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『小さな家の思想-方丈記を建築で読み解く』文春新書を出して㉑長尾重武

 「本書は、鴨長明及びその作品「方丈庵」の解釈、そして中世日本建築史の研究に一石を投じる刺激に満ちた著作である。それにしても、イタリア建築史の大御所がこの極日本的な「小さな家」のテーマに惹かれ、研究対象とした動機、背景についてもっと深く知りたいと思うのは、私だけではないだろう。」(陣内秀信)⑰

 次の三点に分けて、見てみたいと思います。

 1. 「小さな家」のテーマ
 2.なぜ、『方丈記』か
 3.「方丈庵」とは何か

 今回は前回に引き続いて、

 3.「方丈庵」とは何か

 『方丈記』は高校で、国語の教科書で学び、そこに、方丈の庵が出てきます。わずか、3メートル四方の小さな家です。

 清少納言の『枕草子』には、平安後期の宮廷生活の機微が描かれて興味深いのですが、家そのものが重要なテーマとして取り上げられることはほとんどありません。

 吉田兼好の『徒然草』にも、「家は夏向きを旨とすべし」という記述があって、なぜなら冬は暖房をすればしのげるが、蒸し暑い夏はどうにもならない、など、他にも、家一般についての断片的な記述は出てきます。

 鴨長明の『方丈記』は、自分の生い立ち、成長するに従い、家の体験に触れ、生家から出て祖母の家を継ぎ、そこから出て、30歳ころ、鴨川の畔に「一つの庵」を結びます。これが祖母の家に比べて、10分の1の大きさになり、60歳頃に、やはり庵を、こんどは日野山に建てますが、前の庵に比べれば、100分の1だというわけです。

 日野山の庵を「方丈庵」と呼んでいるわけですから、それが、2、25坪、逆算すれば、その前の庵が、225坪、祖母の家が、2250坪ということになります。これは驚くべき変化です。

 おそらく、建築関係者は、この庵を復元したくなると思います。室内にしつらえられたものについても記述がありますから、それもふくめて復元を試みるでしょう。しかし、誰もが、そこまででで止まってしまいます。
  
 『方丈記』は内容豊かで、記述には深い意味を込めているのに、皆さんはそれを無視しています。

 2005年の春、大学の3年生の課題に、「小さな家」という課題を出しました。小さいだけではなく、小さいのに豊かな家を探してこよう、という課題でした。例として、方丈の庵、と、ル・コルビュジエのカップマルタンの休暇小屋をあげておきました。

 みんなのレポートはなかなか面白く、色々な小さな家が集まりました。その中に、二人が、同じイラストをもとにした図を提出してきたのです。方丈庵の鳥観図としてその屋根・天井を外して、内部を描いたものだったのです。

 テキストを読んで復元したものでもなく、ネットから拾ってきたものが元でした。それで、ネットを調べるとすぐその出典が分かりました。 

 一目見て、これは変な復原図だと思いました。テキストからはこうはならないのです。

 そこで、私は、当時、東大建築史の研究室の藤井恵介さんに、電話して、教えてもらいました。建築史研究として、『方丈記』はどれくらい論じられているのか、と。

 中村昌生さん、西和彦さん、斎藤英俊さん、小泉和子さんの名が挙がってきました。その内容もおおよそ教えてもらい、それらを確認することにしました。

 建築史研究以外にも建築計画系の研究者や建築家達も、『方丈記』に関心を持ち、調べた方、復元した方も多いですが、ここでは省略します。

 中村昌生さんは下鴨神社の河合社に、方丈の庵を実際に復元して建てていました。西和彦さんは、彼の著書の中で学生に出した課題の結果を掲載しているだけでした。

 斎藤英俊さんには直接聞きました。あのイラストは小泉さんがイラストレイターに、私の復原図をもとに描かせたもので、明らかに、私の案の孫引きです。復元図はどこに載っているのかと聞くと、長尾さんにも謹呈した『桂離宮』のなかのコラムだ、と言います。そこまではちゃんと読んでいず、『桂離宮』にあたって、すぐに確認できました。

 唐木順三の『中世の文学』を愛読していた私にとって、上述の研究内容、方丈の庵の大きさや形や素材、その他、建築的なことだけでは満足がいきませんでした。

 例えば、唐木さんの、≪すきーすさびーさび≫といった美学的な思想的展開を記憶しているものとしては、それらを含めた当時の時代精神や思想が表現されているに違いない、そう思いました。

 すなわち、日本のことですから、仏教との関連はどうなのか。また、古代から中世への過渡期ですから、それが表現しているものはもっと深いのでは、と直感しました。方丈の庵の建築を通してそれが解明できないだろうか。

 すでに、鴨長明全集も出ていて、彼の著作のすべてに眼を通せますし、関連文庫本もかつてに比べれば、はるかに手軽で、かつ充実しています。つまり、長明の著作のすべて見眼を通せる状態でした。長明の歌論書『無明抄』も仏教説話集『発心集』も読めますし、彼の和歌の全貌も知れるのです。

 『方丈記』を読めば、方丈の庵は、東半分が、庇部分を含めて、食う、寝る、生活の場。西半分が、南は、琵琶、琴をおき、和歌管絃の場、北は、阿弥陀如来、普賢菩薩を掲げ、法華経をおき、南の竹の吊り棚の上には、和歌管絃の資料、往生要集の抄物、置かれています。以上重要情報満載です。

 そこに、「小さな楽園」や「小さな家」といった別の前提を絡ませることもできるような予感をもって研究が始まりました。

 その過程で、略本「方丈記」のこれ研究を踏まえ踏まえつつ、大胆に推理を重ね、それが、完成した組み立式のモバイルハウス以前の構想が記してあることにきずきました。すなわち方丈庵のプロトタイプが示されていたのです。庵とは何か、草庵とは何か、という問いに応えが出てきました。

 そして、長明は『無明抄』にも『発心集』にも数寄について論じ、彼は、和歌・管絃にも通じた数寄者だと評されていたことが分かりました。自然と数寄の系譜が描けるはずです。同時代から、後の時代へ、数寄が茶数寄に展開し、さらに江戸時代時代の芭蕉、北斎、一休へとつながり、近・現代の小さな家へと流れていきました。

 『形の生命』という、フランスの美術史家アンリ・フォシオンの本があります。形そのものでも面白いのですが、その内なる生命に触れたときに、はるかに豊かな相貌が見えてくることを忘れるわけにはいきません。

 陣内さん、答えになっているでしょうか。以上で、鴨長明の『方丈記』、「方丈庵」をめぐる話は一応終わりにします。ありがとうございました。

 

 


                       

 

 





 

    

 


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