見出し画像

第九回 『大人相談会』 / 「拘り」と「手放す」


今回のテーマはなかなかムズカシイぞ……と少し構えて挑みました。

と言いますのもこのテーマ、私がこれまで生きてきた人生において最も大きな課題であることは間違いないなと薄々感じていたからでして。

一言で「拘り」と言っても人それぞれで、でも皆さんの意見を聞いてみるとそれが顕著に出るのはやはり仕事に対することが多いように感じました。

私の信念は、仕事イコール常に全力で頑張るもの。そして必ず結果を出すまで頑張り抜くことだったのです。若い頃は。

若さとは色んな意味で傲慢です。自分はやれる。絶対できる。だから頑張らない人やテキトーな人をゆるせなかった。なぜやらないの?どうしてもっと頑張ろうとしないの?そう思っていました。そして先回りして人の分まで「私がやったほうが絶対速いし結果を残せる」と断言して仕事を取り上げていました。いや、その時は取り上げているなんていう意識すらなかったです。それが当たり前、普通だったのです。あくまでも自分の中では。だから後々、色んな意味で自分の首を絞めることになるのですけれど。

それでも若さとはそういうものではないかと思います。未来に希望を持っていました。もっともっと高いところまで行けると信じていました。何者にでもなれると思っていたのです。根拠のない自信だけは人一倍持っていました。そして頑張る自分を褒めてほしかった。認めてもらいたかった。「そんなに頑張らなくてもいいよ」「もっと肩の力を抜いて」なんて言われたらがっかりしました。期待してほしかったし負荷をかけられることが大好きでした。私もそうなのですが、根が真面目な人は「頑張りすぎる」がデフォルト傾向にあるように思います。そして自分のことを何故か「めんどくさがりで怠け者」という。だから要するに「好き」なのだろうと思います。頑張ることも追い込むことも、負荷をかけることも。本来の自分とは真逆のところへどこまで高めることができるか、常に勝負に挑んでいるような感覚が。

自分一人で好きなように良かれと思って頑張っていると、周りの人達に何かしら影響を及ぼしてきます。「なぜ頼ってくれないの?」「信じてもらってない気がする」「仕事を全部一人で抱え込んで回してくれない」など、思ってもいない迷惑や悪い影響を与えてしまっていたという方もいました。

視野が狭かった。他人を信じていなかった。人に任せるということの本当の意味を分かっていませんでした。甘えるという意味が分からなかったし諦めるという言葉は罪だと思っていました。


いつ頃から変わり始めたのでしょう。遡って考えてみると、私の場合は子供が成長してきた頃だと思います。子供のほうが詳しい事が増えてくると、私自身が親の目線ではなくなって一対一の関係性に変化していきます。その辺りから「できない」「わからない」と言えるようになりました。人によっては身体を壊したとき、精神を健康に保てなくなったときという意見もありました。きっかけは違っても、多分自分の限界を目の当たりにしたときではないかと思います。

年を取って、肉体的にも精神的にも頑張りがきかなくなったとき、自分の「できない」を知ったとき、初めて感じる敗北感のようなもの。それを受け入れるまでには時間がかかったけれど、現実は現実として受け入れるしかないことに気づきます。ある人はそれを何かの文章で読んだ際に心に刺さった「柔らかな諦観」と仰いました。自分が「できない」ことに向き合い、受け入れ、認め、ゆるす。そうして初めて見えてくるものがたくさんあったと。

それからは自分にも他人にも優しくなったというのは私にも身に覚えがあります。そして拘りやプライドは役に立たない荷物、或いは時に人を傷つける刃物だと知る。それらの要らない荷物や武器を手放したとき、先入観や思い込みやつまらないバイヤスは消え、一気に視野が広がりました。苦手な(だと思い込んでいた)人と気負いなく話せるようになったし、自分の物差しで人を計らなくなりました。そして他人に任せる、委ねることの大切さを知るのです。と同時に自分の小ささを知る。頼ること、甘えることの幸せを知る。なんと知らないことの多いことか!を、知るのです。


「十四才の感性を人は一生引きずる」という言葉を教えてもらいました。主に美意識のようなもの、感覚的に好きなものや審美眼的なものでしょうか。十四才と言えば中2です。私の十四才の記憶をたどると、明けても暮れてもテニス漬けの日々でした。あのとき何を思って生きていたかな?ある人は自分の好きなもの、好きなことが定まった頃だと仰いました。大人になって日々の暮らしに忙殺され、忘れていたことを、この頃少しずつ思い出してはまた余暇の楽しみとしてあの頃のように熱中できるようになったと言います。そして「あぁ、自分はこれが好きだったんだよな」と改めて思い出したらしいです。ステキですね。そんなふうに自分の軸となるようなブレないものを持っているかどうかで人生は何倍も楽しいものになるような気がします。

そこにあるのは「拘り」でしょうか。私は少し違うニュアンスを感じました。もっと柔軟で楽しいもの。自分の好きを思い出して久しぶりにハマってみるなんて、夢があっていいですね。そこにあるのは拘りというよりも単純に「好き」という感情のみ。もっとピュアでシンプルなもの。それは紛れもなく自分という人間の芯の部分に大きく反応する魂の欲求だと思います。そしてそれこそが生きていく上で最も大切な感性なのではないかなと思いました。


若い頃は傲慢で頑なで視野が狭かったと多くの人が仰いました。それは自意識であり自分自身への期待や自信だったように思います。そんな自分を今では「あれはあれで必要だった」と言えるしたくさんの失敗や人を傷つけることで気づいたことが山ほどあります。だからこそそんな自分も今はまるっと認めることができる。そして多くのことに気づくことで重ねた経験は今現在へと確実につながっている。そう考えると全てを肯定することができるのではないかと思います。

拘ることも、手放すことも、実はどちらも同じ線上にある。いいことも悪い事も同じ。自分も他人も同じ。そのどちらにも執着せず、起こること全てを認め、ゆるし、肯定した先にはきっと美味しい人生のデザートの時間が待っているように思います。できるかどうかは自分次第。でもきっとできます。そうしたいと思う気持ちが何より重要なのだと思います。

参加してくださった皆さん、ありがとうございました。









おかげさまで「大人相談会」は次回で第10回を迎えることになりました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

*随時会員募集中です!ご興味のある方はTwitterのDMまでメッセージください


#大人相談会 #拘る #手放す #コミュニケーション  




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?