見出し画像

日韓を結び続ける韓国「孤児の母」の遺志

かつて韓国で3000人以上の孤児を育てた日本人女性がいたのをご存じでしょうか。田内千鶴子さん、韓国名は尹鶴子(ユン・ハクジャ)さん。

7歳で日本統治下の韓国南西部・木浦(モッポ)に渡り、以後、現地で結婚、日本の敗戦/韓国解放、朝鮮戦争、軍事政権時代という激動に翻弄されながら献身的に子供たちを育て続けました。いつしか韓国の「孤児の母」と呼ばれるようになった田内さん。1968年、56歳でその生涯を閉じると、木浦市は初めての「市民葬」を執り行い、駅前には3万人が集まって追悼しました。現地の新聞は、その様子についてこう伝えたそうです。

「木浦が泣いた」


尹錫悦大統領、木浦へ

10月13日、尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が夫人らを伴って木浦を訪れました。田内さんが夫の尹致浩(ユン・チホ)さんと共に孤児たちを育てた児童福祉施設「共生園」の設立95周年を記念する式典に参加するためです。大統領は田内さんの功績を改めて称賛し、「『共生園』が韓国社会で子どもたちの支援の先頭に立ち、韓日両国の友情の象徴としてさらに発展することを願う」と祝辞を述べました。

また、式典では、自民党の衛藤征士郎議員が岸田首相の祝辞を読み上げました。祝辞の中で首相は「『共生園』の理念に思いを馳せ、日韓がパートナーとして新しい時代を切り開くべく、私自身努力していきたい」とメッセージを送りました。

田内さんの思いを受け継いで日本で設立された社会福祉法人「こころの家族」の市川速水理事長補佐は、今回、尹大統領がソウルから遠く離れた木浦まで足を運んだ背景について、「『共生園』の歴史が、日韓の国民間で激しく上下してきた好感度を超えた温かい歴史の象徴であることは、大統領自身にも早くから伝わっていた」と話します。
市川さんによれば、尹大統領は今年3月に日韓関係を一気に好転させた首脳会談に臨むために来日した際、在日同胞の人たちとの会合で「共生園」の歴史について「ミュージカルにしたらいいですね」と述べました。さらに5月の広島サミットで再び来日したときも、日本政府側との懇談で「共生園」や「こころの家族」が運営する老人ホーム「故郷の家」について言及したそうです。

日本の敗戦を受けても帰国することなく尹致浩さんと孤児たちを育て続けた田内さんでしたが、社会では日本への恨みが少なからず渦巻いました。ときには暴徒が園に押しかける事態になりましたが、そこで必死に田内さんを守ったのは孤児たちだったといいます。

社会福祉法人「こころの家族」HPより

朝鮮戦争中の1951年には夫の尹致浩さんが消息を絶ち、田内さんは再会することができませんでした。北朝鮮軍に殺害されたものとみられます。一人となっても、なお、田内さんは生涯にわたって「共生園」を守り続けたのです。
その生き様が、尹大統領の心にも響いていたというわけです。

日韓関係をも動かした田内さんの遺志

尹大統領は、木浦に向かう前の13日午前、「日韓パートナーシップ共同宣言」が発表されてから25周年となるのに関連して両国の友好団体と面会していました。1998年に出されたこの宣言は、今でも日韓関係を好転させた歴史的な出来事だと評価されています。
当時の両国首脳は、日本が小渕恵三、韓国は金大中(キム・デジュン)。金大中は、木浦の出身でした。

韓国メディアによりますと、尹大統領は「共生園」の式典で、田内さんらが孤児を育てる様子を地元で見ながら成長した金大中と、「共生園」の活動をよく把握していた小渕だったからこそ、「日韓パートナーシップ共同宣言」が誕生したのではないかと話したそうです。つまり、98年の宣言のルーツは「共生園」であったのだと。
確かに、そうだったのか、と気づかされました。

それから25年後。
3月の日韓首脳会談で尹大統領が徴用工訴訟の問題で解決策を示してから、悪化の一途をたどっていた日韓関係は一気に雪解けムードとなりました。国内の根強い反発を押し切って徴用工訴訟の問題に切り込んだ尹大統領も、田内さんに強く共鳴していた…
田内さんの遺志は、再び日韓を結びつけたといえそうです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?