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想い出の旅3 初夏、九十九里浜 nagao

 ゴールデンウイークの中日、初夏の浜辺を、弟がコルネットを高らかに吹き鳴らしながら先頭を行く。

 そして、五人の若者が後に続く。右側は大きな波が寄せては返す九十九里の海、左側は海岸の砂浜から畑が遠く続いている。波の規則的な音が心地良い。

 私と弟、従兄弟二人、それに弟のバイト先の友達二人、みんな二十歳前後だ。

 九十九里海岸駅に降り立ち、まっすぐに海に出た。真昼、正午の光のなかを歩きだした。快晴。風は気持ちよく陸から吹いています。

 単純な風景の中、どこまでも歩こう。海の色が少しづつ変わっていく。

 三時ごろだったろうか、行く手を阻む人の群れがあり、海には舟が出ている。人々はみな海を見ています。まもなく、地引網を皆で引き始めました。縄は二本です。

 「みんな手伝おう。」

 六人は、「こんにちは」、と言いながら太い縄にとりつきます。皆で掛け声を挙げながら、縄を引く。網はなかなか上がってきません。

 ようやくにして網が上がってきました。大漁だろうか。みんなが喜びの声を上げる。魚が撥ねる。魚が撥ねる。大小さまざまな魚が撥ねます。

 私たちにも捕れたての魚を分けてくれました。大きなアジとサバ、それに小魚だった。みんなに別れを告げて、また歩き出します。

 コルネットはトランペットの兄弟のようなラッパだ。誰かが変わって吹くけど吹奏楽部だった弟のようには綺麗に鳴り響かない。それでも誰かがルイ・アームストロングの真似をして、「聖者が町にやってくる」を吹いたりした。

 太陽は真上から陸の方へと移り、太陽は四分の一円を頂点から落ちるように廻っていきます。そして太陽は赤い夕陽に変わっていきました。夕暮れの海は波も赤く染まります。

 運よく魚が手に入ったので、日が暮れる前に、すこしだけ野菜でも調達しよう。陸の畑に入るが、よくわからない。青菜があればいいけど。ちょうどいいのを見つけてきて、間もなく行くと、壊れかかった小さな小屋を見つけた。「浦の苫屋」だ。

 「見渡せば花も紅葉も無かりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」という定家の歌を想い出した。今は初夏の夕暮れだけどまあいいか。いや、それより、「我は海の子白浪の、さわぐいそべの松原に、煙たなびく苫屋こそ、我がなつかしき住家なれ」がいい。

 その辺りで、石を集め、簡単な竈を作り、用意してきたナベと燃料と水筒の水を使って、魚と野菜を煮炊きし、おにぎりとともに軽い夕食を食べました。

 遠い彼方で明かりがつく。わずかに海に突き出した当たりで、明かりが明滅しています。燈台だ。あの辺りが銚子だろうか。

 日中歩き通しだったし、日に当たって歩いたから、みんな眠くなっていた。仮眠しよう。朽ち果てそうな小屋の壁に凭れて、居眠りした。どのくらい寝たろうか。みんな少し元気を取り戻し、明かりのある遠い北に向かった。気がつくといつの間にか海風に変わっていました。

 ようやく銚子駅に着き、一番電車まで、充分時間があった。食べ、眠り、待つことにしました。

 電車に乗るとみんな再び眠りにつきます。私は夢の中で、また、どこまでも単純な風景の中を歩いていた。
 
 木漏れ陽の、まだら模様の中を
 きみとなら、どこまでも歩いていきたかった
 
 きょうのように、いつまでも、どこまでも
 雨が降り出しても、気にせずに
 あの日のように、突然の土砂降りになっても
 
 どんな道でも、いや、道なんかなくても
 眩い陽ざしの中を、きょうのように、いつかまた
 きっと、きみのように、大好きな誰かと歩いていこう

 





 

    

 


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