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【エッセイチャレンジ②】息子たちが教えてくれた価値観のずれ

私には息子がふたりいる。

長男はよく食べるのになぜか痩せている。切長の目の印象も相まってわりとスタイリッシュだ。形の良い耳やつんと尖った顎など、骨格自体はまぁまぁハンサムだと思う。(親バカ)
お腹が空くとすぐに機嫌が悪くなるので、我が家の冷凍庫にはいつも彼のために肉まんやチルドの焼きおにぎりが常備されている。

次男は年齢のせいもあるだろうが、長男よりずっと肉付きが良い。顔なんてどこから見てもまんまるで、世界一完成された球体だと思っている。 (親バカ)
おっとりした印象とは裏腹にゴリゴリの戦隊ヒーロー好き。かっこいいか、そうでないかが彼のすべての評価基準。公園に行くと良い棒を探して永遠と彷徨う系男子だ。

『一姫二太郎』という言葉がある。面倒見がいい女の子が長子の方が育てやすいとか、そんな意味らしい。その言葉に影響され、はじめての妊娠がわかったとき私は女の子が欲しいと思ったし、なんとなくそうだろうという根拠のない確信があった。

だからなかなか性別がわからず「たぶん女の子」と言われたときは「ほうらね」と思ったし、臨月で「男の子です」と断定されたときは、すでに女児用水着まで買っていた義母になんで言えば…と狼狽する羽目になった。

そんなこんなで生まれた長男だが、最高に可愛くて、面白くて、女の子が欲しかった気持ちなんてどこかへ消えてしまった。癇の強い子で苦労もあったが、アホ可愛い男の子育児が妙にしっくり来た。
たぶん次も男の子だろうなぁ、男の子だといいなぁ、と思ったら、4年後にまた可愛い男の子に恵まれ現在に至る。


男の子を7年間育ててみて感じるのは、生物学的にも精神的にも自分とは違う生き物なのだということ。
これが、すごく良いのだ。彼らを客観視できる。

「なんでこんなことするの?」と自分の理解を超える愚行をしでかしても、「あぁ男の子の不思議で諦めることができる。
実は性別の問題ではなく彼らの注意不足が原因のやらかしがほとんどなのだけど。私はあえてそう思い込むようにしている。

というのも、私は母に同一視されて育ったと感じている。
『女の子は主張しすぎない方が良い』『女の子は自分から告白なんてしちゃダメ』『大事にされる女の子は男の子に対しても潔癖』『清楚な女の子が愛される』
そんな謎の価値観を事あるごとに押し付けられて育ったため、家を出るまでなかなか拗らせていた。

彼氏がいるのに他の男の子とデートするような女の子には引いて気持ち距離を取ったし、付き合う前に関係を持ってしまうような女の子のことは心底軽蔑した。そんな私の態度を感じ取り、離れていく子もいた。 

結婚後も私の中の母は根強く残った。嫁として母として選択を迫られたとき、いつも私の頭の中に住む『小さな母』に相談し、彼女ならどう行動するか考えた。
母、母、母。母の同意がないと何も決められない。私は自分の価値観をきちんと育ててやらないまま大人になってしまったのだ。

私の生きづらさは本来自分のものではない価値観を持ってしまったことで感じていた、違和感によるものだった。それに気付かせてくれたのが、他でもない幼い息子たちであった。

「デュクシ!デュクシ!」

男子特有のオノマトペを聞きながら、誰かに教わったわけでもないのにすごいな…男子DNA…なんて思いつつ、今日も彼らがいる世界に感謝する。健やかすぎる成長を今日も噛み締めている。

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