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まぁ人類、大抵の事はふーんで済まないけど

「まぁ160cm44kgのGカップなので大抵の事はふーん。で済む」的な構文が2023年3月現在、Twitterで流行中である。多分そろそろ終わる。

これをうけ、顔だけで戦える系きゅぴきゅぴ女さんや、強スペ良スタイル女さん達がSSRカードばりの渾身の水着写真を構文と共にTwitterにUPしている。

ここで、まず一言
述べさせていただきたい。



この構文使いこなせてる彼女ら!?
え!うらやましいんですが!!!!!

いやなんなの!公開できる体重とプロポーションと顔だけでフォロワー増えるレベルの顔面を兼ね揃えるなよ!そらそうだ、になる説得力を出してくる人間がごろごろいるなよ!そんなの、、明日香キララ様とか?誰でもいいけど、もうそういう異次元クラスの1名いれば十分じゃないか、、、

…なんてことが脳に浮かぶ時点で、私は「大抵の事」が「ふーん」でなんて、ぜんぜんまったく、済んでいないのだ。

恐らく、この構文に反応しているのは可愛くえっちな画像を喜んでいる男性が多く、女の子の幾らか(か、大半)はなんとなくもやもやとした無力感を抱いていることだろう。(と信じたい)


体重顔面体型とかいうやつ

そもそも。
これに対して昨今思っていることがあったので一息で述べさせていただきたい。この文章男子禁制!恥ずかしいからあんまり読まないで!読む場合は流し目速読!
せーーの

体重顔面体型とかいうやつ!そりゃ全部大事だし努力したらある程度どうにかなるなんて、こうしたら良くなるということは理屈ではよくわかってる。体重体型は良い睡眠と運動とPFCバランスのとれた食事ね。でも、ひなちゃんねるの筋トレ動画は続かないしパーソナルに月何万払ってもお嬢様酵素使ってもベルミス履いてもラヨン漢方使ってもメトホルミンやゼニカル使っても結局戻るしなんなら私の食欲にお前ら勝てるのか?!と張り合っている。そもそも最近のかわいいは痩せすぎだし、そこまでしてなりたいのかもわかんない。でも今の世界での美の感覚がそれならばそうなるしかないのかな、タイトなミニワンピとかショーパンとか着こなしてみたいもんね。でもやっぱりご飯食べたいので痩せないまま現状維持。顔と言えばお化粧してもキラキラ感は出ないし憧れの顔面には近づけないし、かといって昨今はメイクはじめたてと違って自分の型が出来てしまってある程度満足しているので熱心に動画を漁るほどのモチベもない。そもそもメイクも多様化しすぎている。イエベとかブルベとか顔の形タイプとか踏まえても正解はよくわかんないしこのメイクが合ってるのかわからない。もうだれか毎朝勝手にメイクしてほしい。もうだめだわたしは!かわいくなれない!もうやだ!!はぁ!しにた!いや死にたいは盛った!死ぬのは痛いしこわいし普通にむり!めんどうなこと全てを手放してきえたい!!!はぁ!!!かわいいとか可愛くないとかそういう全部の指標なくなれ!!

メイクのついでにドライヤーもして欲しい

とまぁ、外見について、沢山のことを考えながら女の子は生きてるわけです。

ばーっと述べたけど、元来、私という人間は前向きな方だ。客観的にもそう思う。人に恵まれてるなぁ、ありがたいなぁ、今日も天気が良くてうれしい、ご飯美味しくてしあわせ!なんていつも呑気に思っている。

そんな人間でも、体重体型顔面へのコンプはたった一息(一指)でここまででてくるんだから、もっと絶望してる子はもっともっと、もっと、しているはずだ。

女の子って本当に大変!
男の子だって大変だと思うけど!

まったく、なんてかわいそうな私たち!!!

SNS時代の余分な比較

と、我々がこんな風に感情的になってしまう大きな理由として、確実にSNSがある。SNSによって「余分な比較」が日常的に発生し「余分な嫉妬」という苦味を心の奥底で感じつつも、それを隠す機会が増えた。

TikTokをひとたび開けば、自分より遥かにイケメンで、美女で、お金を持っている人が永遠に流れてきて気付けば2時間。Instagramでは、平日から優雅にアフタヌーンティーをして、この円安の中ハワイに行き海外旅行を楽しんでいる人達が簡単にみつけられる。Twitterでは自分より稼いでる人がごろごろいて自己啓発をしてくるし、美女が高学歴大学卒業発表してたり、乃木坂でありながら東京藝大合格したりと、学歴も顔面もいい美男美女が何故か大量に発生している。YouTuberは自分より100倍以上フォロワーが多くて、友人も有名人でコラボとかして、一生かけても出来ないであろう企画をいとも簡単にやってのける。

彼ら彼女らにも苦悩や苦しみがあることは理解してるけど、でもやっぱり何を見ても自分の上位互換で、どうやら自分は何もかも劣っているのだな、と認識する。
だから、SNSはやればやるほど孤独を感じる。

SNSが普及するまでの、リアルのコミニュティがメインだった時代では、基本的に同じような属性の、同じような人達の中で生きていたのだろう。セレブや美女美男というのも、確かに存在していたけど、テレビや雑誌の中だった。しかしそれは「芸能人」という枠組みの、全く異なる世界の存在だから比較対象にならなかった。アニメを見るのと同じだ。

でも、SNSでは、ついこの間まで自分と同じような生活をしていた同世代の人間が、とんでもない影響力をもっている。今までだったら生涯かけても味わえないような、出会うはずが無かった人との比較が簡単に出来てしまう。自分のちょっぴり上位互換には心の底で嫉妬のような、もやもやとした気持ちが芽生えてしまうし、卓越していると無力感に苛まれる。

今の世界は、本来みない方が幸せだったものまで見えている。

人間が社会的生物である以上、比較は付き物だから。自分は自分、人は人って思いたくても、どこか心にもやがかかって、泣きたくなる日はある。自分はちゃんと恵まれてるって思える一瞬はたしかに流れるけど、何もかも劣っていると感じて布団を剥がせない朝も、お風呂の中でお湯が水になるまでぼーっとしてしまう夜もある。


うん

くるしいよね



大抵の事をふーんで済ます

でもだからこそ。大抵のことを''ふーん''で済ませる能力 は今の時代に必要なのかもしれない。

比較から生まれた自信は脆い。
周りの人より偏差値が高いから私は賢いとか
コミュニティの中で1番かわいいからとか
フォロワー多いから価値があるとか
そういう、〇〇が出来るから、から生まれた自信は、属する場所や時が変われば簡単に折れてしまう。

顔がかわいいことが唯一の自信な子は、自分より可愛い子をみつけたら死にたくなる。だからお前めちゃくちゃ可愛いやん、みたいな子がTwitterでブスだと病み散らかしている。コミニュティが変われば学力だって顔だってスタイルだって、世界一になれない/比較基準が不明確な以上、そんな自信は一瞬で失われる。

成果があげられるから=自分には価値がある
と考えているときの自信は、本当に危うい。

あり方をほめる

だから、大事なのは「あり方」なんじゃないかなと最近思った。なれるとかなれないとか、できるとかできないとか、比較した上での成果も大事だし、結果に拘るのは大切だ。

だけど、根本的な折れない自信としては、こうなりたいと思っている自分の「あり方」を認め、そこに自信を持っていたい。

なるべく明るく振る舞いたい、という理想を持ってる私、なんかいい感じだな!
毎日のしあわせに目を向ける!と思っている私、えらいな!

そういう風に自分の「あり方」まるごと肯定出来たら、結果何も出来なくても、とりあえず今この瞬間からでも時分を褒めることは出来て、少しだけ自分のことを好きになれる気がする。


こんな私たちでも

私はさ
Hカップなくても
がりがりになれなくても
顔面だけでバズれるほどかわいくなくてもさ

大抵の嫌なことをふーん、って、へーって流せるくらい、心強くなりたいなぁ。

強くなれるかはわからないけど、今この瞬間そう思ってる自分のあり方はえらいと思いたい。
わたし、えらい。

そうやって、余裕がある時は自分をほめる。
都合の良い自己暗示でもいいから自分をほめて、前向きになれる時だけ前向きになって(なれない時はまぁもう仕方ない 、''思うこと''は制御出来ないから)、気付いた時だけすこしだけ口角あげて、そうやって笑顔を増やそうとしている自分はいいかも、って思えたら。

そういう時間が、そういう日が、毎日に少しでも増えたら、私たち今より少しは幸せになれる、
ような気がする。


幸せになろうとしてるあり方を認めて
嫌なことふーん、で済まそうとしてる自分をほめて

今よりちょっとだけ幸せになりたいな

いっしょに。







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