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不幸という才能について

いつからだろうか。
不幸な境遇 というものになんとも言えぬ感情を抱くようになった。可哀想とか同情とかそういう憐れむようなものではない。不安定な未知に胸が熱くなる、憧れや羨望に似た不思議な感覚。

これまで20数年生きてきたが、私には誰もが「それは不幸だね」と共感するような災難は無かった。突然この家は無くなると言われ、急に家無しになった時はびっくりはしたが、それは驚きであって不幸とは程遠い。

ここでいう不幸とはなにか。
例えば、両親が幼くして亡くなるとか、親のDVで毎日傷跡があったとか、絶望的に貧しい家で全てを諦めざる得なかったとか、母が不安定ヒステリーで皿が飛んでくるとか、理不尽に膨大な借金を背負わされるとか、親友が目の前で自害したとか。そういうのは、誰もが納得する不幸なのではないか。それらを不幸だと決めつけるのは良く無いが、自分だったらちょっと想像しただけでぞくっとして、真剣に考えたら泣いてしまうくらいに嫌なことを並べてみた。(もし読んでくれている人の中で、似たような経験がある人がいたらごめんなさい。)

冒頭で、''憧れや羨望に似た感覚''とは言ったが、当たり前だが決して不幸になりたい訳ではない。前述した出来事達に比べれば対した波乱もなく、平和で幸せな人生を送らせて貰っていることに対し、心の底から感謝している。

でも「不幸な体験がある人」程、人々の心に刺さる良い文が書けることは間違いない。太宰治も芥川龍之介も、文豪と言われる人達は負の中で生きてきた人が多い。ゴッホなどの芸術家や、ベートーヴェンやモーツァルトなどの音楽家も絶望の中で創った作品が高く評価されているだろう。

アリストテレスも紀元前4世紀に、「哲学や詩、芸術や政治にすぐれた人はみな(ソクラテスやプラトンを含めて)、憂鬱質的な気質があるし、鬱病に悩んだ者もいる」という意味の記述を行なっている。

有名ではない私だって、楽しいことを書いた記事よりも、葛藤や苦しみを書いた方が心に響いたと言われることが多い。だから善し悪しはともかく、人の心を動かす特別な燃料として負の感情はバツグンなのだ。そこで不幸を感じるということは才能なのかもしれないと考えた訳である。


不幸には説得力もある。
深い谷を乗り越えた人ほど、大きい感動と勇気を与えてくれるからだ。だから、不幸''だった''ことを明るく語れる人は、男女関係なく、本当に抜群にかっこいい。

つまり不幸に憧れていると言うより、不幸を乗り越えたような強い人の説得感に憧れている。私が「笑顔ていればなんとかなるよ」というのと不幸な経験をした人が同じことを言うのでは、説得力が違うのだ。不幸を乗り越えた人の説得力と比べると、浅いことをして生きているなぁと思って、ちょっと羨ましいような感覚に繋がる。

でもね、普通の人は乗り越えられないからこそ不幸は不幸であるのだから、やっぱり不幸は才能、なんて、そんなこと言っちゃいけないとも思う。

不幸を乗り越えた深みはない私ですが、その分皆のおかげで溜まっている愛を渡せるように、幸せな生き方をしていきたいです。そして、もし明日以降にとんでもない不幸が訪れたら、それを乗り越えて深みのある愛を渡したいです。

要するにどうなっても大丈夫ってことだ。
幸せに生きます。


メイド屋さんです。顔はXでわかります。現在毎日23:30から1000文字書くチャレンジ中。(4日目)読んだ、くらい気楽ににスキしてくれたらうれしいです🫶


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