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胸がチクリと痛んだら -第3章-

ー1ー

商品管理部のサブチーフを務める旭は、朝の会議に出席した。十一月も中旬に差し掛かっているため、クリスマス商戦に向けた作業が多い。各部署の責任者も、バタバタと忙しない雰囲気だ。
 一時間ほどの会議を終え、管理部チーフの迫田正臣と並んで廊下を歩く。迫田は、「管理部の監視塔」と呼ばれるほどの長身で、175cmある旭と肩を並べても頭一つ分は大きい。このツーショットは、社内でも目を引く存在だった。
 迫田は廊下の先にある休憩室を指差して言った。
「旭、コーヒー飲んで行こうぜ」
「朝からサボるな」
「いいじゃん、少しぐらい」
「チーフとしての威厳が危ぶまれるよ」
「威厳なんて、元からねぇし」
「嘆かわしい」
「おぉー、俺のために泣いてくれるのか」
 旭と同い年の迫田は、彼女と無駄口を叩ける数少ない人間だ。竹を割ったような性格で面倒見が良く、部署内外を問わず友人が多い。血の気は多い方だが、部下にも慕われていた。
 休憩室を過ぎてまっすぐ階段へ向かう旭に、迫田が声をかける。
「何だよ、コーヒーは?」
「いらない」
「俺、一本吸ってから戻るわ」
「はいはい」

 管理部に戻ると、旭のデスクに、部長である山中の細い後ろ姿があった。何やらメモを書いているようだ。
「山中部長」
 旭が呼びかける。振り向いた山中の口元には、柔らかい笑みが浮かんでいた。この微笑みは、彼が「仏の山中」と呼ばれる所以である。
「あぁ、朝比奈君」
 山中は、いつものゆっくりとした口調で「おはよう」と付け加えた。高めだが、柔らかく心地良い声だ。
「おはようございます」
「思ったより早く終わったんだね、会議」
「はい」
「迫田君は?」
「サボってます」
「またタバコか」
 山中は「しょうがないなぁ」と笑った。彼は、俯きがちに喉の奥で笑うのが癖で、目を伏せたその顔は、はにかんでいるようにも見える。
「いや、来月から来る新人がね、今日マニュアルを取りに来るんだよ。十五時頃だとは聞いているんだけど。ついでに君と迫田君にも顔合わせしてもらおうと思って。で、メモをね」
 山中は、顔の横で小さな紙をひらつかせた。
「三時ですか。分かりました」
「じゃ、僕は営業部に顔出して、そのまま田中君と昼飯に出るから」
「田中部長、今年いっぱいで退職なさるそうですね」
「もう人事出てたの?」
「いえ、総務の子から聞きました」
「・・・あぁ、あの目が大きい子ね」
「情報通なんです、彼女は」
「そのようだ」
 クスリと笑うと、山中は口元に笑みを残したまま廊下へ向かった。

 午後十二時を過ぎる頃には、メールの返信や電話の応対も片付いて来た。軽く首を回して肩の凝りをほぐすと、小さく骨の鳴る音が聞こえた。
 旭は、引き出しから数枚の企画書を取り出し、パソコンの脇に広げた。今日中に英文に翻訳して、仕入れ先であるフィリピンの業者にFAXする書類だ。旭は大きく背伸びをすると、仕事に取りかかった。
 十数分後。黙々と書類を作成する旭に、向かいのデスクに座る迫田が話しかけて来た。
「どんなヤツかね?なぁ旭」
「なに?」
 不意に尋ねられた旭は、手を止めて顔を上げた。目の前に積まれたファイルの隙間に迫田の顔を見つけると、お決まりの無表情で答える。
「どんなヤツって、誰が」 
「新人だよ、新人。いつ来るんだ?」
「午後三時。さっき教えたのに」
「あ、そうだっけ」
「そうだよ」
 旭は気のない返事を返すと、仕事に戻った。しかし、ファイルの山の向こうから、相変わらず迫田が話しかけて来る。
「お前、興味ねぇの?」
「何が」
「だから新人だよ。気になんないの?」
「何を気にするの」
「若いらしいぜ」
「あ、そう」
「お前さぁ・・・多少なりとも浮き足立つとか、そう言うのないか?」
「何が」
「だってよ、久々のニューフェイスだぞ。ほかの女性陣は、まだ見ぬ新人を待ちわびてるんだから、お前もワクワクしろ」
「何でよ」
「独身の女は期待するもんだ。変化のない自分の生活に、新しい男が入って来るんだぜ?『もしかしたら恋が始まるかも~っ』とかよ。ねぇのか、そう言う浅はかな考えは」
「セクシストか」
「ちげーよ。会社だって立派な『出会いの場』だろうが。ワクワクしろ」
「出会いねぇ」
「こうさ、ときめきに対する欲求とか持てよ。さぁワクワクしろ」
「しつこい」
 迫田は構わずに続ける。
「俺は、自分好みの若くて可愛い子が入って来たら、今の数倍は楽しく仕事できるぜ。職場にもオアシスが必要だ」
 数人の女子社員が眉を潜めた。迫田は気付かない。旭は小さく咳払いをした。
「で、私に何を言わせたいの?」
「普通の女っぽいこと」
「んー・・・」
 しばらく考えるふりをして、旭は答えた。
「身長は180cm以上190cm未満。切れ長の二重でちょっとタレ目。細身だけど筋肉質で姿勢が良い。微笑むとバラが咲き乱れるような男ならワクワクする」
 思わぬ言葉に迫田は「おっ?」と身を乗り出したが、旭のひねた笑顔が見えて、小さく唸った。
 しばらくモニターに集中していると、今度は背後から迫田の声が聞こえて来た。
「お前タイピング早いよな」
 旭が振り向くと、後ろに迫田が立っていた。腰に手をあて、彼女の手元を見下ろしている。
「何だ、暇なのか迫田は」
「暇じゃねーけどさ」
 迫田は大げさに眉をあげた。彼のいつもの癖だ。旭は構わず、仕事を続けた。迫田はネクタイを緩めながら、旭の肩口からモニターを覗き込む。
「お前すげぇな。ぜーんぶ英語じゃん」
「英語だね」
「デキる女は違いますねぇ」
 旭は少し眉を潜めて、右肩に寄せられた迫田の顔を睨む。
「何が言いたいの」
「あーごめんごめん」
「仕事しろよ、チーフ」
「もう昼休みじゃん」
「タバコくさい」
 旭は眉を潜めた。迫田はニヤリと笑うと、唇を突き出して彼女に言った。
「チューしてやろっか?」
「いらない」
「照れろよ」
「それもいらない」
「つまんねーなぁ」
「ほぼゴリラだし」
「誰が毛深いって?」
「さぁ群れにお帰り」
 周囲から笑い声が聞こえた。
 迫田は何事にも豪快で、喜怒哀楽がハッキリ表れる。言わば部署内のムードメーカー的存在だ。飄々とした旭と単細胞な迫田の会話の運びはテンポが良く、周囲の笑いを誘う。
「なぁ旭。昼飯、行こうぜ。もう十二時過ぎてるぞ」
「これ一枚仕上げたら行く」
「腹減ったよ、行こうぜ」
「勝手に行けば良いだろう」
「一人で食べたって味気ない。俺は朝比奈さんと一緒にランチしたいでっす」
「うっとうしいなぁ」
「何だよ。たまには付き合えって、コーヒー奢るから」
「いらないって」
「じゃあ、カツ膳のランチ奢る」
「リストランテ麻生のクリームパスタが良い」
「高いなオイ」
「じゃあ、リストランテ麻生のクリームパスタで」
「・・・分かったよ」
 相変わらず、周囲からクスクスと笑い声が聞こえる。迫田はおもむろに姿勢を正し敬礼をすると、部署内に響き渡る声で皆に告げた。
「迫田正臣!朝比奈女史とデートして来ます!」
 ちらほらと「行ってらっしゃい」の声が返って来た。旭は小さくため息をつくと、ニヤつく迫田を尻目に、廊下へ向かった。迫田は足早に自分のデスクへ戻り、引き出しから財布を取り出すと、慌てて旭を追った。

ー2ー

 会社から十分ほど歩いた裏通りの定食屋は、昼時でも客のまばらな寂れた店だった。
 山中は、一番奥のテーブル席で、向かいのイスに座る田中をまっすぐに見つめていた。共に焼き魚定食を注文したが、二人の箸は一向に進んでいない。
「まぁ・・・そう言う事だ」
 ため息とともに呟いた田中の顔には、微かに悲壮感が浮かんでいる。
「そうか」
 山中は、口元の笑みを崩さないまま俯いた。
 営業部長を務める田中は、山中の同期であり、同時に三十数年来の友人でもある。昔気質で男臭さの漂う堅物の彼が、山中に弱気な姿を見せたのは、この長い付き合いの中でも片手で数えて余るほどだ。
 田中は箸を握ったまま持て余し、言葉を繋げた。
「こんな事聞かされたところで、お前が困るのは分かってたんだがなぁ。何と言うか・・・何だろうな、お前には話しておきたかったんだ。ウチのとは仲良くしてくれてたから」
「奥さんは今どうしてるの」
「施設だよ」
「施設?そんなに悪いのか?」
「若い分、進行が早くてな。まぁ、日常生活に支障はないんだが、コンロを消し忘れた事が何度かあって」
「それは・・・ちょっと怖いね」
「娘が様子を見に寄ってくれていたんだが、あれも二人目が生まれたばかりだから、あまり世話をかけるのもどうかと思ってなぁ。引っ越し先が落ち着くまでは、施設に預けるようにしたんだ。本人は嫌がったが・・・一人にはしておけないし、しょうがない」
「辛いところだね」
 田中は、俯いてため息をついた。山中はその視線につられて、田中の手を見た。間もなく還暦を迎える、無骨な男の手だった。山中は、改めて田中の顔を見つめると、笑みを深めて言った。
「事情はともかく、田舎暮らしは羨ましいな。昔よく話してたよね?」
「あぁ。退職したら故郷に帰って、畑仕事でもしながら暮らそうと思ってたよ」
「君が土いじりか。おもしろい」
「難しいもんかな?畑仕事は」
「腰に悪そうだけど、まぁボチボチいけば良いさ。僕に出来る事があれば、何でも言ってくれよ」
「こうやって話を聞いてもらえただけで、俺はありがたい」
 田中は、「すっかり冷めたな」と苦笑すると、焼き魚の身をほぐし始めた。山中は、彼の不器用な箸の動きをしばらく眺めたあと、温くなった味噌汁をすすった。
「ところで」
 重い空気を払うように、田中は小さく咳払いをして尋ねた。
「新人はどうだ?来月からだろう」
「あぁ。一度会っただけだけど、実直そうな青年だよ」
「若いのか?」
「今年で二十八だと言っていた。見た目はもう少し若く見えるかな。朝比奈君に研修を頼んでるんだ」
「おぉ、朝比奈君かぁ」
 目を輝かせる田中を見て、山中は「始まった・・・」と笑った。田中は構わず、胸を張って言った。
「俺があと二十ほど若くて独身だったら、全力で口説く。イイ女だ」
「耳にタコだよ」
 二人は笑った。

ー3ー

 高宮孝介は、商品管理部で教えられた通り、休憩室に向かっていた。幅広い階段を上る途中、昼休みを終えて各々の部署に戻る社員達とすれ違う。三階まで階段を上りきると、鼓動が少し乱れた。立ち止まって深呼吸をする。胸をさすりながら左右に伸びた長い廊下を見渡すと、右手側の奥に「Break Room」のプレートが見えた。
 二十畳ほどの休憩室には、談笑する者や雑誌を読む者、携帯電話をいじる者、十数名の男女が思い思いにくつろいでいた。高宮が部屋に入ると、数人の社員が彼に視線を向けた。軽く会釈をしながら、室内を見渡す。開け放れた窓から入る風が、頬を撫でた。
 ふと、窓際に立つ男女に目を留めた。女性社員は背が高く、深いグレーのパンツスーツを着ていて、凛とした立ち姿だ。細い腰のラインからスラリと伸びた脚のシルエットが美しい。その隣では黒いスーツの男性がタバコを吸っていた。体格の良さが、ジャケットの上から見て取れる。こちらも、ずいぶんと背が高い。
 孝介は、二人に歩み寄って声をかけた。
「朝比奈さんですか?」

 不意に声をかけられ、旭は振り返った。迫田も同時に振り返る。
 二人の後ろに、二十代のスラリとした青年が立っていた。笑顔の裏に僅かな緊張が見て取れるが、しかし堂々としている。
 高宮は、旭に右手を差し出して笑みを深めた。
「初めまして。来月から商品管理部でお世話になる、高宮孝介です」
 旭は反射的に彼の手を握り返すと、「あぁ」と呟いた。
「例の新人君か」
「はい」
 旭は腕時計を見た。ランチから帰ってきてしばらく経ってはいたが、まだ午後一時半を少し過ぎたところだ。
「早かったね」
「はい。越して来たばかりで土地勘がないもので、ずいぶん早く着いてしまいました。昼休み中なのに、すみません」
「いや、構わないよ。よく私が分かったね」
「管理部に寄ったら、こちらにいらっしゃるって。『休憩室にいるイケメン風の女性』だと聞いていたので、すぐにわかりました」
「あぁ」
「・・・重ね重ね、すみません」
「何で謝るの」
「長い挨拶だな」
 迫田が割って入った。高宮の胸元に右手を差し出して「迫田だ」と名乗る。咥え煙草で、ひどくぶっきらぼうに。
「失礼しました。迫田さんですね、初めまして」
「チーフだ、迫田チーフ。こっちは朝比奈サブチーフ。二人ともお前の上司になるんだから、ちゃんと役名を付けて呼べ」
 威圧的な迫田の態度に、高宮は一瞬戸惑ったが、スーツの襟を正し、改めて頭を下げる。
「失礼しました、迫田チーフ。それと、朝比奈サブチーフ」
 迫田は、高宮の顔を不躾に眺めた。
 高宮は、迫田の視線に臆する事なく、まっすぐに彼を見つめ返していた。切れ長の目は二重で、少し下がった目尻が人懐い印象を与える。スッキリと高い鼻筋、しっかりと結ばれた薄い唇。少し長めの髪には緩いウェーブがかかっていて、後ろに流れた毛先が風に揺れていた。迫田ほど背は高くないが、185cm弱と言ったところだ。
 迫田は思わず「ふん」と鼻を鳴らした。彼が吐き出したタバコの煙が顔にかかり、高宮は視線を落とした。旭が助け舟を出す。
「何でいじめるの」
「何だよ、俺は礼儀の話をしてるだけだ」
「堅苦しいのは嫌いなくせに」
「ケジメが大事だって言いたいんだ。俺らが教えてやらにゃ」
 迫田は大きく息を吸うと、高宮の肩を力強く掴んだ。
「ま、来月からよろしく頼むぞ」
「はい。よろしくお願いします」
 迫田は短くなったタバコを消し、「んじゃ、俺行くわ。あとよろしく」とドアへ向かった。すぐにクルリと振り返り、旭を指差して睨む。
「朝比奈女史、明日カツ膳を奢れ」
「早く行け」
 眉を潜める旭に手を振って、迫田は休憩室を出た。後ろ手にドアを閉め、改めて振り返る。旭の前に立つ高宮の背中が見えた。

 「まぁ・・・薔薇が咲くほどじゃないな」
 小さく呟くと、休憩室のドアを後にした。

ーーーーーーーENDーーーーーーー


こにゃにゃちは。
静香・ランドリーです。

別にドババーっと書いているわけではなくて。数年前に書きためておいたモノを、手直ししつつUPしております。
何だろうな。『小説家になりたいフィーバー』が治らなかった時期です多分。
軽く10年前だな、よく覚えていませんが。

では、この辺で。
アデュー。

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