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2024年1月1日、私は「当事者では無い暴力」についてモヤモヤした。

この記事は、
能登半島地震についてや、
震災に対しての描写、
新型コロナウイルス感染症による公演の上演中止についてが含まれています。

ご了承頂いた上で読んでいただきますと幸いです。


自分が当事者と言えない何かが起きた時、
「当事者では無い暴力」を気付かずに犯しているのではないかと漠然と不安になる。
でも結局個人によって受け取り方が違うから、ただしい方法なんて無くて。
じゃあ結局自分の為に安否確認LINE送ってるのかなって、でも何もしないのは違うよなと。

自分が当事者であったと確実に言える出来事は、コロナの影響で卒業公演が俳優座劇場で出来なくなった時。

その時の自分は、最初は送ってくれる連絡を見ることすらも絶望って感じだった。
けれど後々、
「自分を少しでも支えてくれようと思ってくれる人が私にはいるんだ」と自分を支える希望になった。

暫く経ったあと、
「残念だったね」とか
「大変だっただろうなって思ってた」とか言ってくださる人もいた。
その全てに感じるわけでは勿論ないけれど、
「思ってただけ?行動はしてくれないの?」
って私は今でも時々感じてしまう。

だから、結局自分が嫌だと思う自分にはなりたくないから「大丈夫!?」って連絡したり声をかけたりしているんだと思う。

でもそれは後からそう思っただけであって、送る前に考えていることでは無い。
純粋に大切な人が生きていて欲しい。っていう意思表示である。

でもやっぱり、
「大丈夫?」って聞かれたら「大丈夫」って返すしかないし、きっと他にも大切に思ってくれる人から連絡が来ているわけだし。

だから相手によってはそういう
「心配の暴力」だったり、「数の暴力」だったりになってしまうのだと思う。その可能性がある中で、私は「『あえて何もしない』という行動を取らない」という決断を今回はした。」というだけという私の中の結論。

はあ…書き出したはいいものの、スッキリはしない。
他の方々はどんな考えを持っているんだろう。知りたい。

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