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「どっちもどっち」言説と「どっちか」言説の非有効性

南米コロンビアで、4月末から全国的な大規模デモが発生し、5月10日現在も続いています。死者・負傷者も多数出ていて非常に深刻な状況となっています。報道では、新型コロナの感染拡大による財政逼迫を受けた税制改革が、デモのきっかけとされています。ただ一方で、実際にはもっと複雑な社会・経済・政治・歴史・文化的背景があるというのが、僕の理解です。

僕は、現在、現地で暮らしている/滞在している訳ではないので、現地の温度感は残念ながらわかりません。現地の報道や現地の友人・知人のSNSの投稿を通してしか知ることができない、という限定性があります。そうした自身の状況をまずは前提として分かっておいてもらったところで、自身の思うところを書いてみたいと思います。

コロンビア人でもない、現地在住者でもない、日本という安全圏にいる自分が、今コロンビアで起こっていることを書く資格はない、という意見もおそらくはあるでしょう。確かに、そうした意見については、自身も「まったくその通りだ」と思う節もあります。しかし一方で「部外者は発言するな」という趣旨の言説は、某国が常套句とする「内政干渉だから発言するな」という言説とベクトルは同じで、それは多様な意見の排除に繋がります。

また、現地人・現地在住者は他国の人よりも自身の国のことを判っている、という言説は、一部は「正」であり、一部は「誤」だとも思います。僕は日本にいますが、日本のことを本当に深く理解している、とは自信を持って言えません。おそらく多くの日本に暮らす人もまた、そうなのではないでしょうか。

とは言いつつも(やけに前置きが長いですが、これぐらい慎重さを持って触れる必要があるセンシティヴな問題だということもご理解ください…)現在のコロンビアにおけるデモについて、事実関係に基づいた分析的な発言をすることは、現状、僕にはできませんし、控えたいと思います。情報が錯綜しており、且つ、情報を発している人の政治的立場・所属機関・社会階級によって見え方がまったく異なるためです。フェイクニュースが混じっている可能性も十分にあります。フェイクニュースとまではいかなくとも、翻訳記事では誤訳も生じることもあります(かく言う僕自身、誤訳の混じった翻訳記事をシェアしてしまったこともあります…)。正確な情報を得るには、十分な慎重さをもって臨まないといけません。

なので、ここで書くのは、僕が目にしたコロンビアのデモについての言説(言及)から、事実関係に基づいた情勢分析ではなく、そこに表れている視点についての問題点を考えてみる、ということです。でも実は、ここで取り上げるような言説は、コロンビアのデモに特化した特殊性のあるものだけでなく、実は、一般に流通するようなことにも当てはまる普遍性を帯びたものではないだろうか、とも思ったりします。

ここで取り上げるのは、2つの言説です。

1.「どっちもどっち」言説

今回、コロンビアのデモにおいて一部が暴徒化し、それを受けて警察や治安部隊が出動しました。国内第3の都市カリ(Cali)では、デモ隊に対する治安部隊による発砲があり、それに対して、国連の人権高等弁務官事務所が懸念を示しました。

こうした暴力の連鎖に関連して、デモ隊の方は暴力行為をおこなった、一方で治安部隊が鎮圧のために発砲したのはやりすぎだ、だから、どっちもどっちではないか、という言説があります。この「どっちもどっち」言説は、2つの点で誤っているのではないか、と僕は思います。

①国家と市民のあいだに「権力」の差があることを無視している。

国家と市民、どちらが強い権力を持っているか、それは国家であることは明白です。国民主権なのだから国民だ、とは思いたいですが、警察や治安部隊が出動すれば市民はひとたまりもありません。やはり国家権力は強大です。

両者のあいだに厳然とした「権力の差」がある時に、この「どっちもどっち」言説を用いることは誤りです。「A=B」ないしは「A≒B」のような両者の力が拮抗している関係であれば「どっちもどっち」と言えますが、「A>B」ないしは「A<B」のように両者に力の差がある関係では言えません。なので、どっちもどっちではなく、権力を持っている方・強い方が、自制しなければなりません。

デモ隊の暴力行為はまた別の問題で、それはそれで法による裁きをおこなえばよいのです。政府は「左派」の武装組織が関与している可能性があると言っているそうですが(ここでは関与があることが事実かどうかは別として)、それならそれで”正当な”証拠を提示して、法による裁きをおこなえばよいのです。強大な権力を持つ国家の側が、武力の装備では格段に劣るデモ隊に対して発砲してよい、という理由にはなりません。

あと、言及しておかなければならないこととして、デモで暴徒化したのは「一部」であることです。センセーショナルな場面(写真や動画)は、シェアされやすいし、人の印象にも残りやすいです。その印象をデモ全体に拡大して考えることは誤謬です。実際には、デモ参加者の多くが平和的な活動をおこなっています。そのことを見誤ってはいけません。

②「どっちもどっち」と裁定している、その第三者とは誰か?

「どっちもどっち」言説は、いわゆる「喧嘩両成敗」のニュアンスも含んでいます。「成敗」というだけあって、そこには裁定者としての視線があります。でも、そう考えると、なんだか奇妙なことが起こります。

その国家に居住し、市民であるという意味で、まさに当事者である人が「どっちもどっち」言説を用いることは往々にしてあります。当事者の人が、第三者の目線で、国家と市民の両者を裁定している。当事者でありながら第三者である。なんだか禅問答のようです。

国家の中に組み込まれている以上、市民である以上、第三者であることはあり得ません。第三者的に冷笑系を気取る方がかっこいいと思っているのかもしれませんが、当事者である以上、第三者として存在することはできません。すでに「巻き込まれてしまっている」以上、その問題に向き合わざるを得ないのです。

この「どっちもどっち」言説に関連して、最近読んだ『10代から知っておきたい あなたを閉じこめる「ずるい言葉」』森山至貴著(WAVE出版 2020年)が面白かったので、おすすめしたいと思います。

その1つに「どちらの側にも問題があるんじゃないの?」の項(p.24-29)があるので、興味がある方は読んでみるのも良いかもしれません。

ただ、さらに言うと、国家(治安部隊)と市民(デモ)、どちらを支持するのか、どちらかの立場に必ずつかなければならない、というふうには僕は思っていません。それについては、次の節と関連します。

2.「どっちか」言説

現在のコロンビアのドゥケ(Iván Duque)政権は「右派」とされています。歴史的に見てコロンビアは長らく右派系が強く、ラテンアメリカ諸国が「左旋回」していた時期(2000年代)においても、変わりませんでした。政府と「左派」武装勢力のあいだで長い内戦が続いていた(現在進行形とも言えるかもしれません)こともあると思います。

今回のデモについても、政府側は左派勢力が関与していることを示唆しているようです(何度も繰り返し言いますが、これが事実かどうかはまた別です)。一部の市民の中にも、デモには左派武装勢力や左派政権ベネズエラの関与があると発言している人もいます。このように、政府とデモ隊の対立には、右派/左派の二項対立が透けて、いや、むしろ判りやすいくらい、くっきりと見えてきます。

ちょっと話が大きく逸れますが、先日、NHKの番組を見てたら、その中で非常に興味深い話がありましたので、その話をさせてください。

出演していた研究者の方の説明によると、現代において、性別は「男/女」という完全に区分化されたものとして捉えるのではなく、男女のあいだは連続したグラデーションのようになっている「性スペクトラム」という概念で捉えられているとのことです。検索してみたら、科研のページもありました。

この「性スペクトラム」という概念、既存の二項対立の考え方に、ほとほとうんざりしている僕にとっては、すごく面白い概念です。

とは言え、わざわざ「性スペクトラム」を持ち出すまでもなかったかもしれませんが、現実を見てみると、二項(とされるもの)が完全に分かたれてはおらず、二項(とされるもの)のあいだをウロウロしている、ということは、いろいろな場面で見かけます。多くの人はそのことを直感的・経験的に分かっているはずだとは思うのですが、やはり二項対立構造に絡めとられて(もしくは自ら嵌まり込んで)しまっています。

このスペクトラムの観点からすれば、二項対立的な「どっちか」言説が無意味なものとなります。あらゆるものは、その「あいだ」にしか存在せず、あるとすれば程度の差くらいです。その差も、相対的なもので、常に変化にさらされます。

二項対立の構図は非常に判りやすいので、飛びつきたくなる気持ちも分からなくはないです。でも、それに飛びついたところで、現実の複雑性は変わらず、その複雑性に目を背けているにすぎません。

実際に、目の前に広がっているのは、あらゆるものの「スペクトラム」です。そのスペクトラムの中では、自身の立ち位置が揺らぎます。自身の位置付けは、他者(人だけでなく自然やものも含む)との関係性の中でいくらでも変わりうるからです。

揺らいでいることは不安定なので、人によっては不安を覚えるかもしれません。でも、常に自身の立つ場所が揺らいでいるということは、周囲との関係性の中で、自身が今どこにいるのか、どこを向いているのか、常に自省を促してくれます。

このようなスペクトラムの中では、自己は他者との関係性の中にあり、他者との関わりを無視することはできません。そこにおいて、他者との対話(相互作用)が生まれます。「どっちか」言説は対立・分断を再生産しますが、そこから脱却することで対話・相互作用を生むことができます。

もし、本当に国家がデモ隊との対話を求めているのであれば、「どっちか」言説を再生産することは得策ではありません。そして「どっちもどっち」言説の節でも指摘したように、両者に厳然たる権力の差がある以上、「どっちか」言説を放棄する行動を起こす、暴力の行使を自制する必要があるのは「どっちもどっち」ではなく、権力を持つ国家の側であることは言うまでもありません。

そのようなことを思っている僕ではありますが、遠隔地にいる今の僕にできることと言えば、次のようなことぐらいでしょうか。

名前も顔も判らない・会ったこともない何者か(スペクトラムの中では自己からは遠い存在)に相対することからはちょっと距離を置いて、優先すべきなのは、名前も顔も知っている・触れ合った仲の良い友人や知人(スペクトラムの中では自己にとても近い存在)に精いっぱいの応援を贈ることくらいです。

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