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Cafe SARI . 11 「 The Boy Next Door 」

梅雨入り間近の5月末金曜日。朝からスコールのような雨に打たれて出勤し、今日一日がきっと台無しになると予想していた。予想はいつでもなるべく最悪の状態を想定しておいた方がいい。それより少しでもマシな結果であれば、それだけで救われる。

横山奈緒子 32才。 不動産会社営業事務 独身。

奈緒子のトレードマークは漆黒に艶めくストレートのショートボブに黒縁のウェリントン型メガネ。そしてダークカラーのパンツスーツ、余計なアクセサリーは付けない代わりに口紅は真っ赤と決めている。足元は10センチを超えるピンヒール。いかにもデキる女は大きな黒のリュックにノートパソコンを入れて背中に背負い、カツカツとヒールを鳴らしていつも前のめりに歩く。ぱっと見はあまり男ウケしないスタイルだ。ちょっと怖い。だけれどそれでいいと思っている。今の奈緒子にとって、それらは自分を守る鎧のような意味合いを持っていた。武装したように見えるそのスタイルは、まるで自ら男を遠避けているかのようにも見える。要するに、隙がない。


大学を出て就職した不動産会社に勤続10年。お客様と自社営業マンとの橋渡し的な仕事は、半分以上が電話でのクレーム対応だ。いきなり電話口で怒鳴られることは日常茶飯事。奈緒子の場合、そんなことぐらいでは全く心は折れない。むしろ相手がヒートアップすればするほど、頭は冷静沈着、スーーーっとクールダウンしてくる。後輩の若い女子社員たちはこのクレーム電話に耐えきれず、早い者だと3日で根をあげて辞めていく。それらのフォローをして更に、自分のデスクワークは秒速タイピングでやっつける。残業はほとんどしない。その完璧な仕事ぶりに対して社内では誰も奈緒子に頭が上がらない。

奈緒子は表では「先生」影では「毘沙門天」と呼ばれている。武神として知られる毘沙門天は甲冑で武装し、鬼の形相、足の下には邪気という邪の者を踏みつけ、いかつい顔で真っ直ぐ前を睨みつけている。いかにも強そうなそのいで立ちは、手強い敵たちを全て一人で捌いてくれそうな頼もしさとエネルギーに満ち溢れている。

「先生に任せておけば大丈夫。本当に頼りになるね、奈緒子さんは」

皆が一目置くその存在感は、確かに無敵の毘沙門天さまのようだ。その強靭な精神力で過酷な仕事を捌き続け、今では女子社員の中で一番の古株になった。しかしこれは奈緒子にとって決して喜ばしい事態ではない。


奈緒子が描いていた未来予想図はこんなはずではなかった。入社2年ほどで社内恋愛の男性と結婚、最初の2年は二人だけの自由で甘い新婚生活を存分に楽しみ、3年目に子供を出産。家族3人の余裕のある暮らしを、東京都心から少し距離をおいた二子玉川あたりの都会と自然が両立した恵まれた環境の中で、最新設備が完璧に整ったタワマンに暮らす。そう、計画はどこまでも自由でどこまでも高く。それが仕事を頑張る糧にもなっていた。


ところが、だ。そう簡単には問屋が卸さないのが現実というもので。

社内の男性はほとんどが既婚者だった。同期入社の滝川雅人は最初から恋愛対象外だった。小太りで色白でいつも額に汗を滲ませている雅人は奈緒子のタイプとは大きくかけ離れていた。性格は穏やかで優しいと言っても、それだけでは好きにはなれない。奈緒子の好きなタイプはもっと男らしくてわがままで、俺についてこいというぐらいの強引さがある、強い男が理想だった。

入社3年目、仕事にも慣れて余裕ができた頃に知り合った取引先の上野純也とは2年間付き合った。絵に描いたようなイケメンで仕事ができると回りからの評判も良い純也は、奈緒子の理想にもっとも近い相手だった。もうそろそろ結婚へのアプローチがあってもいいな、と思っていた矢先、純也には5年付き合った彼女がいることが判明した。偶然見つけた純也のインスタグラムに仲良く写っているその人は、まるで奈緒子とは正反対のタイプだった。柔らかな栗色のウエーブヘアが華奢なノースリーブの肩にかかり、いかにも「守ってあげたい」タイプの女の子。奈緒子は二股をかけられていたのだ。即刻その写真を突き出して問いただした。しかし純也は悪びれもせず、これをいい機会にと奈緒子に別れを切り出した。

「今まで本当にありがとう。俺、奈緒子のことすんげぇ好きだったよ。でも俺にはやっぱ奈緒子は勿体無いよ。奈緒子にはもっといい人が必ずいるから。俺なんかと遊んでないで、本気になれる彼を早く見つけて。俺には腐れ縁のアイツぐらいがちょうどいいんだよ。応援してるよ。奈緒子、幸せになってくれな」

意味わかんない。なんだって?腐れ縁のアイツって誰?聞いてないし。もっといい人ってどこに行けば見つかるんですか? あんた、今すぐここに連れてきてよ。

心の中でのたまったけれど、いざとなると口には出せないものだ。責め立てようとする相手を黙らせる「ありがとう」という最強の言葉をうまく使って、純也に先手を打たれた奈緒子はなんと答えればいいのか分からず、「こちらこそ今までありがとう」と言いたくもないお礼を言い、なりたくもない聞き分けのいい女になって純也と別れた。

悔しくないわけはなかった。腹が立たなかったわけでもない。でも例え「別れたくない」とすがりついても、もうすでに奈緒子から心が離れた純也をもう一度引き戻すことは不可能だろうと予想はついた。自分の非を突きつけられた純也は開き直ったようにやけにサバサバとして、心はすでに此処にあらずというのは見ていて明白だった。そんな男にいつまでも執着している時間はない。次を探さなくては。奈緒子は素早く忖度した。

意外にもそれほど落ち込むことなく、奈緒子は綺麗さっぱり純也のことは諦められた。というより、あと3年ほどで30才になる自分の年齢を考えると、グズグズしている暇はないと、その瞬間切り替えることに心血を注ごうと決意した。決めたら即行動。奈緒子は切り替えの早い己の性格に自ら感謝した。

あれからすでに5年の歳月が流れ、すっかり恋人のいない生活にも慣れた。30才まではなんとか相手を見つけようと婚活に励んだが、そのボーダーラインを超えた瞬間、何かがプッツリと途切れた。それはある種の諦念にも似た、まるで苦しい修行を積み上げた僧侶のように、あらゆる執着を手放した清々しさだった。これからは自由に生きよう。奈緒子は素直にそう思えた。いや、そう思うことで自分を励まし、仕事に専念することでなんとかこれまで踏ん張って生きて来れたのだった。


今夜は金曜日。明日の朝はいくらでも寝ていられる。しかし週末の連休というのは、独り身にはなんと無駄なご褒美だろうと奈緒子は思う。一日で十分なのに。二日間も一人で何をすればいいのか。時間を持て余すことは目に見えている。だったら土曜日の半日は寝て過ごせばいい。そうだ、そうすればあと一日半だ。一人で過ごす時間が少しでも減るのであれば、金曜日の夜はとことん飲もう。


奈緒子はこうして毎週金曜日は CareSARI のドアを開けるのが習慣になっていた。


「こんばんは沙璃さん」

「あら、いらっしゃい奈緒子さん。そろそろ来る頃だろうと思ってたわ。お腹空いてるでしょ?ちょうど今、奈緒子さんが好きなロールキャベツが出来上がったところよ。いい具合に煮込んであるわ」

「わぁい、嬉しいなぁ!これで今週も頑張って生きてきた甲斐があった!」

「何をオーバーな。ロールキャベツごときに人生懸けないのww  ねぇ、何飲む?」

「じゃぁ、シャンディガフ!」

「オッケ〜」


奈緒子はカウンターの一番端の席に座り、その隣の椅子にノートパソコンの入った重いリュックを置いた。金曜の夜は大抵 CafeSARI は満席だ。こうしてカウンター席を二つも占領するのはいささか心苦しいが、奈緒子は偶然隣に居合わせた知らない誰かに不躾に話しかけられるのが嫌いだった。沙璃もそれがわかっているから何も言わない。もしもこの後、来店客があったらもちろん自分のリュックは床に置く心づもりはできている。できてはいるが、沙璃が促さない限り、それに甘えて他人に干渉されない一人飲みと沙璃との会話を存分に楽しみたい。それがいまの奈緒子の生活の、唯一の贅沢な時間でもあるのだった。


沙璃は手早くシャンディガフを作った。よく冷やしたビアグラスに三分の一ほどドライジンジャーエールを入れ、その上から静かにビールを注ぎ入れる。仕上げにライムを一絞り。女性ウケがいいこのカクテルは喉越しが良く、とても飲みやすくてお酒の弱い女性や若い世代に人気だ。

奈緒子は目の前に置かれたグラスに手を伸ばし、口をつけようとした時だった。


「そういえば、昨日ここに彼が来てたわよ。あの、なんて名前だったかな?」

沙璃の予想だにしない言葉に一瞬、純也の顔が浮かんだ。

まさか。ここに来始めたのは純也と別れて2年以上経った頃だ。ここへ二人で来たことはない。そう、沙璃さんが純也を知っているわけがない…。

「え…。誰?」

「ほら、去年の年末、会社の忘年会の後に二人で来てくれたじゃない」


……あぁ、なんだ。雅人のことか。


昨年の忘年会は同じ部署の仲間内だけのひっそりとしたものだった。余りにも盛り上がりに欠け、飲み足りない気持ちを片付けるために、たまたま忘年会で隣の席に座っていた雅人を誘ってここへ来たのだ。



「へぇぇ。奈緒子さん、こんなお洒落なお店でいつも飲んでるんだ」

「誰にも言わないでよ。ここは私のとっておきの場所なんだから」

「う、うん。わかった!内緒だね。誰にも言わないよ」


その時沙璃から見た二人の第一印象は、単なる気の置けない同僚と映った。特に奈緒子は雅人に対して異性という認識が悉く薄いように見てとれた。むしろ気を遣っているのは雅人の方で、時折、隣の奈緒子の様子をチラチラと伺いながら終始機嫌よく飲んでいた。あぁ、この二人は残念ながら恋愛には発展しそうにないな、沙璃はその時はそう感じた。


奈緒子はその夜のことを薄い記憶を辿りながら思い出そうと努力した。隣にいたのが雅人だということ、明日から年末年始の休みに入ること、その長期休暇を一人でどのように過ごそうかと少しヤケになっていたことなど、完全に気力の抜けた状態だった。いつもよりかなり飲んでしまったと気づいたときには終電を逃すかというギリギリの時間だった。沙璃に促されて店を出たあとの記憶が定かでない。

店を出た後、足早に駅へと急ごうとする雅人に対して、なぜか奈緒子は無性に腹が立ったのだ。理由はよく分からなかった。そんなに早く帰りたいのかよ、そんなにこれ以上私と一緒にいたくないのかよ、終電をわざと逃すという選択肢は、私が相手じゃ微塵もないのかよ。多分そんな感じだ。今となってはその時の自分の気持ちにほとほと呆れてしまう。ただの酔っぱらいの絡みだ。


「ねぇ雅人ぉ、待ってよ!そんな早く歩けないよ!あたしは一応女なんだよ?ちょっとは気を利かせてよ!」

確かそんなようなことを口走った気がする。そして無性に悔しくて、腹が立って、情けなくなったのだ。理解できない自分の感情は更にあらぬ方向へと暴走した。気がついたら涙が溢れて溢れて、止められなくなっていた。

びっくりした雅人はひたすら平謝りした。ごめんなさい、電車が、奈緒子さんが、いや、その、逃したら、帰れない、スミマセン、僕のせいで、とかなんとかとにかく慌てて謝り倒した。

通りの真ん中で大泣きする奈緒子に、道行く人たちがジロジロと冷たい視線を浴びせかける。雅人は慌てて奈緒子をなだめようとするが、火のついた赤子のように大声でわんわん泣きわめく奈緒子にオロオロするばかり。そんな雅人のパニクる姿を全く気にすることなく、何故か奈緒子は泣きながら心が解放されてゆくような錯覚を覚えた。


『なんか、気持ちいい……』

大泣きする奈緒子は自分の姿を心の中で俯瞰して見ながら、腹の底から沸き上がる怒りや恨み辛みのような感情を涙と共に解き放った。なんだろう、この感情は。自分を捨てた純也に対して?理不尽な客たちのクレームに対して?毎日誰よりも多くの仕事量をこなしているのにそれに見合った感謝や報酬がないことに対して?わからない、わからないけれど、とにかくこんなにも我慢していたたくさんの負の感情が、自分の泣き喚く声で弾かれるように堰を切って怒涛の如く流れ出る快感に我を忘れて陶酔していた。


その次の瞬間、突然何か温かく柔らかいもので全身をくるまれた。

酔いが回った頭で朦朧としながら薄目を開けてみると、雅人が奈緒子の身体をその両腕ですっぽりと抱きすくめていたのだった。

奈緒子の背中に回した雅人の手のひらが、まるで赤子をあやすようにポンポンと拍子をとる。


『なんだこれ、なんか気持ちいい……』

ふんわりとした雅人の身体に密着する感触。じんわりと伝わる雅人の温かい体温。分厚くて柔らかな雅人の手のひら。繭玉のなかにスッポリと包まれているような安心感。あぁ、この感覚。これこそ私が求めていたものかもしれない……。


ハッと我に返った。なんなんだ。なんで雅人なんだ。そんなはずはない。雅人じゃない。雅人なんかじゃないはずだ!

パニックを起こした奈緒子は雅人の腕を力一杯振り払い、駅に向かって猛ダッシュした。途中、それでも脳内の片隅にほんの少しだけ残っていた冷静さが奈緒子を引き止めた。立ち止まり、後ろを振り替えると雅人に向かって大声で叫んだ。


「お疲れ様!また来年、よいお年をー!」


全く可愛くない。そして雅人に対して大きな借りを作ってしまった。あぁ、無理。マジでムリ。なにやってんだ私は。


年が明け、初出勤の日。奈緒子は自分のあの醜態のことはすっかり忘れたふりをした。というのも、謝る準備をしていた奈緒子に、雅人は何事もなかったように普段通りの新年の挨拶しかしなかった。あの時雅人もかなり飲んでいた。もしかしたら本当に忘れているのかもしれない。そのままお互いあの時のことには触れなかった。そしてそのうち本当に、奈緒子の記憶から砂時計の砂がサラサラと抜け落ちるように自然と忘れていった。



「雅人、ここにはよく来るんですか?」

奈緒子は沙璃に尋ねた。

「あれからは月に一度ぐらいのペースかな」

知らなかった。会社で CafeSARI の話は一度もしたことがない。

「そうなんだ。私、全然知らなかった。雅人、なんで言わなかったのかな…」


沙璃は少し迷った。ここにいない客の話はしない。それは沙璃の中での決め事だ。噂話は元々好きではなかったが、店の外で関係性のある人同士の話は第三者である自分からはすべきではないと思っていた。いいことも、そうでないことも、目の前にいるからこそ本音で話せる。そうでなければただの軽薄で無責任なゴシップでしかない。それは沙璃の美意識に反することだ。でも、この5ヶ月間、月に一度訪れる雅人の様子から、雅人が奈緒子に淡い恋心を抱いていることは明白だった。そして、話していてその人柄にとても暖かで優しい、情が深い人間性を感じていた。ここは一つ、雅人の恋心に力を貸してあげたい。沙璃は二人がもしうまくいけば、きっと素敵なカップルになるだろうと予想できた。それほど雅人は奈緒子に惚れていることを確信していた。


「ねぇ、奈緒子さんは雅人さんのこと、どう思ってるの?」

「えぇ?どうって・・・」

「雅人さんってとてもあったかくて優しい人だと思うんだけど。違う?」

「うん、まぁ…そうね。確かに彼は優しいわ」

「彼ね、いつも奈緒子さんのこと見てるんだなって感心するのよ」

「へ? 何それ。どういうこと?」

「この前もね、『今日は奈緒子さん、いつもより元気なかったんですよね。きっと体の具合が良くないんだな。このところずっと残業続きで疲れてるから。奈緒子さんは誰よりも頑張り屋さんなんですよ。だから僕、心配なんです』って言ってたわ」


あ…。そういえば、一週間ほど前、月のものが始まる前のイライラがピークの時、いつもより落ち込みが酷くて士気が上がらなかった日があった。昼休み休憩の後、ランチから戻ったら机の上に鉄分とコラーゲン配合の女性向け栄養ドリンクが置いてあった。一体誰だろうと思ったが、仕事の忙しさですっかりスルーしてしまっていたのだった。あれはもしかして雅人だったのか。


よくよく考えるといろんなことを思い出してきた。残業続きで疲労がピークの時は必ず一緒に残って仕事を手伝ってくれた。帰り時間に予期せぬ雨が降った時は、予備を持ってるからといつも傘を貸してくれた。奈緒子の推しのライブのチケットをすごい執念で取ってくれたり、奈緒子が興味を示したスタバの期間限定豆をついでだからと奈緒子の分まで買ってきてくれたり。いつも優しいなぁと思ってはいたが、どれもこれもさりげない行動で、決して奈緒子に気を遣わせるようなことはしない。奈緒子にとっては「同期のよしみ」ぐらいにしか感じさせないように振る舞う。本当はどれもこれも、奈緒子のためにわざわざ時間とお金と労力をかけたことだったと、今になってみて初めて気づいたほどだ。


ふと、あの時の感触が蘇ってきた。

泣き喚く奈緒子の身体をすっぽりと抱き抱えて、ヨシヨシと宥めるように背中をポンポンしてくれた、あのあったかい手のひらの感触。雅人のちょっと小太りな体型が、こんなにふんわりと心地よいものだと初めて知ったあの瞬間。なんだか無性に気持ちよくて、泣きながら身を委ねることに快感を覚えたあのひととき。あの安心感。あの穏やかな一瞬を。

刺激とかトキメキとか、四六時中頭の中から離れないで翻弄されるような恋愛の醍醐味などは微塵もないけれど。気づけばいつもそばにいて、助けてくれたり慰めてくれたりする存在は決して同期のよしみというだけの、当たり前の行為ではないと、今更ながら奈緒子は気付くのだった。


「奈緒子さんにはとても素敵なバディがいるのね。羨ましいな」

「バディ? 雅人が? 私の?」

「そうよ。相手に気を遣わせないで常に寄り添うことって、実はとても難しいことだと思うな。それは愛がなければできないことだもの」

「愛…」


炭酸が抜けてすっかりぬるくなったシャンディガフと、冷めてしまったロールキャベツを呆然と見つめる奈緒子。沙璃は黙ってそのグラスと器を引いた。

「奈緒子さん。目の前にある大事なものって、熱が冷める前にしっかりと自覚しなければ、いつまでも同じ状態は続かないものよ。失くしてしまう前に、もう一度その大切な存在をしっかりと掴んで離さないようにしないとね」


「……沙璃さん、私、今夜は帰ります。話したい人がいるの」

「そうね。それがいいわ。ゆっくり話してらっしゃい。きっと彼、喜んでくれるわ」

「あの……、沙璃さん、ありがとう」

「どういたしまして。こちらこそ、ありがとうございました。またいらっしゃい。大切な人と一緒に」



当たり前なんてない。それは奇跡で、有り難きこと。人が人を想う気持ちは何よりも美しく、何よりも尊い。そして自分が愛されていることに気づかないことほど、愚かで悲しいことはない。人は人と寄り添い、愛し合い、感謝し合う。それが人としてどれだけ大切で素晴らしいことか。奈緒子は身をもってこれから始まるであろう人としての最大の幸せを、今日という日の最後に与えられた喜びで満たされていた。

今朝の予期せぬスコールは、最悪な一日の始まりのはずだった。予想は見事に外れた。これだから人生はわからない。これだから人生は楽しい。

奈緒子は弾かれるように席を立ち、足早に店を後にした。と、思った瞬間、再度扉が勢いよく開いた。

「沙璃さん、ありがとう!」


奈緒子のみずみずしく元気な一言に花を添えるように、ビルのピアノが軽やかに店に響いていた。



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