ミリオンライブのライブとは何だつたのか、何でなく、何であり得るのか

ミリオン5thライブに行つてきた話

 今更ながら、アイドルマスターミリオンライブの5thライブ『BRAND NEW PERFORM@NCE!!!』を観てきました。初参加にして幸運にも両日現地で。アイマスシリーズの中ではやや地味な位置付けのミリオンですが、さいたまスーパーアリーナ2Daysを満員にするだけの勢ひはあり、5回目の周年ライブといふことで演者の練度も上がつてをり(この点には留保もあるのですが後述します)、非常に見応へのあるものでした。
 ここでは、今回のライブ参加を通じて個別のライブ感想といふより「中の人ライブ」とは何なのか、といふことについて考へてみたいと思ひます。

個人名義のライブでも「2.5次元」でもなく

 アイマスに限らず、キャラクターの「中の人」がコンテンツの曲を歌ふライブといふのは昨今増えてきてゐますが、なかなか解釈といふかコンセプトの読みに難しさがあるもののやうに思ひます。俳優がキャラクターを演ずる「2.5次元」とは明らかに異なり、声優たちは(様様な工夫でキャラに寄せたとしても)キャラクターそのものとして舞台に上がる訳ではなく(身長、体型、その他の面でキャラクターを再現することは不可能な場合が多い)、かといつて声優個人の名を背負つて「アーティスト」として歌ふライブでもなく、「本人として舞台に上がりつつもキャラクターを透かし見せることを期待される」といふ、微妙な役回りとしてステージは進行されます。
 この点で観る側が「キャラクターの忠実な再現」を求め、「場の共犯者」として在ればよい(この辺りは以前書いた記事を参照ください)「2.5次元」的なものを期待すると肩透かしかと思ひます。しかしそこに於いて、ただ「中の人が曲を歌ふだけのライブ」に留まらない「キャラクターの受肉」的なものも確実に存在することを説明するのはなかなかに難しいものです。観る側にもそれなりのリテラシーといふか、より複雑な読み筋が求められる面はあるかも知れません。

「キャラクターと演者を一体として見る」といふアプローチ

 単純に「キャラの再現」であれば恐らく2.5次元に軍配が上がるであらう舞台芸能で、では「中の人ライブ」にどういふ優位性があるのか(大人の事情が諸諸あるのはひとまづ措いて)。声帯が同じとはいへライブでは声や歌ひ方も変はるのに、「何を観に」観客はライブへ足を運ぶのか。僕個人としても長らく疑問は抱いてをり、その全てが氷解した訳ではありませんが、いくつかの映像を観て実地に足を運ぶまでに至り見えてきたものは多少あると思ふので、それが当然になりすぎて判らなくなる前に書き留めておきたいと思ひます。
 個人的にアイマスや他のコンテンツの中で特にミリオンライブを選んでライブに足を運ぶやうになつたのは、たまたま巡り合はせとして映像で見たパフォーマンスのレベルの高さも大きいのですが、これだけのメンバーが欠けることなく5年続けてきた重みを感じたからでもあり、キャラクターと演者が共に歩んできた「歴史の目撃者」になりたいといふ気持ちなのかも知れないと思ひます(今回から2人増えましたが、欠けることはなくこれからも続いてほしいものです)。
 アイマスライブでステージに立つのはあくまで演者としての声優なのですが、その人たちが「キャラクターに寄り添つてきた時間」といふか「積み重ねてきたもの」を表現する場としてライブはあるのかな、と思ひ、それゆゑに歌の中で「アイドルが見える一瞬」があるのだらう、と。我我は謂はば「同志」として舞台に立つ声優を見、その先に「表現されるアイドル(キャラクター)」を見出すのかな、と思つてゐます。それは演技と呼ぶよりも、演者とキャラクターが一体となる瞬間のドキュメンタリーを見る気持ちに近いのかも知れません。特にアイマスに於いて顕著な「キャラクターに演者の要素を輸入する」要素はそこでは大きなプラスとして働くのではないかな、とも。
 因みにこのライブに先駆けて観た、AR技術を駆使して「アイドルを現前させる」試み、『THE IDOLM@STER MR ST@GE!!』(千早回を観ました)とは、アプローチも感触も全く違ふものであつたことは言ひ添へておきたいところです(これについては既にいろいろと語られてゐるので詳しくは検索各各で、といふ感じです)。

実際、ライブはどうだつたか

 いやまあ初めて現地で観るライブは「マスゲームのやうな」一体化した乗りも含めてその場に居る者としては最高だつた訳ですが(あの一体感が「その場で目撃する」感覚や「同志」としての感覚に寄与するところは大きいと思ひます)、今回新曲を中心として、ユニット曲も新規メンバーで、といふセットリストの関係もあり、完成度としては4th武道館の方が上だつたかも知れないとは感じました。曲によつてはまだ「仕上がつてゐない」といふか。ただ「ミリシタでの1st」として見るとそこも含めて清新さを感じられるものであり、また演者の楽しむ気持ちが伝はつてくる度合ひは4th以上であつたかも知れないとも。さういふ意味ではやはり「最高」だつたと言つてよいかと思つてゐます。
 個別の曲について言及すると切りが無いのですが、小笠原早紀氏に「茜ちゃんあいうえお作文」のコールをし、中村温姫氏に合はせて「ローコナーイズ!」と叫び、戸田めぐみ氏のパフォーマンスに歩を、原嶋あかり氏の表現力に育を、平山笑美氏の歌声の伸びにぷっぷかさんを見出し、近藤唯氏が震へる声を気迫で抑へて歌ふ姿に可憐を重ね合はせ、駒形友梨氏の叫びに涙を流し、浜崎奈々氏に全力で「のり子」コールをぶつけ、稲川英里氏と共に「はいどうどう」と歌ひ、Machico氏から翼の姿を、アコギを掻き鳴らす愛美氏にジュリアを見、他の全ての演者からも(新人2人の堂堂たるパフォーマンスも特筆すべきでせう)それぞれの演ずるアイドル、アイドルと共に歩んできた歩みを叩き付けられ、それにこちらはコールや歓声、拍手で応へるといふ体験はやはり「ライブ」でなくては味はへないものだと感じました。

まとめ:やはり「ライブ」にしか無いものがある

 確かにそれは「キャラクターの再現」ではなく、それを求めるならば「2.5次元」や「ARライブ」へ行くべきなのですが、「中の人ライブ」にはそこでしか味はへない「ドキュメンタリー的な瞬間」があり、どちらかがもう一方の代替になるものではないと感じました。完全にアプローチが違ふのでミスマッチがあると悲しい結果にはなるのでせうが、いづれにしても求められるのは「積極的に楽しみに行く気持ち」かなあ、と。「共犯」になれないと厳しいといふのはあるかと思ひます。行けばだいたい否応無く「巻き込まれる」感じはありますけれど。そこは乗つたもん勝ちかな、と。

付記:少し残念なこと

 今回、外国人(漢字以外の名義)の参加者が意図的に一部に集められて席を配置されたらしい、といふ疑義が出てゐます。事実とすればとても残念なことです。主催、運営側には内部調査及び適切な対応を求めたく思ひます。パフォーマンスが最高だつただけに残念です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?