんまりにも狭苦しいところだと…。気が滅入るだろうから」

一言そう言った。ありがたかった。きっと私の気持ちを察して、余計な言葉は極力避けていたのだろう。


離婚から1年ほどして私に新しいパートナーができた。私はその当時、この先の人生を一人で娘を育てていく覚悟ができていなかったのだと思う。ずっと一人でいることは想像できていなかった。彼氏ができたら自然と再婚するものと信じて疑わなかった。十分に私はまだ若かった。


両親に新しいパートナーを紹介するとき、すでに私のお腹の中には新しい命が宿っていた。

最初に母に打ち明けた。母は驚いて、喜びよりも心配の方が大きかった。父に何て言おうかと、戸惑っていた。母から父に事情を伝えてもらい、パートナーが挨拶に来ることになった。

パートナーは父とすぐに打ち解けた。二人とも無類の酒好きだったことが幸いし、杯が進むごとに父は上機嫌になった。

「どうか、娘と孫をよろしく頼みます」

そう言ってパートナーに頭を下げてくれた。嬉しかったし、もの凄く安心したのを今でもよく覚えている。


翌年、私は息子を出産した。里帰り出産で実家にひと月ほど世話になった。

その間、子供好きの父はしょっちゅう息子を抱き、5歳になった娘とよく遊んで可愛がってくれた。

特に娘と父は仲良しで、最初の離婚の際に母子家庭になった時、いつも娘を連れてあちこち出掛けてくれた。山に登ったり公園に行ったり、暇さえあれば娘を自転車の後ろに乗せて散歩に出掛けた。

思い返すと、私が小さい頃も父はよく私たちきょうだい4人を遊園地や山登りやプールに連れて行ってくれた。父と出かけるのはとても楽しかった。本当に子煩悩な人だった。


2度目の離婚は今から10年前。結婚生活は13年間だった。

その時も父は私に何一つ言わなかった。叱責されて当然の事態にも、父は私に何一つ言わなかった。

二人の子供を抱えて再びシングルマザーになった私は、地元に帰らず東京に残ることを選択した。

「元気で。頑張ってな。何か困ったことがあったらいつでも電話してな」

それだけ。攻める言葉はひとつもなかった。


4年前、最後に実家に帰った時に父はまだ元気だったけれど、かなり耳が遠くなっていて体も痩せていて少し心配だった。東京に戻る朝、別れ際に父は私に「握手しよ」と言って手を差し出した。少し照れながら父の手を取ると、予想外にぎゅっと力を込めて握り返してきた。その手の感触が今でもハッキリと思い出される。

私は何故か「あぁ、こんなふうに別れの挨拶をするのもこれが最後かもしれないな」とふと頭をよぎり、「お父さん、ハグしよ」と言って父に抱きついた。ふふふと笑いながら、父は嬉しそうに私の背中をトントンとたたいた。

抱き合ったまま私は父の耳元に「また来るからね、元気でね」と言った。

父はうんうんと頷き、体を離すと案の定涙ぐんでいた。あぁ、私は親不孝だな。そう思った。


父は時々、自室から電話をかけてきた。

「いや、なんも用事はないんだけどな。元気か?」そう言って。

「元気だよ、お父さんは?腰痛い?自転車乗ってるの?お散歩してる?」


毎回、会話の内容は同じだ。それでも定期的に父が電話をくれると、最後に握手してハグした時のことを思い出して少しだけ悲しくなって。心の中で「ごめんね。親不孝で」とつぶやいていた。


実家からの知らせを受け、実際に亡くなったその顔を見るまで実感はなかったけれど、仏間に敷かれた真新しい布団に寝かされた父の顔は、生きていたあの時の顔とは全く違っていた。白く美しく、シワもシミも何ひとつなく、とても穏やかで美しい顔だった。目の前にいるのにそれが父だとはにわかに信じがたかった。でも、それはもう仏様のお顔で、何故かとても安心感を与えた。穏やかに逝ったんだな、もうこの世には何ひとつ思い残すことは無くなったんだな、と思わせてくれるような、この世のものではない尊いお顔だった。


父が亡くなってからの日々はある意味壮絶だった。残されたものたちはそれぞれの思惑を互いにぶつけ合い、これまでとは違った関係性へと変化していった。それでも今こうして私はこれまでと同じく、ここ東京で子供達と仲良く幸せな暮らしを続けられている。これも父が天国から見守って、いい方向へと導いてくれたおかげだと感謝している。


毎朝、大阪の方角に向かって手を合わせている。コロナは相変わらず落ち着かない。身内との関係性も落ち着かない。それでも私の中では完全に解放された。そのことはもう、私自身の問題ではないと言い切ることができるようになった。この1年間、頭の中はこれまでの人生で一番忙しい時間を過ごしてきた。そして間違いなく私は新しい自分になった。天国に行った父はいつも私のそばにいる。もう遠くから電話をかけて来なくてもいいよね。いつでもハグするような距離に感じているから。もう寂しくないし、心配もいらないよ。だから安心してね。


父の葬儀の時、読経の際に祭壇の父の穏やかな笑顔の遺影を見つめていると、ふと父の声が聞こえた気がした。

「ええか、令和2年3月4日。 にぃ、さん、しぃ、やで。覚えやすいやろww」

そう言って、父が笑った。とても穏やかで優しい顔をして。










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