見出し画像

【短編小説】イメージ

 少女のイメージがある。

 制服の重たげな紺色のスカートの裾を、はためかせる白い脹脛。
 夏服の白いブラウスから伸びた華奢な腕。細い首。背に垂れた長い髪……。

 少女は廊下を歩いて来る。
 僕はうつむき、ただ身を縮める。顔を正面から見ることなどできない。

 擦れ違う。
 僕は下を向いたまま息を止める。動悸に気付かれてしまわぬように。

 少女は僕の存在など気にも留めず、歩いて行く。
 僕は安堵し、絶望し、彼女の後ろ姿を見つめる。

 降車駅のアナウンスを遠くに覚え、沈殿する意識から瞼を持ち上げてみると、電車は降りるべき駅で停車して、降車する人を待った人々が次々と発車を前に車内に乗り込んできているところだった。

 一気に幻が掻き飛ぶ。
「すいません、降ります」

 膝の上に抱えていた機材の鞄を腕に抱いたまま、迷惑そうに顔を潜める車内の人々に頭を提げながら、私は発車直前の電車から駆け下りた。
 咄嗟の出来事に思わず動悸が上がり、視界がチカチカ光っているように思えた。

 ホーム上は降車した人々が改札階に続く階段へ人の流れを作っていた。
 私はその流れの向こう側にあるホーム備え付けのプラスチックの椅子を目指して歩き、両腕に抱えた機材を椅子に下ろして、漸く一つ深く息を吐いた。
 撮影現場に直行する前日はこうやって機材を持ち帰ることを習慣にしていたけれど、この重さと量の機材をその都度通勤電車へ持ち込むのにも限界があるのかもしれない。以前から感じていたけれど、ひと時自分が無理をすれば現場がスムーズに回るということで目を瞑っていたことを、こういう時にはどうしても思い返してしまう。
 さっきのようなどさくさで、持っているレンズの一つでも紛失してしまったりしたら、明日の撮影に支障がでるばかりか、紛失した備品は次の給料から引かれてしまうことになる。高いものなら十万近くもするレンズだったとしたら、給料の半分近くが削られてしまうことになる。
 仕事に支障が出てしまうこと、関係する出版社やデザイナーに迷惑をかけてしまうことや、上司に叱責されること。そういったことは想像するだけでもぞっとする事柄ながら、給料から備品を弁償することは直截に私の生活を脅かす。
 交通費や消耗経費が全額持ち出しの、うちのような小さな出版社で働いている身には、貯金なんてできるような金銭的な余裕もない。一度のミスで給与天引きをされてしまうと、私に関して言えば、家賃が払えなくなってしまうことに直結する類のものであることを改めて自覚する。

 そこまで一息に流れ出した思考を、頬に刺さる冷たさが現実に引き戻した。椅子に下ろしたままの一抱えの機材を、ひとつひとつ確認してみる。ポケットに突っこんでいる光度計に至るまで、見当たらない部品はないようだった。二回通りの確認作業を終えて、私は再び深く息を吐いた。

 吐き出した息は大気の中で白さを保ったまま拡散した。
 耳に冷たさと軽い痛みを感じ、被っているニットキャップで耳を覆うように被りなおす。

 椅子にもたれ、安堵のために脱力した体を立ち上げて階段へ向かって歩くためには、少しの時間が欲しかった。外気に触れる頬は冷たさに侵され始めてはいたけれど、もう少しの間ここで息を整えることにした。


 先ほどまで人の流れのあったホームの上は、もう誰も居なくなっていた。十五分後の電車の訪れを示す電光掲示が誰にも見られることなく表示を英語へと切り替えた。
 赤く明滅する信号機にも似たランプはどのような意味があるのだろう。誰もいない深夜近い駅のホームの上で、誰にも見られぬ時間帯に、あんなにも赤く明滅している。

 中学生の頃に読んだ宮澤賢治の小説を思い出す。
 新式のスマートな信号灯シグナルと、彼を想う旧式の木製の信号灯シグナレス。夜明けに光る星を愛のあかしに差し上げましょうと夜明けに話した彼らの恋を中学生の僕は滑稽だと感じたものだったけれど、あれが信号の話でなかったらどうだろう、と今になって考える。
 信号並みの仕事しかしていない人間なんて掃いて捨てるほどいることを、身をもって知った今となっては。

 誰も居ないホームは蛍光灯の白い光に照らされて、線路上の闇を浮かび上がらせていた。
 寒いと思ったら、いつからなのか線路上には大粒の雪が舞い始めている。それが白い光に照らされ音もなくきらきらと光っている。見上げてみると濃灰色に蓋をされた天から数えきれないほどの雪が舞い降りてきている。
 結晶が目に見えるほどの大きさの一片は空気の抵抗を受けているからか、雨よりもゆっくりと地面に降りてくる。

 私は上着のポケットに入れていた簡易式のデジカメで雪の降り積もる様を一枚撮った。
 出先でも仕事中でも、心が動く景色を見た時にシャッターを切ることができるよう、私はいつも上着のポケットに私物の小型のカメラを携帯している。カメラマン仲間の中でもそんな理由で余計な荷物を増やしているようなのは珍しいらしく、芸術写真を諦めていないと嘲笑にも似た冷やかしを受けることもあったけれど、私は多少の荷物が増えたとしても自分のためのカメラを持ち歩くことを止めようとは思わなかった。

 ――芸術写真を諦めていないのか、

 飲み屋の席で時折訊かれるこの質問に、私はいつも口籠ってしまう。
 大学の頃に志したような美しさのためだけの写真を撮らなくなって久しいけれど、仕事の中で写真と関わる時にでも、自分にとっての美しい写真を撮ることは諦めていないつもりでいた。
 勿論仲間たちも審美眼としてのそういった理想を失っているとは思わない。ただ、彼らにとって仕事で関わるもの以外の写真を撮ることは、プロカメラマンという肩書に相反するものであると理解しているようだった。

 違う、そうじゃない。
 私がカメラを持ち歩いている理由。それは、撮るべきものが、忘れたくない瞬間が目の前に現れた時に、それを切り取ってしまえないこと。そんな時の無力感が耐えられないからだ。
 私にできることが写真を撮ることだとしたら、絶対的な存在を前にしてカメラがないせいで、写真に残せないということは、写真を撮るために生きているはずの自分の存在理由を、脅かしてしまうことに他ならないからだ。

 こうやって深夜の駅の線路に舞い降りていく雪を抒情的に、今日を生きている記憶の証左として形に残すことができてよかった、と思う。何のためでもなく、自分自身のために。


 終電の過ぎた時間の駅前に、先ほどよりは勢いが和らいだ雪が静かに降り続いている。上着のフードを被り、機材に水が入らないよう包みなおして、私は意を決して雪の下へ歩を進めた。地面に落ちた雪は融けて、アスファルトの上には所々に水たまりができている。

 家の近くへ向かうバスはもうとっくに終了してしまっている。もとより仕事でバスの時間に間に合うように帰宅することなんて、普段から殆どなくなってしまっているから、数十分の道のりを歩いて帰ることに特に抵抗はなかった。

 駅前の飲み屋やスーパーの連なりを抜けて、住宅街の中の道を進み、線路沿いの小道へ出る。車も通らない道沿いに、線路の上に明滅する赤いランプが点々と遠くまで続いていく。
 左手には用水路のような小川が流れ、春には並木の桜が満開の花を付ける。私はこの道が好きだった。時折遠くで犬が吠える以外、殆ど聞こえるもののない深夜の静けさの中を家に向かって歩くこの数十分の散歩が、普段の目まぐるしい生活の中で、一人きりであることを楽しむことはできる時間だった。

 ぽつぽつと頼りなく続く街灯と、ちらほらと灯る民家のカーテン越しの光が浮かぶ。音のない世界の中、雪はまだ降り続いている。


 私は舗道をただ道なりに、歩いた。緩やかに続いていた坂を登りきると、唐突に視界が広がる。そこは小高い丘になっており、切り立った崖の向こう側には海の底のような静謐をたたえた住宅街が沈んでいた。
 降り続いている雪の下で、ところどころで灯りが明滅するのが遠く見える。
 オレンジに、赤に、青に、緑に、白。
 雪に遮られながらも光っては消えるそれらの点滅は、手を伸ばしても届かない、望んでも手にすることのできない尊いもののように思えて、私は暫しその光景に目を奪われた。何かを思い出しそうになるけれども、その実体がどうしても掴めない。


 降り続いている雪は、満開の桜が花弁を降らせているのにも似て見えた。
 靴裏で雪を踏みしめて歩くこんな夜は、一生のうちに何度も訪れないかもしれないと思う。こんな夜に、もうずっと忘れていた幻を想うこと。それがひどく特別なことに思われて、私はこの夜の非日常の空気がもっと続けばいいと願っていることに気が付く。

 ――少し、遠回りをして帰ろう。
 私は見慣れた帰路を外れ、丘の上から家とは違う道を選んで歩くことにした。

 見知らぬ住宅街の中を、気まぐれに道を折れながら歩く。
 このあたりは高級住宅街と呼ばれる地域なのかもしれない。どの家も大きな庭を擁して高い塀が敷地を取り囲んでいる。新しいものもあれば、古いものもある。煙突を備えた西洋風のものも、黒い木塀に取り囲まれた旧家の趣をした家も。

 雪の降り積もる夜に、見知らぬ街並みを歩いていることに夢中になってしまっているうちに、私はいつのまにか袋小路へ歩を進めてしまっていたらしかった。突き当りになった場所から、抜け出す小路でもないかと左右を見回してみた時に、「〇〇研究所」と書かれた看板を見つけ、その突き当りにある建物が何かの研究所であったことを知った。

 門に掲げられた表札は取り外されてしまったらしい跡が残っていた。
 外れかけた鉄門の隙間から覗き込んでみても、庭中に伸びた草が刈られないままに茶色く乾いてしまっているのが見えた。長らく人の出入りのない廃墟なのかもしれない。

 こんな特別な夜に、こんな場所へ迷い込んだことも何か意味があるのかもしれない。そう思わせるに十分の胸騒ぎと好奇心に背中を押され、私は雪の勢いが増してきたことを理由にこの廃研究所の建物の中を覗いてみることにした。


 外れかけた鉄門の隙間を潜ると、敷地へは難なく入ることができた。昭和の時代の建物の気配がする入口へ、石を埋めて作ったアプローチが続いている。
 左右には荒廃した庭の枯れた草木が降り続く雪を被って無言で佇んでいた。

 近づいてみると建物は、外壁を白いペンキで塗られた木造の建物だった。
 窓枠までが木製で、かなり古いものに見える。玄関脇には看板を取り外した跡が薄く残っていた。扉に手をかけてみると、それは容易く内部の暗い闇へと道を開いた。

 電気も通っていないのだろう。真っ暗な廊下を、撮影機材の中から取り出したランプの光を頼りに、音を立てることを気にしながら、雪で濡れたままの靴で歩く。

 不思議と不安は感じなかった。
 古びたリノリウムの床に積もった埃が、黙ったまま私の足跡を刻んでゆく。この場所で時間を重ねたらしいガラス張りの戸棚には、ラベルを付けられた瓶が理科室のように静かに並んでいた。

 ――ここは何の研究をしていた場所なのだろう。
 私はその場所に澱んだ時間と静けさを崩さぬよう、息を潜めて歩を進めた。


 先ほどからの胸騒ぎは強くなっていた。
 そして、私は何かに取り憑かれたように、まるで運命付けられているかのように、その予感に従順だった。
 光の全く差し込まぬ場所を、ランプで注意深く照らしながら、方角も敷地の間取りも分からないままに私は歩を進めなければいけないと感じていた。
 暗闇の中で手摺を頼りに階段を上がり、窓ガラスを通して雪の薄明りが差し込む廊下を歩き、私は三階にある一つの部屋へと辿り着いた。

 そこは、何もない空間だった。
 窓にはカーテンも付けられておらず、風雨に汚れたガラスを透かして、窓の外に降り続いている雪が、ランプの丸い灯りに浮かび上がる。他の部屋には備え付けられていた壁際の戸棚も、使われていた当時のままに乱雑に残された机も、床に散らばっていた冊子や書類も見当たらない。

 違和感を覚える程に、その部屋は空っぽだった。

 ――いや、
  部屋の奥に、何か。

 光も届かぬ部屋の奥に、何か、在る。
 埃が溜まって白んだ床は、足を踏み出すと重くきしんだ。その音が、また私に何かを思い出させようとしている。
 薄汚れた布が掛けられた、何か。引き寄せられるように、私はそれに近づき、ランプの丸い光を一巡させて深呼吸をして、ゆっくりと布に手をかけた。

 布の下には、見窄らしい木の椅子に座った少女が居た。
 布に積もった埃は床のそれと同じように厚く、この建物が廃墟になった日から、このままの状態であることを示唆している。私は最初、少女を人形だと思った。
 人間と見紛う程に精緻に作られた等身大の人形。そんなものがどうしてこんな場所にあるのか、などと考える余裕もなく、私は息をのんで少女を見つめた。
 布を剥がされた少女はうつむき項垂れた姿勢からゆっくりと、私の顔を見上げ、私の目を一直線に射抜いた。

 彼女の顔には見覚えがあった。
 見覚え、などという曖昧な記憶ではない。……彼女は私が中学生になり、初めて恋をした少女に違いなかった。
 先ほどの夢で見たイメージ。脳裏にちらつき続けていたあのイメージが、目の前の少女と輪郭線を重ねてゆく。

 体中の血液が砂になったように、自らの身体を持て余し、私は布を右手に持ったままその場に立ち尽くした。
 彼女は、私が声も掛けられず見つめた当時のままの姿をしていた。
 白く真っ直ぐな脹脛、棒のような腕、長く黒くまっすぐな髪、折れてしまいそうな首、長い睫毛、薄い耳朶、口の脇の小さな黒子、薄い胴体。
 私は一つ一つ記憶にある彼女の面影と、目の前にあるこの幻のような少女を重ね合わせ、無意識のうちに確認しようとしていた。目に映るものを信じることができないうらはらに、当時の意識が否応なく甦る。
 私はただ、嫌われることが怖くて、彼女を背後から見つめていることしかできなかった。

 すれ違う時に甘い匂いがすると、後ろめたいような気持ちになり息を止めて目をつぶったあの中学二年の夏の私が居る。
 もう消えてしまったと思っていたあの時の私が、大人になった私のどこに潜んでいたというのだろう。私は、もう自分が大人という生き物へ変わってしまったと信じていたのに。
 ささいなことには傷つかないはずの大人という生き物になって、日々を暮していたはずなのに。

 さっき見たばかりの夢の中の景色が眼前に現れている、と言葉を失ったままに感じる。

 息を飲んで、彼女と廊下で行き交ったことは、何度くらいあっただろうか。
 クラスメイトが談笑する休み時間の廊下。体育の授業へ向かう途中の体操服を着た僕と、本を抱えた図書室帰りらしい彼女。放課後に、夕暮れの光が差しこむ廊下での景色も覚えている。まっすぐに垂れた黒い髪と、ぴんと張った白いブラウスの対比が、本当に美しかったこと。

 彼女は確か、――早苗という名前だった。女の子たちが彼女を「さなえちゃん」と呼ぶたびに、彼女の存在とその名前の響きが、とても似つかわしいと思っていた。 

さなえちゃん。

 結局僕は、彼女のことを一度もそう呼ぶ機会はなかった。
 他のクラスのおとなしい女子と言葉を交わす機会もないし、何かの用事があって彼女に声をかける機会があったとしたって、僕には「さなえちゃん」と呼ぶことは許されなかった。
 苗字に『さん』を付けて「渡辺さん」と呼ぶのが、精一杯だっただろうけれど、結局そんな機会すら、迎えることは一度もなかった。
 彼女はある日を境に学校へ姿を見せなくなった。僕が事情を知らないだけで、入院などの事情もあったのかもしれないし、単純に転校してしまったのかもしれないけれど、僕にとっては突然掻き消えてしまったように思えた。
 彼女の不在を確かめるように視線を巡らせるばかりだった中学校の卒業間際の意識が、あれから二十年も経って大人になってしまったはずの僕の全身を支配していると、息も切れ切れに理性を保とうとする脳裏で感じる。


 彼女はかすかに首をあげた以外に、身動きをしなかった。
 私のことを真っ直ぐに見据えた視線は既に外され、彼女はぼんやりとした顔で雪明かりの差す窓を眺めている。

 身が竦んでしまって、声を出すこともできなかった。あの頃のようだ、と頭のどこかで大人になった私が囁く。

「あなたは、先生じゃないのね」

 ふいに彼女が口を開いた。不意を衝かれ、私は一瞬言葉の意味を理解することができなかった。

「あたしは先生を待っているの」

 彼女は窓の外に焦点を合わせたまま、殆ど唇を開かず囁くように彼女が言った。今度はすんなりと聞き取ることができた。先生とは……、一体誰をさす言葉なのだろう?

「きみは……渡辺さん……なのか?」

 絞り出すように、少女に訊いた。
 あの娘の名を。あの娘が、僕の前から居なくなってしまった時と全く変わらぬ姿で、今この目の前に居るということを。信じられないままに、否定されることを期待しながら、否定されることを恐れながら。

「先生は、さなえって呼んだわ」

 渦巻いていた疑念と希望が肯定されてしまう言葉だった。
 目の前の少女は、二十年以上前に僕が恋をした渡辺早苗なのだ。ある日、突然居なくなってしまった『さなえちゃん』。
 彼女を黙って見つめていただけの日々を悔やみ、僕は写真を撮り始めたのだった。眼に写る美しさを形にして留めてしまいたくて。消えてしまう前に、その断片でも所有したくて。自分の信じた美しさが、幻ではなかったという証を残したくて。

「渡辺さん、僕は……。僕のことを憶えてないかな……」

 雪あかりの窓に顔を向けたまま、彼女は答えなかった。少しの沈黙が耳に響く。

「……先生は言ったわ。実験が成功して、あたしが人形になったら、怖いことも嫌なことも全て消えてなくなるって。先生と二人でずっと、幸せに幸せに暮らせるって。何があっても誰が邪魔をしようとしても、先生が守ってくれるって。何より大切にしてくれるって。迎えに来たら、寂しい思いは二度としないんだって。あたしは大人にならなくて良くて、世の中の穢いものや醜いものを一生見ずに居られるんだって。ずっとずっと一番きれいな女の子の姿のままで、ずっとずっと幸せに幸せに居られるんだって。……だから、あたし待ってるの。先生はきっとお仕事から手が離せないんだわ。もう少ししたら、きっと迎えに来てくれるの。あたしに駆け寄って、抱きしめてキスをしてくれるの」

 彼女は小さな声で、それだけの言葉を呟いた。
 僕に出来ることは、その場所に布を持ってうつむき立ち尽くしたまま、ただその言葉に誠実に耳を傾けるだけだった。
 淡々とした声はどこか悲痛に滲んで、彼女が泣き出すのではないかと僕は狼狽え、彼女の顔を見遣ると、彼女はぼんやりとしたまま、その石膏人形のような表情を変えてはいなかった。

 雪の積もった窓辺から月の光が差し込み、仄白く彼女を照らす。彼女の目には何も映っていなかった。
 身じろぎ一つせず、彼女はこの場所で「先生」を待っているのだ。布を掛けられ、年をとることも忘れて、いつか「先生」が迎えに来ることを信じて、少女の頃から変わらぬ時間をこの場所で生きてきたのだろう。
 掛けられた布に埃が積もり、世界は動いてゆくことを知らないかのように。

 きっと彼女は「先生」のことを待っているうちに、他のことを全て忘れてしまったのだ。
 自分を取り巻く社会のことも、クラスメイトのことも、学校のことも、自分のことも、未来や過去のことまで全て。

 私は彼女の体を月光の降る窓辺へと連れて行った。移動させた、と言った方が良いかもしれない。彼女は私に抱き上げられるまま、抵抗することもなかった。

 彼女の言葉の通り、その体は陶器のように冷たく、硬質だった。

 椅子を動かし、彼女をその上に再び座らせる。肘掛けに腕を置かせ、窓の方に顔を傾けさせた。彼女は何も言わず、ただ体を預けていた。

 積もっていた埃が、動作の毎に舞い上がり、月の光に透けて舞った。それは光の屑のようで、身動きどころか瞬き一つしない彼女の上へとキラキラと降り注ぐ。

 私は息を潜めたまま、鞄から仕事用の一眼レフを取り出した。カメラが、写真という手段が今、手元にあることの幸運を思う。こんなにも美しい景色を、私は生涯見ることがないだろう。
 私の一生のうちに撮るべき写真があるとしたら、この景色をおいて他にはないと思った。初めてカメラを手にした時から、撮りたかったと切願して叶わなかったもの。時間が止まってしまう程に絶対的な、目の前にある全てが月の光の魔法のように思えた。幻のような奇跡のような……

 仕事用のカメラを使うことにためらいはなかった。
 この写真を撮ったことを理由に職を失ってしまうのならそれでもいいという覚悟にも似た強い意志が、自分を支配していることを感じる。
 撮るべきものを撮る。僕が生きている理由は、改めてそれだけのことでしかないんだと他人事のように冷静に信じることができる。

 僕は、薄く唇を開き、窓の奥を見つめる彼女の姿を、撮った。
 動く度に舞い上がった埃が、止まっていた彼女の時間に光を取り戻すように、ライトの光を受けて輝く。息をする一瞬ですら勿体なく感じた。この景色を一枚でも満足のいく写真に正しく残せたとしたら、自分の存在なんて、どうなってしまっても本望だと感じた。

 


「………………………、」
 急に肩を掴まれて、ビクッと体を震わせた。

 目に映る光景に、混乱する。眼前には、雪の降り続ける駅のホームが広がっていた。
「大丈夫ですか」

 状況が把握できないまま、かけられた声に身を竦ませる。
 視線を上げると厚手の防寒コートを着込んだ中年の駅員が、私の顔を見下ろしているところだった。

「ご気分でも悪いですか?」
「あ……、いいえ」

 この場所は、見覚えがある。
 何時間か前に私が降車した駅のホームだ。目の前に在る景色を理解しようと思考を巡らせてみるも白く降り続いている雪がちらちらと光って上手くいかない。

「もう駅を閉めますから」
「……あ、ああ、……はい」

 頷いた私に駅員は「こんなところで眠ってると死にますよ。寒いんですから」と笑いかけた。
 その言葉を噛み締めるように反復する。……私は、眠っていたんだろうか。

 信じたくない、と思った。
 ――あの景色は。

 言葉の通りの幻だったということなんだろうか。
 ――信じたくない。

 駅員に促されるままに、ベンチに置いたままにしていた撮影機材のバッグのチャックを閉めて、肩へ担ぐ。

「雪、止みませんねえ」
 先ほどまでのイメージを拭い去ることができず、未だ動悸を押さえられない私を改札へと案内しながら、駅員は呑気な口調で話しかけた。

「……ああ、……そうですね」
「積もらなければいいですけど、今夜中は降るみたいですから。気をつけてお帰り下さい」

「……ご迷惑をおかけしました」
「いいえ」

 駅員に見送られ、私は駅を出た。
 終電の終わった駅前は幾分閑散として、飲み屋の呼び込みの男たちが肩を窄めているのが見えた。私は彼らに呼び止められないよう早足で大通りまで歩き、手を挙げてタクシーを止めた。先ほどのように歩いて帰るような気力は、残されてはいなかった。

「どちらまで」
「……山吹町の市民センター脇までお願いします」

「はい」
 行き先を告げると間もなくタクシーは雪の中の景色を走り始めた。暖かい車内では時折雑音交じりの無線が音を立てていた。

 車窓に降る雪を見ながら、私は先ほどの景色を思い返していた。
 さっきまで触れるほどに近かったものが、今はもう手の届かない場所へ消えてしまったこと。自分にとっての絶対的な存在が、二度とはもう目の前に現れることはないのだという事実が、空気の冷たさのように静かに、絶対的に私に浸透していくことを感じる。

 嗚咽の衝動を耐えようとして、喉の奥が音を立てる。右手で両の目を押さえると、私は自分が滂沱の涙を流していることに気付いた。

 ――すべては、ただの幻だったのだろうか。
 私はそのことをカメラの中に確かめることを恐れた。


 家に着き、荷物を玄関口に下ろして、そのままPCの電源を付けた。
 何かに憑かれたように私は今から二十年前のデータベースを読み漁った。ほどなくして私は、その中に小さな研究所で起こった死亡事故の記事を見つけた。
 学校を退職して研究所へ務めた科学の教師が、実験中の事故により死に、研究所はその事故が原因で閉鎖に追い込まれたのだという。男の名は荻原と言った。私はその男の存在を、全く思い出すことができなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?