【短編小説】足
その病室では、静寂の中にいつもどこからか細く水の流れる音が聞こえておりました。窓から月の光が差し込んでいる夜に、私は身を固くして、先生の指先がゆっくりとなぞる私の足先をただじっと見ていました。
――親指、足裏、くるぶし、爪、足首、甲、骨、窪み。
時刻は既に夜半を回っておりました。
先生の顔にかかる少し長い前髪が、差し込んだ光に透けて揺れていました。電灯を点けなくても月は十分に明るく、うつむいた先生の顔は影になって見ることはできなかったのですが、先生の繊細な指が私の足をなぞること、それだけで私は息が止まってしまいそうなくらいでした。
目をつむり、指のなぞる線を辿ろうとしました。くちづけをして下さる指先に意識を集めても、それはやはり叶わないことだと分かってはいたのですが。
私の足に感覚が少しでも残っていたら。
先生が大切に大切にさわって下さる、それを直に感じることができたら。
そう切実に思います。先生の指が押さえる爪は、それだけで紅く染まってしまいそうだというのに……。
先生が大切に愛して下さるほどに、私は自らの足へと嫉妬を深めていくように思われました。
私に付いている、物体としての足。
それは、歩くことも動かすことすらもままならない、何の役にも立たなくなってしまったものなのです。
「あなたの足は、ほかのどんな物よりも、うつくしいですね」
私はその一言を幾度も反芻していました。
そのわずかな言葉だけで、私にとっての初めて恋をするためには十分すぎるほどでした。生まれて初めて「美しい」という言葉を頂いた日のことを、私は忘れることが出来ないと思います。
細い眼鏡の縁が、月を受けて光っています。先生は顔を上げません。先生は私を好いて下さっているのではない、ということに胸が凍りついてしまいそうになりました。
勘違いをしてはいけないのです。
先生は、私自身を好いてくれているのではないのですから。私は不器量な娘なのですから。思い上がっては不可ないのです。
先生の両の掌が私の右足を包み込んでいるところを見ているうち、ふいにいつか迷い込んだ古道具屋のことを思い出しました。
薄暗く埃の匂いのする店の奥に、ぽつりとひとつ白磁の器が置いてありました。私は吸い寄せられるようにそれに近づき、おそるおそる手に取ってみたのです。
片口の付いた、両手にすっぽり収まる大きさのそれは、かけられた釉薬のせいでつるりと冷たく滑らかで、誰もいない場所に音もなく降る雪を思わせるものでした。
その場所の湖面のような静寂の中には、水滴の滴りがやけに大きく響いていました。
私は正気を失ったように、その片口の器をさわり続けました。それはどの角度から見ても完全に整った美しい形をしていて、その存在を確かめるように私は白磁器のあらゆる輪郭線を指でなぞりました。
窪みに指を這わせ、曲線を掌で包み、時間を忘れて白磁器自体の持つ景色に想いを馳せていたのです。
あの時の白磁をさわる私と、目の前の先生の姿が重なりました。どのような想いで先生が私の足に執着して下さっているのか、初めて分かったような気がしました。
私は声を出さぬよう、くちびるを噛んで少し泣きました。泣くまいと思っても鼻の奥がつんと熱くなるのを抑えられず、いくら目蓋を強く閉じても涙を遮ることはできませんでした。
窓からガラスを通して差し込んだ月の光に静脈が青く透けて見える甲を掌で押さえて、先生はふいに顔を上げました。泣いていると気付かれてしまったことが恥ずかしくて、私は急いで顔を伏せました。
「明日の手術が、怖いのですか」
先生は静かな声で私に尋ねました。私は黙ったまま首を横に振りました。体の一部を切断されてしまうことが恐ろしくないと言えば、嘘になります。しかし、執刀して下さるのが先生である由、私が不安を覚えることは失礼になると思いました。
少しの間、沈黙がありました。外を吹く風に木製の窓の桟がガタガタと鳴っているのがいやに大きく聞こえました。先生は私の右の足首を両の掌で包んだまま、何かを考えているようでした。
「あなたのこの、足を、僕に下さいませんか」
いくらかの沈黙を挟んだ後、震えた声で先生の発した言葉は、幾分突飛なものであったのかもしれません。しかし私は至極自然に、その言葉を受け入れたように思います。
「かまいません、差し上げます」
いくらかの強がりを含ませて、私はできるだけ静かな声で答えました。
「本当ですか。僕の知り合いの技師に頼んで、特別上等の剥製にしてもらいます。明日切り離してしまっても、この白さは曇ることがなく、端正な形を崩すこともなく、永遠に美しいまま……」
顔を上げ、少し早口になった先生の言葉を、私は敢えて遮り言葉を続けました。
「どうせ私には役に立たぬものですもの。先生が美しいと言って下さるならそれで良いのです。だけれど代わりに私からも、ひとつだけ、お願いを申し上げても宜しいでしょうか」
「ええ、勿論」
「一度だけ、私にくちづけをして下さい。私は先生のことをお慕いしておりました。誰からも言われたことのない賛美を、私自身にではなく足にですけれど、向けて下さいました。初めて恋をした方に一度でもくちづけをして頂けたら、私はこれから先、自分のことを大切にできると思うのです。先生のことを諦めることが出来ると思うのです」
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