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【短編小説】Mさんの話

 十年近く経った今でも、Мさんのことを時々思い出して考える。

 元気にしているんだろうか。

 今もあんな風に退廃的にお酒を飲んで、悲しそうに一人で夜の街の中をふらふら歩いているんだろうか。
 それとも何かを諦めて、誰も知らない場所で仙人のように静かに暮らしているんだろうか。

 十二月の風は冷たく、指先なんてとっくに感覚がなくなってしまっていた。顔を赤らめて酔った大人たちが、繁華街の中を笑いながら歩いていく。

「お土産にケーキいかがですかー」

 バイトの制服のミニスカートにコートを羽織っただけの私たちが、寒さに耐えながら笑顔を作って声をかけても、その声は彼らには届かない。
 健気に働く私たちは駅前のビラ配りのように黙殺されて、ケーキは全く売れなかった。初めは懸命に笑顔を作って声をかけていた私ともう一人の女の子は次第に疲れて、時々足を止めるお客にだけ笑顔を作って見せるようになっていた。

 Мさんは足元まである時代錯誤な外套を昔の人みたいにはためかせて、一人ふらふらと歩いていた。道の向こうから歩いてくるその姿を見て私は、「大正時代の書生か文豪みたいな人が来た」と思った。

「ケーキいかがですか」

 目が合ったので声をかけてみる。Мさんは足を止めて、テーブルに並べているサンプルを覗き込んだ。

「生クリームの大きいのが三千円、チョコレートの中くらいのが二千円です」

 足を止める人が珍しかったので、一緒に売り子をしていたエミちゃんは嬉しそうにケーキの説明をする。私はその横に立って、目の前に立ち止っている時代錯誤なおじさんの姿をしげしげと眺めていた。

 金属ぶちの丸眼鏡。鼻の下に蓄えられた口髭。年は四十代か五十代か。あごの長さの白髪交じりのおかっぱ頭。鳥打帽。ひょろりとした体格に黒い長いマントが足元まで垂れて、その姿は探偵小説に出てくる名探偵のようにも見えた。
 ――この姿でパイプでも燻らせたら、似合うんじゃないか。

 おじさんは顔をあげて、私たち売り子の顔を見た。
「売れないでしょ」

 エミちゃんは困ったように固まってしまった。
 私は笑いをこらえきれなくなって、笑ってしまった。

「売れないです。分かりますか?」
 笑いながら答えた私におじさんもつられたように笑い「やっぱりね」と言った。

「君たちもアルバイト大変だね、こんな寒い中」
 心底可哀そうだと思っている表情で、風変わりなおじさんは私たちに同情してくれた。

「そうだと思うなら、ケーキ買ってくださいよ」
 エミちゃんは笑顔を作り直し、職務を真面目に果たそうとしていた。
 おじさんは首を向けて、健気なエミちゃんの作り笑顔を見て

「買ってもいいんだけど、別にこのケーキが売れたって、君たち嬉しくないでしょう?」
 と言う。再び困惑するエミちゃんと、笑いだす私。
 笑いながら私は、「この人と友達になりたい」と強く思っていることに気付いた。

「僕、一人暮らしなんで、これ買ったら食べきれないよ」
「ええー、そこを何とか」
「でも捨てるつもりで買うなんて、食べ物に失礼でしょ」
「全部食べたらいいじゃないですかー」

 エミちゃんとおじさんは押し問答を続けている。私は笑いながらそれを見ている。

「そっちの子は買えって言わないね」
 おじさんがこちらに向き直って言う。エミちゃんが肘で私を突き、「買えって言ってよ」という意味の目配せをする。

 私はどうしたものかと唇を噛んで、二人の顔を相互に見比べた。
「……えーと、じゃあ、ケーキ買わなくていいんで、私と友達になってもらえませんか?」

 驚いて私の顔を覗き込んだエミちゃんと、「君は面白いですね、いいですよ」と笑い出したおじさん。

 それがМさんと知り合った日のことだ。

 *

 私がアルバイトを終えて、まだ終電には少し時間がある時や、終電を逃して朝まで飲もうと思った時なんかに、Мさんに電話をかけると、平日の一般的な人には迷惑がられるだろう時間帯なのに、Мさんは決まって近くの店で飲んでいた。
 私が「今から飲みませんか」と言うと、「いいですよ。じゃあ十分後に小橋で」という感じでいつでも二つ返事で遊んでくれた。

 見た目からいって浮世離れしたインテリおじさんという風なМさんが、何の仕事をしているのかを、私は長らく教えてもらえなかった。
 おかっぱ頭に口髭だから、スーツを着る会社員ではないだろう。週に何度も一人で飲みに出かけているくらいだから、お金にも困ってなさそうだ。
 芸術家というには雄弁すぎる気がするし、職人というのも絶対違うと思う。医者や弁護士みたいな仕事も似合わない。

「内耳がね、耳のこの外側から一つ内側の、これ。これが張って出ている人は、性格がはっきりしているんですよ」
「そうなんですか?」

「うん、僕の長年の研究に基づいてるから」
「そういう研究のお仕事なんですか?」

「いや、僕の回りの人は、皆そうだって観察しただけだけど。君も出てるね。気が強いでしょう」
「どうでしょう」

「強いと思いますよ。じゃなきゃ、こんなおじさんと友達になりたいと思わないでしょ」
「そういうもんですかね」
「さあ?」


 Мさんと連れだって、私は色んな場所に出入りした。
 若い人が多く猥雑な安居酒屋で飲むこともあったし、薄暗い高級そうなバーに行ってみることもあった。おじさんが沢山いる小料理屋に行ったこともあったし、ホステスの女の子がいるような飲み屋に興味本位で連れて行ってもらったこともあった。
 どんな場所でも、Мさんのする話は面白くて、私はそれを聞いているだけで楽しかった。その周りの環境がうるさくても暗くても明るくても関係なく、楽しく笑ってお酒が飲めた。

「日本のカレーはね、1970年あたりを境に堕落したんですよ。知ってますか」
「私、カレー好きですけど、今のカレーは堕落したカレーなんですか?」

「そうです。君は堕落したカレーしか食べたことないと思いますよ」
「なんで堕落したんですか?」

「ハウスのジャワカレーが発売されたからですよ」
「ジャワカレー」

「ええ。ジャワカレーです。あれが発売されて以来、日本のカレーは向上心を失った」
「どうしてですか」

「ジャワカレーが美味しすぎたんですね。あのルウさえ入れれば、何でも美味しくできてしまう。工夫する余地なんて無くなってしまったんです。適当に作れば美味しいんですからね。工夫しなくていいんです。それ以来、日本のカレーは向上心を失った。ジャワカレーは罪深いんですよ。日本のカレーの未来をジャワカレー色に塗りつぶしたんですから」

「美味しいんだったら、良いじゃないですか。私カレー好きですよ」
「君ももう少し大人になれば分かるかもしれませんね。向上心を失ったものは堕落するのみなんですよ。それがいかに絶望的なことか」

「うち、母親が作るカレーはジャワカレーじゃなかったですよ」

「そうですか。それは幸せなことですよ。君の家のカレーはまだ堕落していないのかもしれない。母上に感謝なさい。君はまだカレーの堕落と絶望を知らなくて済むかもしれません」

「そんなこと、急に母に言ったら、驚くと思いますよ」
「驚くかもしれませんね。でも感謝を伝えることは、何よりも大切なことですよ」


「Мさんは大学の先生なんですか?」
「いいえ、そんな立派な仕事ではありませんよ」

「会社員ではなさそうですね」
「そうですね」


「Мさんは、どうして一人でお酒を飲みに出かけるんですか?」
「悲しいからですかね」

「悲しいんですか」
「聞かなかったことにしてください」


 Мさんは文学と昔のロックが好きなようだった。

 笑いながら一緒に酒を飲んでいると、Mさんは時々ふと遠くを見て悲しそうな顔をする。

 それを見て、私は子供の頃に飼っていた犬の晩年を思い出す。
 何かを諦めたような悲しみの滲む顔。

 どうして悲しそうにするのだろう。
 穏やかに笑いながら大切なものなんて何一つないかのように退廃的に、自分を痛めつけるように酒を飲む孤独な大人。

 気の利いた小話をたくさん知っていて、いくらでも私を笑わせてくれる面白い大人。

 Мさんは一口酒を飲んで、「美味しい」と言い、それだけで満ち足りた顔をする。


 Мさんが何を考えているのか、何を思って悲しんでいるのか、私は知らない。

 Мさんの話を聞いていると、思いもしないことがめくるめくように展開していって、並の小説なんかを読むよりも面白くてためになった。
 酒の席で、Мさんは先生で、私は生徒だった。奇想天外に面白い話をしてくれるМさんが何を考えているかなんて、生徒の私には及びもつかない。


 酔っぱらったМさんは、頬を赤くして笑いながら、時折私のことを褒めた。

「君は堂々としていて、素晴らしいと思いますよ。そのままでどんどん前に歩いて、生きていくべきだと思います。前に出て、前を向いて、やりたいことをやって、歩いていきなさい。皆、認めてくれますよ」

 そう言われても、アルバイトでその日を暮らして人生の方向すら考えたこともない小娘の私にはどう答えたらいいものか分からなくて、「そうですかね」と答える。

 日曜の午前に、珍しくМさんから電話があった。
 私はアルバイトが休みで、部屋でごろごろしていたので、「今日、暇なら美術館に行きませんか」という誘いに「いいですよ」と二つ返事で乗った。

「職場でね、券を貰ったんですけど、一人で行くのは面倒くさいなと思って」
「何の職場かそろそろ教えてくださいよ」

「それは秘密です。君の思っているような立派な仕事ではないから、ガッカリしますよ」


 美術館では、地方の大きな美術館から借りてきたという大きな企画展が催されていた。

 モネ、ゴッホ、ルノアール。
 美術に詳しくない私でも知っている画家の絵が多く並び、美術館に行きつけない私は、それらの立派な絵画を前に、「これらの絵がどうして素晴らしいのか」ということを、自分なりに理解しようと眉間に皺を寄せて必死に考えた。
 誰が見ても綺麗な絵や、緻密な絵や、好きだと思える絵が「どうして素晴らしいのか」は答えられるけど、筆の跡が雑に残る作品は、どんなに考えてみても、「どこが素晴らしくて、歴史に残る美術品として、美術館に飾られてるのか」ということが、分からなかった。

 私とМさんは、他のお客もそぞろ歩く美術館の中を、無言でゆっくりと歩いた。Мさんはところどころの絵の前で足を止め、それを覗き込んだりしている様子だった。
 私は素晴らしさの分かる絵が少なくて、「感想を求められたら、何て答えよう」と、少し困ったような気持ちで歩を進めていた。

 Мさんが一枚の小さな絵の前で立ち止まる。
 作品を覗き込んでから、私を探すように周囲を見回していたから、私はその傍らに行った。

 覗き込んでいた小さな絵を見ると、下に「ピカソ」と書かれていた。作品自体は乱雑な線で描かれていて、何が描かれているのかすら、私には分からなかった。

「この絵、どこが素晴らしいのか分かりません。雑だし」
 感想を求められたら困ると思い、先に小声でそう言ってみる。

 Мさんは小さく笑い「これ、絶対一日でやっつけで描いたな、と思いませんか」と言った。


 美術館に行った日の夜、いつものように夕食を食べながらお酒を飲んでいると、焼酎の瓶を傾けながら、Мさんが「人の友達っていうのは、楽しいですね」と言う。

「人の友達、って」
 Мさんは楽しそうに再び瓶からコップに焼酎を注ぎ、それを一口舐めてから笑う。

「君が猫なら良かったのになあ。そうしたら飼ってあげるのに。このまま楽しく一緒に遊んでいたいと思ってもね。よそのお宅の大切なお嬢さんだと、難しいですね。嫁にするのも、娘にするのも、そんな責任持てないですし」

 Мさんは一緒に遊んでいても、他の男性たちから滲むような下心というか、そういった下品な期待を感じたことがなかったから、『嫁』だとか、そんな言葉が出るのが意外で面白く思えた。

「Мさん、結婚とかしてないんですか」
「一人暮らしだって言ったじゃないですか」

 ああ、だからМさんには孤独な人という印象があるんだ。酒に酔いながら回る頭で私は内心納得したような気持がしていた。

「もう開き直って仙人になったら、良いんじゃないですかね」
「世俗をね、捨てきれないんです。僕は弱い人間ですから」


 また一口、舐めるように焼酎を飲んで、Мさんは少し真面目な面持ちで
「今から、誰にも言ったことのない話をしても、いいですか」
 と言った。

「いいですよ。聞くだけなら」
 私は片手で頬杖をついたまま、安く請け合った。Мさんは目を伏せ、気持ちを整えるかのように「ふう」と溜息を吐いた。


「僕は昔、今から何十年も前の僕がまだ貧乏学生だった頃、猫の親友が居たんですよ。

 僕の住んでいた四畳半のぼろい下宿の窓の立てつけが悪くて、閉まらなくても盗まれるようなものもないし、仕方ないやと思って僕は年中窓を開けっぱなして暮らしていたんです。
 夏はいいんですけどね、風が通って涼しいから。冬は寒いですよ。窓が開いたままだと。
 部屋の中と言っても、雪が降る日も、外と気温が変わらないですから。寒くて仕方がないから、冬は帰ったらすぐに布団にもぐる訳です。布団の中は暖かいですからね。そこで冬は部屋に居る日は一日中布団にもぐって、本を読んで暮らしていたんです。

 窓を開けてると、近くの野良猫が部屋に入ってくることもありましてね。
 だいたい僕が部屋に帰ると窓から逃げていくんですが、そのうちの一匹が逃げなくなりましてね。僕が部屋に帰って灯りを点けても、怖がらなくなって。眠っていた姿勢から首だけを持ち上げてこっちを見るんですけど、また丸くなって眠るんです。認めてくれたように思えて、嬉しかったんですよね。
 で、彼が居る以上、その部屋は、僕の部屋であると同時に、彼の居場所にもなったんです。だから僕は彼を追い出そうとはしませんでした。
 この部屋が気に入ってくれたのなら好きなだけいるといい、そんな気持ちでした。

 彼はきれいな猫でした。
 野良になる前は、お金持ちの家で飼われていたのかもしれません。痩せてはいましたけど、僕が食事のついでに、彼の分の食べ物を椀に入れてやるようになると、灰色の毛並みにも艶が出て、もともと綺麗だった緑色の目が爛々と宝石みたいに光るようになりました。

 部屋に居座るようになった初めの頃は、僕と目も合わせようとしませんでしたが、僕が用意した食事に口をつけ、僕の眠る布団に入ってくるようになり、僕が触ろうとしても嫌がらなくなりました。
 いつの間にか、僕の部屋だった四畳半は、僕と彼の暮らす部屋になっていたのです。

 言葉は通じませんでしたが、僕と彼は親友だったと思います。
 言葉が通じるけれど、心が通じ合わない人が山ほどいる世界で、彼は言葉は通じないけれど、いつも僕に寄り添っていてくれました。
 警戒心の強い野良だった彼が僕に心を開いて寛いでくれるのが、何より嬉しくて、心強く思えました。あれほど、お互いに心を開きあって、一緒に過ごせる友人は、人間では……あまり、居ませんね。

 年が離れているけれど、君は一緒に酒を飲んでいると、彼と居た時のように安らいだ気持ちになるので、多分、君は僕の数少ない友達と呼んでもいいと思うのですけど。

 でね、一緒に暮らして何年か経ったある日に、僕が部屋に帰ると、いつもは眠ったままの彼が、ぴんとした姿勢で座って僕のことを待っていたんです。
 時間はもう、夜中に近い時分でね、僕のことをじっと見ているんです。何かが違うな、と変な違和感を覚えて、彼を見ると、彼は開け放している窓の桟に上り、そこから僕を見返して、ひらり、と飛び降りる訳ですよ。そんなことは一度もなかったから、何かと思って。
 彼の飛び降りた先の道を窓から見下ろしてみると、そこで彼は下から振り返る姿勢で窓から覗く僕を見上げているんです。付いて来いと言わんばかりに、というかそう言っているとしか思えなくて。僕は急いで靴を突っ掛けて、彼のいる窓の下の道へ出たんです。

 僕が外へ出て、左右を見回すと、彼は住宅街へ続く坂を上る途中で座って、僕を待っているようでした。
 僕が彼の方へ坂を上り始めると、彼は向き直って僕を従えるようにゆっくりと坂を上ります。

 彼の背を追って坂を上がりきり、寝静まった住宅街の細い路地を抜けて、山だとか沼だとかが残る地域まで歩いてきて。
 その間も彼は時折道の先で立ち止まって、僕が追い付くのを待っては、また歩き始めるんです。どこかに僕を連れて行きたいんだな、とさすがに僕にも分かりましたから、どこかへ着くまでは彼に従って歩く覚悟を決めました。

 僕たちは部屋を出てから幾分か月が傾くくらいの時間を歩きました。普段暮らしている地域を外れ、僕は歩いたことのない見覚えのない場所を歩いていました。
 山に沿う形で川が流れ、昔の鉱山跡のような暗闇がそこここにあり、砂利置き場があり、溜池のような沼があり、……僕が普段暮らしている比較的開けた住宅街から歩いて来られる場所に、こんな風景が広がっていることに不思議な違和感を抱きながら、僕は彼の背中を追って歩き続けていました。

 彼が足を止めたのは、鉄線で閉じきられた工場を囲むフェンスの前でした。彼は足元にあるフェンスの破れた個所を潜って内側に潜り込み、再び「ついて来い」と言うように、僕を振り返りました。

 フェンスの破れは、僕が潜るには小さすぎたので、僕は鉄線に気を配りながら、そのフェンスをよじ登ることになりました。
 服が引っかかりズボンがひっかかり、多少苦労しながら向こう側に降り立った時、彼はその奥の建物の入り口の近くに座って、僕を待っていました。

 多少の月の明かりはありますが、人けのない真夜中の工場なんて、ほぼ暗闇に近いほどの暗さです。建物の中に足を進めるのは気が進まないと思いながら、それでも僕は彼に従おうと思い直しました。
 何を思ってここまで僕を連れてきたのか。それを見届けないことには、僕たちの友情に申し訳が立たないように思えたのです。

 ほぼ真っ暗闇の工場の中を、彼は迷うことなく進んでゆきました。僕は置かれたものに躓き、蹴飛ばし、苦労しながらも、何とか彼の導く階段を上り、二階にある資材置き場らしい部屋に辿り着きました。

 その場所には、期待していたような変わった様子はありませんでした。人でも死んでいたらどうしよう、と思っていたのですが、反面、お金の束でもあるのかと思っていた期待を裏切られた分、少し拍子抜けしたような気持がしたのを憶えています。

 彼は僕をその部屋へ導くと、その足で身を翻し、闇の奥へ消えました。僕は彼の消えた闇の底へ目を凝らしました。最初は何も見えませんでしたが、次第に目が慣れてくると、薄ぼんやりと階下の空間に生き物らしき気配があることが感じられるようになりました。

 ――気付かれてはいけない。

 ふとそんな予感が胸の中を過り、僕は息を殺して、階下の暗闇を静かに見守っていました。  

 初めは一つ二つだった気配は十を数え、気が付くと数えきれないほどのものになっていました。
 数えきれないほどの生き物は何をしているという訳ではなく、ただ下の空間を共有しているだけのようでした。 それぞれが座り込み、それぞれが気ままに時間を共有している。それを僕は暗闇の中、黙って息を殺して、見守ろうとしていました。

 何十もの生き物の気配、それが全て猫だと気が付いたのは、そしてその中に僕をここへ導いた彼が居るだろうことは、月の光が差し込むまで、恥ずかしながら気が付きませんでした。

 月の光に照らされた光景の中にあったものは、何十、いえ何百もの猫の姿でした。
 小さいものから大きなものまで。おそらく街中の猫が集まっていたのでしょう。多すぎる数の猫の中で、彼がどこに座っているのかは、確認することができませんでした。僕は自分の目に映る信じられないほどの猫の数に、その不思議な光景に、息を飲みました。

 いつか聞いたことがあります。
 猫は夜中に集まって、集会をしていると。人間は決して目撃することができないのだと。

 人間が決して見ることのできない、猫の集会を、僕は今、目の当たりにしている。彼が僕を今夜ここへ導いたのは、これを見せてくれるためだったのだと。彼はそれほどに、僕に信頼を寄せてくれていたのだと。

 そんなことを考えて、わずかに姿勢をずらした瞬間でした。何かを踏み、足元で小さな音がして、階下の猫が一斉にこちらを見たのです。

 何百もの、猫の瞳が一瞬にして、僕の姿を捉えました。それは口では言い表せないほどの恐怖でした。
 背中から首筋へ冷たい気配が走り抜け、恐怖という暗い影になって僕を支配していくのを感じました。全身の毛孔が総毛立ち、息が詰まったように、寒気を感じながら僕はただぱくぱくと虚しく口を動かしました。
 逃げようにも、体が金縛りにあったように動きません。目を離すことのできない階下からは、依然何百もの怒りに滲んで見開かれた猫の瞳が僕の姿を捉えたままでいました。

 ――それが、その時に憶えている最後の光景です。


 翌朝、もう日が高くなってから、僕はその工場で働く工員に揺り起こされました。どうしてこんなところで眠っていたのかと問われ、僕は周りを見回しました。そこは昨夜、僕が居た二階にある資材置き場でした。
 階下にあった何百もの猫の存在は気配すら消えていて、僕は多少混乱しながらも、「散歩をしていたら迷って、疲れたから眠っただけだ」と答えました。最初は泥棒かと疑われていたようなのですが、何も盗られていないことが分かり、僕の手持ちの中から何も見つからなかったこともあって、僕は注意を受けただけで解放され、日の当たる世界の中に戻ってくることができました。

 体が泥の詰まった袋のように重くて、足を引きずって歩くので精一杯でした。どこをどうやって帰ったのかは、憶えていません。ただ酷く疲れていて、重たい体で部屋へ辿り着いて布団に倒れこみ、僕は数日間眠り込んでいたように思います。

 数日後に目を醒まして、体が軽くなっていることを知り、それと同時に、あの夜以来彼が部屋に帰ってきていないことを知りました。

 結論から言うと、彼はそれきり僕の部屋へ帰ってくることはありませんでした。
 きっと僕を集会へ連れて行ったことが猫の掟に触れてしまったのでしょう。彼は罰を受けたのかもしれません。それでも僕は、その部屋を立ち退いてしまうことになるまで毎夜、彼の帰りを待ちました。
 季節が巡って少しずつ寒くなり、布団に潜って過ごすようになると、彼の体温のない湿った布団は重く冷たく僕に圧し掛かり、僕はもう一人きりなのだということが思われて悲しくて仕方がありませんでした。

 さっきも言ったけれど、この話は、大学を出て、仕事について、もういい大人になった今日まで誰にもしたことがなかったのです。誰かに話をしてしまうと、彼が僕に傾けてくれた信頼を傷つけてしまうように思えて。

 でももうこれも何十年も時間が経ってしまった話ですからね。話したいと思ったのも君が初めてでしたし。長い話になってしまいました」


 そこまでを一気に話して、Мさんは息を吐き、水滴が溜まってしまったグラス回りをおしぼりで拭いてから、ゆっくりと酒を口に運んだ。

「信じても、信じなくてもいいですよ。いつもの軽口の一環です」
 そう言って笑って見せるМさんの伏せた視線が、今の話が間違いなく本当の話だと裏付けているように思えて、私は言葉を返しあぐねた。

「聞いてくれて有難う。ここ何十年も持ち歩いていた重い荷物を初めて、肩から下ろしたような気分ですよ」

 そう言って笑うМさんの銀色の白髪交じりの髪が揺れるのを、私はぼんやりと眺めた。

 それから暫くして、アルバイトの帰り道に思いついてМさんに電話を掛けると、知らない男の人が電話に出た。

「ああ、この電話、落し物なんですよね。落とし主が分からなくて、今、調べているところなんですけど」
 電話口の男性は警察官らしかった。

「あなた、お友達なら、この落とし主の人の、家や名前、知ってるんじゃありませんか?」
 知ってます、と答えようとして、口ごもる。
 私はМさんの苗字と、住んでいる市の名前しか、知らない。

「あの、○○市のМさんという男性だということは知ってますが、私、連絡先はこの電話しか聞いていなくて」

「ああ、そうですか」
 と電話口の警察官は面倒くさそうに答えた。

「じゃあ、落とし主と会うことがあったら、電話を預かっていると伝えて貰えますか」
「……わかりました」

 電話を切ってみて、初めて私は、Мさんと二度と会うことがないかもしれない、ということに気付く。


 電話がМさんの手元に戻れば、また電話がかかってきて、一緒に遊ぶことができる。
 その時をのんびり待とう、と狼狽が落ち着いて、漸く思うことができたある日、私はバイト先の繁華街に近い駐車場で一匹の猫を見かけた。

 その猫は老猫と呼んでもいいだろう年頃で、銀色の白髪の髪を思わせる毛の色をしていた。

 私が息を飲むと、猫はまっすぐに私を見返し、身を翻して消えてしまった。

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