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【ネタバレ感想】オーズ本編を全否定する映画「復活のコアメダル」

はじめに

私は放送当時からリアルタイムでオーズが大好きな人間だ。
わずかな客演でもオーズが出るとあれば映画館へ行き、当時からほとんどの舞台挨拶、ヒーローショーに足を運び、年に数回は本編全話を見返し続けている。多分20周以上は本編を見ている。ゲームも一通りプレイしたし、サントラ、書籍、グッズ、フィギュアなども沢山購入し、少し前に出たダブル&オーズ一番くじはロットで購入した。

少しでもいつかの明日に貢献できるなら…と欲望を開放し続けた結果、まさか大好きなオーズ本編のすべてを全力で否定するヘイト映画が創られるなど、夢にも思わなかった。

【仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル】
プロデューサー:武部直美 監督:田崎竜太 脚本:毛利亘宏

この映画を2月28日に舞台挨拶で二度見て、公開日にもう一度見た。賛否両論とのことだが、私個人としては賛否の「否」しかない印象だ。何故そう感じたのかを、11年分の怨念を込めずになんとか冷静に言語化したいと思う。

【注意事項】
※100%映画の批判しか書いていないため、「復活のコアメダル」に納得した・賛否の賛だという方はご注意ください。本人は冷静に描いているつもりだが、かなり怨念が漏れている。
※制作陣の意図を読み解くため、パンフレットやオーディオコメンタリーのネタバレを含んでいるので、そちらに関してもご注意いただきたい。

既に多くの感想でも語られているとは思うが、この映画が不評な点はおおむね下記の要素が原因となっているのではないだろうか。

(1)オーズ本編の根幹を否定
(2)予告詐欺ともいうべき映司の出番の少なさ
(3)都合よく歪められたキャラクター
(4)破綻している設定
(5)雑なストーリー構成
(6)繰り返される本編オマージュ
(7)投げっぱなしエンドロール
(8)偏ったBGM選曲
(9)ファンのことを考えない制作陣

かなり記事が長くなってしまったが、それぞれの内容を項目別に記述していきたい。

(1)オーズ本編の根幹を否定

・映司の成長の否定

これがこの映画にとって最も致命的で、残念な要素の一つであろう。
火野映司は確かに危うい人間であった。誰かを助けることに必死で、自分の身を顧みない。その必死さの中には、助けたいという純粋な想いだけでなく、過去のトラウマからきた後悔を埋めようとする感情があったように見えた。

そんな本編途中の映司ならば、いつかはこの映画のような死に方をするかもしれない。だがアンクの腕を掴んだあの一年で、彼は最後の最後で成長した。自分一人の力だけではなく、他者と手を繋いでいくことで、より遠くへと手を伸ばすことができる。その結論に彼は1年かけてようやくたどり着いた。それはアンクとの関係だけでなく、周囲の人々と紡いだ絆がもたらしたものだった。

映司は本編以降の映画や客演作品では、健全な精神を持った完全無欠のヒーローになっていた。他作品のライダーと並び立つと、誰かと手を繋ぐ象徴のような存在で、すさまじい安定感を放っていた。

しかし、そんな映司はこの映画には存在しなかった。誰かと手を繋ぐことさえなく、彼は一人で戦って自己犠牲を選び死んでいった。
オーズらしい、映司らしいという声があるが、当然である。映司だけでなく、仮面ライダーなら、ヒーローなら間違いなくああいう状況で無防備な一般人を救いに走るだろう。

その行動自体をおかしいと言っているわけではない。
ああせざるを得ない状況に置くような脚本を10周年で作ること自体が、映司の成長を、一年の積み重ねで得たものを、全くなかったことにしてしまっているということなのだ。


・映司の欲望の矮小化

かつて救えなかった少女と同じシチュエーションで別人の少女を救って、彼は何をどう満足できたのだろうか。「紛争地域の少女」は確かに映司がかつて救いたかったものであったが、あれはあくまで過去なのだ。現在進行形で映司が最も救いたいものではない。その過去を現実として受け入れたからこそ芽生えたものが、映司の抱える欲望の本質なのではないだろうか。
映司の救いたいものは過去のトラウマそのものではない。今の「すべて」なのだ。

本編36話のユニコーンヤミー回で、夢を具現化された映司は地球を丸ごと出現させた。その欲望の大きさにヤミーですら引いていた。「手の届く範囲」と言いながらも、実のところ彼は何一つ自分の手から取りこぼしたくないと思っていた。できることなら世界中の全てを、と。そう思うきっかけとなったのが、あの紛争地域の少女だった。

それを裏付けるのが、この言葉である。

伊達明「昔はちゃんとかけてた…そうだろ?」

オーズ本編32話より

本編32話は映司の過去と出自が明らかになった回だったが、彼がトラウマを抱える以前は、命を投げ出すような無謀を行っていなかった…ということが示唆された。「命がけ」というのは、自分の命の価値をわかっているからこそできる行為で、今の映司は自分の命の価値にすら目を向けず何もかけていない。命がけですらない、と伊達は真理を突いていた。

こうして、誰かを助けたいと思う心優しい青年は、潔癖なまでに全てを救いたいと思うようになった。もっとも終盤までの映司は「手の届く範囲」と言って、その感情に蓋をしていたわけだが…。

失った少女を重ねた別人を救っただけでは、彼は決して満たされない男なのだ。この映画の設定である多くの人類を失った世界でならなおのこと、残りわずかな人類をこれからも誰一人失わないよう全力を注いだに違いない。
他者と手を繋ぎ、「命がけ」の意味を理解したヒーローとして。

死の間際に「やっと届いたんだ…」と満足していた映司は、「俺の欲望はこれぐらいじゃないと満たされない!」と言い放った「劇場版 仮面ライダーオーズ WONDERFUL 将軍と21のコアメダル」(以下、将軍映画という)の映司とあまりにも乖離している。


・映司の「業」について

脚本の毛利氏は「火野映司という人の背負った業の深さを考えると、ハッピーな結末は迎えられない」とパンフレットで語っている。業に対する報いの過程で過去のトラウマを清算することができ、念願であったアンク復活を成し遂げることができた。これは映司の救済である。
…というのが、脚本に関わった制作陣の言い分である。

この言い分に突っ込み所は多数あるが、ここでは映司の「業」とは何か?を真面目に考えたいと思う。10000歩譲って映司に業なるものがあると仮定しよう。それは何かと考えていくと、

(A)紛争地域の少女を救えなかったこと
(B)誰かを助けたいという欲望を持っていること

…のどちらかを指しているのではないかと感じた。

(A)紛争地域の少女を救えなかったこと
これを業と言う場合、映司はその報いを本編開始前に受けている。
本編32話で、伊達や後藤が「要人の息子が紛争地域の英雄となった」という報道があったことを記憶していたため、映司の行動の美化は多くの人間が知ることになった大きなニュースだったのだろう。
自分の失敗をそんな風に広げられ、何も知らない周囲からもてはやされた映司の苦痛は計り知れない。
なお、映司は少女を救えなかったことだけがフォーカスされがちだが、ボランティアで送った募金が内戦の資金にされるなど、そちらの方面でも手痛い経験をしている。そういう意味では、少女を救えなかったことだけが彼の業ではない。その教訓が32話のヤミーの親・坂田に向けた言葉に集約されている。
映司の未熟な正義感と無力さが招いた業への報いは本編開始前に、その精算は本編で描かれていたのだ。


(B)誰かを助けたいという欲望を持っていること
映司にとって死が救済…という発言から考えるに、制作陣は映司の人助け精神を非常にネガティブなものとして捉えていたのではないだろうか。
だがこれを業という場合は、映司のキャラクター解釈が根本的にズレていることになる。
どうズレているかわかりやすいよう、下記に図示してみた。

映司のキャラクター像は本編開始前、本編、本編後の3つの段階で構成されている。
【本編開始前】ボランティア精神溢れる青年
【本編】上記に、トラウマで色々バグってしまった危うい状態が追加
【本編後】手を繋ぐことを知り、危うさを克服

制作陣は、誰かを助け続ける映司の姿を、彼の不治の病か何かだとでも思っていたのではないだろうか。確かに、そう呼べる状態に近いものがあったのは【本編】だが、既に最終回で克服されている。
制作陣の思考のズレ、それは制作陣の火野映司像、本編序盤~中盤あたりのみで構成されていないか…?…ということだ。最終回を経由していない、無茶して人助けし続けて破滅しそうな男のイメージで止まっているなら、助け続けることは業と呼べるかもしれないし、死も救済になりえる。

さらにに制作陣は【本編開始前】の状態に目を向けていない。【本編】のトラウマの払拭をし続ける映司にばかり目がいっていて、元々映司が「誰かを助けたい」という想いをただ純粋に抱いていた青年だったことを置き去りにしている。
誰かを助けたいという欲望そのものは、映司が本来持っている性質だ。決して業ではないし、ネガティブなものではない。例えトラウマを払拭できたとしても、決して消えない欲望だ。

このように、映司の特定の時期の一側面を拡大解釈して生まれたのが「業」という表現なのではないだろうか。


・明日のパンツの解釈違い

火野映司といえばパンツ、パンツと言えば火野映司…とすっかり認識されている明日のパンツ。この明日のパンツについてもこの映画は大きく解釈違いを起こしている。
というのも、映画で明日のパンツが登場するのはエンドロール、映司の墓標のような映像で現れるのみなのだ。

そもそも映司がパンツを持ち歩くようになったのは、「男はいつ死ぬかわからないから、パンツだけは一張羅を穿いておけ」という祖父の言葉に感銘を受けたためであった。
これだけならば、特に解釈違いはないと感じるかもしれないが、本編終了後の「仮面ライダー×仮面ライダー フォーゼ&オーズ MOVIE大戦MEGA MAX」(以下、メガマという)で、明日のパンツの持つ意味が明言されていたことを忘れてはならない。

映司「肝心なのは『明日の』ってとこ。これは、今日をちゃんと生きて明日へ行くための覚悟なんだ」

仮面ライダー×仮面ライダー フォーゼ&オーズ MOVIE大戦MEGA MAXより

いつ死んでもいい…という後ろ向きな覚悟ではなく、明日へ行くためのものなのだ。映司の祖父が最初からこのような考えを伝えたわけではなかっただろうから、映司が本編を経て出した答えだったのだろう。

そんな未来への希望そのものである明日のパンツを、公式は瓦礫の中に虚しくはためかせて、墓標にしてしまった。
これはオーズの明日を踏みにじる行為だ。映司がこのパンツを持ち歩いていた意味を何も理解していない。

なのに劇場グッズではこのパンツ柄のマスク&マスクスタンドが販売されている。マスクスタンドは十字型で、完全に墓標をイメージされている。
「いつかの明日」「明日のパンツ」と、オーズは明日への希望にあふれた作品だ。そんな希望を踏みにじったこのような醜悪なグッズを、よくもまあ販売できたものである。


・大きな代償を伴うアンクの復活

脚本:毛利氏「安易な復活なんて、誰も望んでないんです」
田崎監督「何事もなくアンクがいるというのはありえないんです」

復活のコアメダルパンフレットより

制作陣は本編で映司が「楽して助かる命はない」と言っていたことを基盤に、アンク復活の土台を決めたのだという。そしてその考えから「アンク復活には大きな代償が必要=それはたった一つしかない」という結論に達し、今回の映画が制作された。

このインタビューを読んだとき、あまりの作品解釈の違いに愕然としてしまうとともに、ああ…確かにこの制作陣がこの映画を作ったのだなと納得した。

「楽して助かる命はない」という映司の言葉。これは本編1話で、アンクにオーズドライバーを渡された時の発言だ。
この発言は制作陣の言うような「命を助けるには相応の対価が必要」というような、等価交換を意味する用途で使用されていない。

1話の状況から、この発言の意図を読み解いてみよう。
わけもわからず赤い腕(アンク)から逃げていた映司は、カマキリヤミーと遭遇する。次々と人々が襲われ、職務質問をしてきた刑事さんが窮地に陥り、追いかけてきたアンクもまた倒されかける。
映司は朝からの長い付き合いのアンクを庇ったことで彼に見込まれ、オーズとして戦うよう迫られた。その時出たのが「楽して助かる命がないのはどこも一緒だなぁ!」という発言だ。

過去の経験から、誰かを助けることがいかに難しいか映司は学んでいる。与えられたメダルとベルトを手にすることで、一体これからどのような道が待ち構えているのか?想像もできないが、恐らく困難を極めるのだろう…でも今目の前にいる人たちを救えるのなら、その渦中に飛び込んでやるしかない…!

…といった、決意が含まれていることを映司の表情からも感じ取ることができる。つまり、「誰かを助けるには困難が伴う」という意味のほうが適切ではないだろうか。

「安易な復活なんて、誰も望んでないんです」「ありえないんです」と言い張る制作陣だが、こんな映画こそ誰も望んではいなかったはずだ。
復活には代償、命には命…そんな鋼の錬金術師のような等価交換的価値観が、仮面ライダーオーズ本編のどこかに1ミリでもあっただろうか?この制作陣の思い込みでしかない。


・本編ゲストキャラのその後を否定

世界がめちゃくちゃになってしまい、わずかな人類がレジスタンス活動を行っている世界設定。この設定からすでにオーズ本編が無意味にされている。
世界がこうなっている以上、本編で登場した個性豊かなゲストキャラたちの夢や欲望も当然踏みにじられている上に、その生死も定かではないからだ。

マイペンライ筑波さん、父さんが倒産した山名さん、仲睦まじい小森夫婦、医療ドラマ回の女医さん、お金配りマン坂田さん、映司の同級生の北村くん…みんな自分の欲望と向き合って克服しても、この世界では夢破れたり亡くなったりしまったんだな~…という結論になってしまう。

先代オーズ復活の危機を煽るために「世界崩壊」などという設定にしたのだろうが、あまりに軽率な導入だ。本編全てのゲストキャラを舞台設定だけで不幸にしている。
「こんな作品を作ってしまっていいはずがない」と、この設定だけで悲しくなってしまう。


・一発逆転のカタルシスの皆無

オーズ本編は乱戦が多く、多勢に無勢状態でオーズが苦戦するシーンが多い。オーズVSヤミーにグリードの乱入がしばしば発生するからだが、そこから一発逆転をするのがオーズの醍醐味だと私は感じていた。
(この一発逆転の博打要素、オーズ制作当初のコンセプトである「賭博黙示録カイジ」の空気感を感じてとても面白い)

この映画は、そういった痛快な逆転劇が微塵もない。それまでの負けを帳消しにするような大逆転がないのだ。

かの有名な「トロッコ問題」(※)というものがあるが、これを大真面目に考えて小さな枠組みの中の価値観で作られてしまっているのが、復活のコアメダルの脚本だ。

(※)分岐したトロッコのレールの上に1人と5人が横たわっていて、トロッコに乗る自分がどちらのルートをとるかを問う倫理学的問題。

将軍映画の映司はまさにこのトロッコ問題を問われたわけだが、「みんな家族だよ!」という一言で、どちらを選ぶのか?というルールそのものをひっくり返して全てを救っている。
そういう、盤上のルールをひっくり返してしまうことに説得力があり、ご都合と言われない奇跡的なバランスで成り立っていたのが仮面ライダーオーズだった。

アンクの死で切ない余韻を残したものの、オーズは基本的に「欲望は世界を救う」明日への希望の物語なのだ。
そして何より、アンクは犠牲になったのではない。経緯だけ見れば映司を殺さなかったことで…ということになるが、そんな小さなドラマだけがアンクの一年ではない。彼自身もまた映司につくという博打を打ったことで紆余曲折を経て、彼の欲しかったものを見つけ、命を手に入れた。
アンクの死は決して何かの代償や犠牲ではない。彼自身が選択と決断を繰り返した末に手に入れたものなのだ。アンクもまた、大博打に勝利したとも言えるのではないだろうか。


(2)予告詐欺ともいうべき映司の出番の少なさ

予告で映っている映司は全て、映司の瀕死の肉体に憑依したゴーダだった。いつかの明日と聞いて、誰が「映司の姿をした、ぽっと出のグリード」とアンクの急造コンビを観たかっただろうか。しかもほぼ脅迫のようなコンビ結成である。

(A)アンクがメダルを投げ、映司が変身する流れが一度もない
(B)「おかえり、アンク」も映司ではない
(C)アイスを渡したのも映司ではない

恐らくこの(A)(B)(C)は「いつかの明日」を観に来た人たちが見たい三大欲求だったはずだが、どれも満たされることはなかった。王道を外すにも程がある。数分の客演作品の「仮面ライダー平成ジェネレーションズFINAL ビルド&エグゼイドwithレジェンドライダー」(以下、平ジェネFINALという)のほうが、これらの欲求のほとんどを満たしている。

特に(A)は致命的だ。オーズの変身とは「アンクがメダルを投げるところからが変身シーン」なのだと過去に小林靖子氏が言っていたのだが、私はこの話がとても好きだ。メダルを投げ、受け取る…メダルとは力であり、力とは映司が最も求めているものだ。映司が求めているものをアンクが与えるシーンからがオーズの変身なのだ。一連の動作が映司とアンクの関係性の象徴なのだ。

武部Pは映画についてオーディオコメンタリーで「今回は映司とアンクのお話なので、二人に焦点をあてた」というようなことを言っていたが、映司としての変身シーンがないこの映画が二人に焦点をあてたつもりで作られているのが、私には信じられない。


(3)都合よく歪められたキャラクター

・脚本に忠実な盤上の駒、映司

かつて救えなかった少女と別人の少女を救って満足してしまっている。
映司は本編10話で遊園地にいる少年(鈴木福)を、32話で遊園地で取り残された少女を救っているが、この映画の映司基準で言えば、彼・彼女を救っている時点で「やっと手が届いた」と満足しているはずである。

また、とてもしたたかな面を持つ彼が基本フォームで無策に先代オーズに挑んだこと、そしてゴーダにいいように体を使われっぱなしだったことも釈然としないものがある。本編序盤でグリードからメダルをかすめ取ったり、ウヴァとの人質取引の裏をかこうとしたり…戦況をひっくり返す策士でもあった彼の姿はどこにもなかった。

極めつけは、体内からアンクを追い出した行動だ。自分の小さな欲望だけを満たして、アンクを復活させるだけさせて、何の後始末もせずに死を選んだのだ。決められた枠組みで、死というゴールに向かって忠実に、盤上の駒として動いたかのような行動ばかりが目立った。

・献身的で従順なアンク

アンク視点で描かれていたのもあって、本編より良くも悪くも感情豊かすぎた。そして映司に従順すぎた。みすみす彼の「願い」とやらを受けとめてやりたいようにさせて死なせてしまったアンクは、欲望の化身とは程遠かった。いくら本編のツンツンツンデレが後日談でツンデレに軟化していようとも、精神世界での映司との初対面シーンでは、「ふざけんな!」と反抗する姿が見たかった。

この映画がアンクの顔を曇らせることに全力を注いでいるせいで、本編でよく見せていた彼のシニカルな笑みがほとんど見られなかったのが残念でならない。死んだ映司を見取り目を閉じさせるアンクなど、一体誰が見たかったのだろうか。相棒の命と等価交換のような表現で突如たたき起こされた結果がこれとは…この映画一番の被害者だ。

僅かな人類しか生存しないこの世界で、その原因を作ったグリードと同様の目で見られ、唯一のグリードとして映司のいない世界で存在せねばならない彼は、哀れとしか言いようがない。永遠を生きる彼と違い、いずれ仲間たちも寿命を迎えるのだから。

ちなみに、「永遠に近い命を持っているアンクの記憶の中で、映司はずっと生き続ける」…というのが、脚本の毛利氏の言い分だ。(パンフレット参照)個人的には映司がアンクとともに過ごす時間があり、天寿を全うしていればこの言い分もわからなくはないが、復活直後にあのような死に様を見せつけられ、最終回で守ったはずの彼自身の命まで与えられた今作では…もはや地獄でしかない。

・無神経にされてしまった比奈

アンクがまた兄に憑いているが、全く心配していない。
映司を支え、アンクを想う…本編では確かに二人の心に寄り添ったヒロインだった彼女が、「こんな時映司くんがいれば…」などと映司に戦いをまかせっきりにする発言をしている。本編42話で「映司くんは神様じゃない!!」と大衆に絶叫していた彼女はどこへ行ってしまったのだろうか。

また、アンクとバース組が気づいたゴーダについても、「言われてみればなんか変だけど」…と一人だけ全然気付いていなかった。ここまで無神経に描く必要があるだろうか。

・命を粗末にし傍観する男、伊達

ゴーダとのやりとりで「命を捨ててでもお前を止める」ようなことを言ってしまっている。医者の本分はまず死なないこと、だったはずだが…まさか伊達さんの口から、真逆の言葉を聞くことになるとは…完全にアイデンティティが崩壊している。
まず自分が生きること、話はそれからだ…といったスタンスは本編では映司の異常性を浮き彫りにし、リアリティを伴い映司を俯瞰する大人として、伊達明というキャラクターを確立させていた。この発言一つで、そういうものが全部なかったことになっている。

また、ゴーダを怪しんだり、裏切りにくぎを刺したり、ちょくちょく口をはさんでいる割に、アンクがゴーダにぼこぼこにされて転がされても参戦しない棒立ちぶり。伊達さんは最後の瞬間にも見守るだけで何もしない。医者だったことを忘れたのだろうか。

かっこよく使っていた「現場対応」「見切り発車」という発言にも、現場対応はともかく…医者が使う言葉か…?と思っていたが、のちに東映の現場で使われている用語だと知って(オーディオコメンタリー参照)うすら寒く感じてしまった。キャラクター性を考えて台詞を言わせているのではなく、言わせたい台詞をキャラに押し付けているのだ。

・自己犠牲を肯定する後藤さん

ゴーダとの会話で「火野は誰かのために命まで懸けたんだ!お前にそれができるのか?」と言い、自己犠牲を肯定する発言を全力でしてしまっていた。どうやらこの後藤さんは、本編48話を経ていない後藤さんだったようだ。最終話で頼もしくカッターウィングで飛んできて手を伸ばしてくれた後藤さんは、一人でなにもかも背負い込むことを肯定などしていなかった。

・失われた帰るべき場所、知世子さん

夏映画では江戸時代に行っても商魂たくましくクスクシエを営んでいた知世子さんだったが、今回はただの市民代表の戦闘要員としての姿しか描かれない。知世子さんに銃など持たせたくなった。ただ帰るべき場所でいてほしかった。
こういう、戦闘とは別の角度にいるキャラクターこそ作品に広がりを持たせると思うのだが、そしてそれが本編の良さの一つだったはずなのだが…ただただ残念な描写であった。

・トラウマを植え付ける里中さん

少女に映司の死にざまを見せに行く必要はあったのだろうか。しかも汚れた服のままで。盤上の駒の映司が満足するための演出でしかない。完全にトラウマになる。

・雑に復活した先代オーズ

鴻上「ある日、800年前の王が復活した」という一言だけで復活を説明された。本編では暴走の末に石化、封印の石棺になった描写があったはずだが…本作では彼は虚無を漂っていたとのこと。
…いや、童謡の「森のくまさん」じゃないんだから…ある日、虚無の中、何が起こって復活したのか説明がほしかった。
ちなみに、オーズ小説を読むと王の理解が深まる…という声を耳にするが、この王がアンクに歪んだ執着を見せているという点ぐらいしか、多分理解が深まらない。

・雑に処理されたグリード

せっかく生身の演者が揃うことができたにも関わらず、「人数が多すぎるから舞台から一気に降ろさせた」と言わんばかりにダイソンされた。
唯一活躍を見せたウヴァも、情けない姿ばかりをフォーカスされ、ネットで「ウヴァさん」と笑われもてはやされていたウヴァのイメージを公式が「こういうの好きだろ?」とぶら下げてきただけの悪質な活躍シーンだった。

・なんだか勿体ないゴーダ

映司の欲望から誕生したグリード…という設定自体はとても面白く、キャラクターとしてもこれまでのオーズに存在しないタイプだったので、どう描かれるのか序盤は楽しみにしていた。
…が、結局お決まりの小物ムーブ。こういうムーブをさせるなら、先代オーズを敵にするか、ゴーダを敵にするか、どちらかにしたほうがよかったのではないだろうか。膨らませ方次第では魅力的なキャラクターになったと思うのだが…。
例えば、少し安易ではあるが映司に憑いているうちに何か心が動いて味方化するパターンか、映司が実はゴーダを出し抜いていたというパターンにするかで、別の角度でストーリーが展開できたのではないかと個人的には思う。


以上が一通りのキャラクター総括だったが、キャラの台詞についてもおかしな点がある。

劇中でアンクが言った「楽して助かる命はないってアイツがよく言ってたなァ」という言葉が、どうにも発言としておかしい。本編1話で映司が言ったセリフであるが、一度しか言っていない。
2話で同じセリフをアンクが言い「タダで助かる命もないってことなんだよ」と言っているが、もしや制作陣はこの二人の台詞を混同してしまっているのではないだろうか。百歩譲って、画面外で映司がアンクによく言っていたのだろうか?(そんな映司は嫌すぎる)

この台詞一つとっても、本編をあまり確認もせず、イメージだけでキャラを動かし、印象的な台詞をパッチワークしただけの様子が見え隠れしている。


(4)破綻している設定

・憑依し続けるアンク

本編では信吾の意識が戻ると憑依ができない描写があった。冒頭の信吾は、アンクがすんでのところで憑依・防御したため、爆風で吹き飛んだ程度で肉体にダメージは負っていない様子だった。

だが、今回の映画では最初から最後までアンクは信吾に憑依し続けることができた。とっくに意識は戻っていてもおかしくないはずだが…。制作陣は、アンクが擬態で人間態になれるということを忘れてしまったのだろうか。

「いつかの明日」という概念がある以上、メガマとの直接の繋がりがあるはずのこの映画だが、メダルで構成された人間態を披露しているメガマのアンクと違い、この映画のアンクの人間態は頑なに信吾に憑依した状態を貫いている。
メダルが足りない序盤はともかく、先代オーズからメダルを回収したあとはグリード態になることもできていたというのに、その状態で人間態を保てないというのは無理がある。

それにいつまでも信吾の体を借りっぱなしというのは不自然で、比奈のキャラクター描写にも歪みが生じる結果になっている。

・思考を読まないアンク

復活直後、映司(ゴーダ)から服だけ渡されて何も情報を得ることができなかったアンクは、言われるまま比奈たちと合流する。
信吾に憑依しているのだから、本編でやったように彼の思考から事態を把握すればいいのではないだろうか。
今作でだけそれができないというわけでもない。なぜなら、ゴーダが映司の行動、欲望、記憶、すべてを把握しているからだ。
アンクがそうしなかったのは、アンク視点で物語を読み解いていく話にしよう!ということが最初から破綻してしまうという脚本側の都合だったとしか思えない。

・増殖しているタカコア

本編終了後のアンクのコアメダルの枚数は以下の通り(所在などは無視)

・タカ×2(割れた意識コア含む)
・クジャク×2
・コンドル×2

…となっている。
これは、本編42話でアンクロストの「タカ」「クジャク」「コンドル」を映司がプトティラで破壊した結果であった。
こうしてアンクは、自力で完全態になることができなくなり、メダルの総数は6枚となっていた。

しかしこの映画では、先代オーズとゴーダが変身するオーズ(タトバ)が同時に存在している。そしてアンクも意識コアがくっついて存在している。
…つまり、2枚しかないはずのタカコアが3枚あるのだ。

「タカ」「トラ」「バッタ」には10枚目のメダルというものが存在している。先代オーズがタトバに使っているのはその10枚目なんだ!と思うかもしれないが、その10枚目のメダルはそもそも最終回で消滅している。映司が鴻上から譲り受けて変身するも、結局映司が取り込んだセルメダルの力に耐えきれなかった描写があった。

この記事ではタカコアだけにしか注目していないが、メダルの枚数をきちんと計算している方によると、同じ原理で突如増殖しているメダルが他にあるようだ。

・都合よく存在する紫のコアメダル

最終回の真木博士を倒した瞬間、紫のコアメダルはこの時全て粉々になって消滅している。他のメダルはただ時空の彼方へ吸収されただけだったが、紫だけは念入りに消滅させられているのだ。よって、真木博士の体内にあった3枚、映司がタジャスピナーに入れた7枚。そのすべてがこの瞬間に失われた。

そのことを裏付けるように、直後のメガマではプトティラは登場していない。メダルがすべて失われているから当然だ。当時のインタビューで坂本監督も、プトティラは最終回でメダルが消滅したので出せなかった…と言っている。あれだけ爽快なコンボチェンジを行い、全コンボを出したメガマだ。監督としては最凶のプトティラも絵として撮りたかっただろうが、設定的に出せなかったとこの映画で明言されている。

何よりプトティラは一人の力で戦う映司の象徴的なフォームだった。誰かと手を繋ぐことを覚えた映司には、もはや不要な力だったのだろうと思える。

だが、今回の映画は、都合よく真木博士分の3枚が時空の彼方に他のメダルとともに消えたということになり、本編・メガマックスで描かれた事実がなかったことになっている。

・ノーリスクで掴める紫のメダル

先代オーズに吸収されたアンクが、体内で紫のメダルを掴んでゴーダに投げるシーン。あの紫のメダルを、アンクが普通に掴んでいるのだ。そんなに簡単に掴んで投げられるものだったか…?

本編33話冒頭で、アンクは映司の体内から飛び出したメダルを掴もうとしたことがあった。だが、紫の持つ力が強すぎるあまり掴むだけでも精いっぱいで、すぐに跳ね飛ばされてしまっていた。今回の映画ではあの現象は起こらなかった。映司とともに、紫メダルもまた脚本に忠実な駒と化していた。

・何故かできてしまいそうだったコアメダル破壊

どうも今作は、特に紫メダル関連でのガバガバ設定が目立っているように思う。紫メダルが恐れられているのは、「コアメダルを破壊できる」という唯一性があるからだが、そんな紫のコアを宿しているわけでもないゴーダがタトバ状態の素手で力を籠めるだけで、ウヴァの意識コアを破壊できそうな描写が入っていた。

ゴーダを構成するムカデ、ハチ、アリのメダルは、コアメダル破壊ができるような特性を持っているとでも言うのだろうか。元になった昆虫が、恐竜メダルととても同格だとは思えないし、そもそもそんな能力があるなら先代オーズに苦戦をしていないはずだ。

・メガマックスを経由しないメダル設定

メガマの敵、ポセイドンは「真木博士消滅の際に時空の穴に消えたメダル」が40年後の未来に出現して、サメ、クジラ、オオカミウオのメダルを装備していた奏ミハルの体内に取り込まれてしまったことで暴走、誕生した存在だった。ミハルと力を合わせてポセイドンを倒すことで、当時消えたすべてのメダルは映司の元に戻ってきた。その後管理を映司が行っていたのか、鴻上ファウンデーションが行っていたのかはわからないが、とにかく時空の彼方に消えたメダルは戻ってきたのだ。

だが、メガマを経ているはずのこの映画で、「真木博士消滅の際に時空の穴に消えたメダル」は、突然ふんわり復活した先代オーズが虚無空間で会得したことになっていた。メガマを完全に無視している。その時空の彼方メダルはもう終わった話なんですよ…。

ちなみにこの設定は、今回の映画の脚本である毛利氏が手掛けたオーズ小説の内容にも反している。小説の最後の章「映司の章」ではきちんとメガマを踏襲しており、すべてのメダルを持った映司が近代兵器相手に多数のコンボを使用して武器だけを破壊するという無双をしている。時空の彼方に消えっぱなしではないのだ。

オーズ小説は私も好んで幾度も読んでいたが、自身の描いた内容すら破棄しているとは驚きである。

・代償のないグリード復活

パンフレットでは「アンク復活には代償が必要。そんな大きな代償など一つしかない」と映司の死ありきでストーリーを作り上げたことを暴露した制作陣。復活に代償が必要なら、アンク以外のグリードたちは何を代償にしたのだろうか…?

鴻上会長の話によると「虚無空間にいた先代オーズの力によって蘇った」ということだった。え…?それだけ?そういうことなら、その流れでアンクも復活できたのでは…?なぜアンクだけ映司の命が必要だったの?

意識コアが粉々に砕けて消滅している他のグリードのほうが復活難易度が高いならわかるが、意識コアが割れたままでも存在しているアンク復活のほうが高難易度というのが、全く筋が通っていない。

・増殖するオーズドライバー

この映画、なんと結果的にオーズドライバーが3つ存在する!
本編を見ていれば、オーズドライバーとは唯一無二のものであり、その契約者は封印をといた映司一人だけだとわかる。だが、この映画には下記のドライバーが存在する。

(A)先代オーズがつけているドライバー
(B)映司がつけているドライバー
(C)ゴーダがつけているドライバー

(A)に関しては最初からおかしい。なぜなら、これは映司が所有する(B)のドライバーと同一のものだからだ。この映画では王は虚無空間?にいたようだが、(封印されて石棺になったはずでは…)その虚無空間でドライバー(A)が突然出現した状態になっている。

(C)については、ゴーダが映司に憑依している段階では存在していないが、終盤にゴーダが映司の肉体を捨てた時から、(B)と分離する。

実体化したゴーダが映司の肉体を捨ててもドライバーを装備しており、変身が解除されず契約者となっている。現代では、封印をといた映司しか契約者にはならないはずなのにだ。作中でも「オーズの力はここにある」と映司の肉体を盾にし、映司についてさえいえればオーズの力が使えると明言していたにも関わらず、沢山メダルを取り込んだら映司の体じゃなくても色々OKになって、何故かドライバーが増えている。

その後アンクが映司に憑依し、タジャニティとなるわけだが、ここで使用されたのが(B)のドライバーである。もうメチャクチャ…。オーズドライバーのコンボである。

100歩譲って、ゴーダが先代オーズのメダルを吸収した際に(A)が譲渡されたのだと考えても、確実に2本以上ドライバーが存在するのだから、致命的すぎる設定破綻の一つである。

・握るだけで進化するメダル、エタニティ

映司に憑依したアンクが、タカ・クジャク・コンドルを握りしめると、なんとタジャドルコンボ・エタニティのメダルに進化したのだ。
このメダルの成り立ちを、公開前は「研究の成果なのか…?」「どういう原理で作られたメダルなんだ…?」と色々考えていたことが馬鹿みたいなファンタジー進化である。お祭り映画ならまだしも、オーズの世界観は、願ったら叶った!不思議なことが起こって何とかなった!という現象が介入できる余地はない。小林靖子さんはそのあたりも論理的に緻密に作られていた。

むしろ今作はそういったご都合を廃そうとした結果、映司の死を描こうとしたのではなかったか?二人の想いの強さがこのメダルになった!などと言いたいのかもしれないが、それこそお花畑のご都合ではないか。

タジャニティを映画で入れる、というのはバンダイの要求だったそうだが…他にやりようがあっただろう。

・何故か行える命の譲渡

これもエタニティメダルの謎進化と重なるが、瀕死の映司がアンクの割れたメダルをあわせて握りこむと、何か光が注がれてメダルがぴたりとくっついた描写があった。
のちの涙ながらのアンクの訴えからも、このタイミングで映司の命が注がれたのだと解釈ができる。が…なんでそんなことできるんですか??奇跡…?想いの力…?


(5)雑なストーリー構成

・先代オーズVS映司の不自然さ

全体的に雑な構成が目立つが、特に雑に感じたのは映司が先代オーズと戦い、少女を庇ったあたりの描写である。比奈が回想として語っているが、以下の不自然な点が浮き彫りとなっている。

(A)状況を知っているのに、映司がどうなったのかを何故知らないのか?
(B)先代オーズVS映司に誰も駆けつけなかったのか?
(C)少女一人が取り残される状況を支援する人間はいなかったのか?

(A)状況を知っているのに、映司がどうなったのかを何故知らないのか?
少女を庇った映司がとどめの一撃を受けたあと、映司は別に消えてしまったわけではない。その場で倒れて、アンクの割れたメダルを握りしめていた。
しかし抱きしめて庇った少女はこつぜんと消えているし、比奈は肝心の倒れた映司だけを見ていない…どうなったかわからない…と言っている。
誰かの伝聞で聞いたのか、カンドロイドの映像で見たのかにしても、現場に駆け付けることぐらいはするはずである。

キャラクターをストーリー上都合のいいことを知っている状態にし、その時点で明かすには都合の悪いことだけをよくわからない…と言わせている。「実は映司はこのとき死んでいました。アンク復活の真相!」というネタばらしを終盤にするための布石なのだろうが、あまりに不自然で強引すぎる。

(B)先代オーズVS映司に誰も駆けつけなかったのか?
映画の中でも先代オーズの襲撃があり、知世子が「伊達さんと後藤くんが応戦してる!」とアンクとゴーダに駆け付けるように伝えていた。
先代オーズの襲撃が今回のようにあり、映司が応戦していたなら、同じ流れで誰かが駆けつけるはずだ。この頃は先代の他に4体のグリードがいたので、その対応に追われていたとしても、遠隔で比奈が状況を知っているような悠長な状態のメンバーがいたのなら、やはり映司単独で戦っていたこと自体が不自然でしかない。

(C)少女一人が取り残される状況を支援する人間はいなかったのか?
あの少女は改造マリオのブロックの配置のように、映司を殺すために配置されたとしか見えなかったが、一般人を誘導して逃がすことはライダー以外の人間でも可能である。伊達後藤の手がグリード対応で埋まっていたとしても、序盤の戦闘のように幾人かは駆けつけられる人間がいたはずだ。
誰一人駆けつけないのに、状況だけは知っていた…レジスタンスは何をしていたのだろうか。

・繋ぎにもフラグにもならない会話

アンクと比奈がアイスを食べているシーンの会話「兄貴のときもお前は諦めたのか?」や、伊達の「火野の欲望は一筋縄じゃいかない」などの、希望を持たせる会話を差し込んでいる割に、結末は映司の死ありきのため、これらのシーンを入れる意味がなくなってしまっている。

ストーリーの繋ぎやのちのフラグにさえならない「ただの会話」というのは、1時間に満たない映画のストーリー構成をする上では無駄でしかない。2~3時間の映画であそびのようなものを入れるのはいいかもしれないが、ここまで短い内容だと、ほぼすべてのシーンに意味を持たせる必要があるはずだ。


(6)繰り返される本編オマージュ

この映画は、58分という短い尺にも関わらず、やたらと回想やオマージュが多い。アイスの契約の再現(ゴーダだが)、映司を想いアイスを食べながら手を繋ぐアンクと比奈…そして最終回の一連のシーン。作品全体の構成や設定がこの上なく雑なため、とってつけたような印象しか与えていない。

その中で最も問題となったのは最終回の名シーンオマージュである。「お前がやれって言うなら…」という映司の台詞は、やりたいことしかやらないアンクのやりたいことを、映司がくみ取ったからこそ尊い台詞となった。
同じ台詞をただアンクが言うだけでは、なんの意味も見いだせない台詞になってしまう。それどころか、何故そんなに健気に映司の言うことを聞いているんだ!?とキャラクターのブレさえ感じてしまう。

タジャニティの戦闘シーンで垣間見える映司の幻影は、このオマージュの醜悪さの最たるものだ。何が起こっているか当惑していた初回の視聴時でさえ(これがやりたかったんだな…)と明確に制作側の意図を感じて白けてしまった。

メダルの化身であるアンクの姿が見えるのはまだしも、普通の人間である映司の霊体のようなもの(しかもこの時はまだ完全に死んでない)が見えるのはなんともお粗末な表現である。映司とアンク、立場逆転させてエモいでしょ?…という意図しか感じない。

戦闘後の「お前を選んだのは俺にとって得だった、間違いなくな…」という台詞についても同じ意図が全力で出ている。

俳優さんの巧みな演技と熱量によって、なんだかいいシーンに一瞬でも見えてしまうのがまた悲しい。これほどグロテスクなオマージュはないだろうに。この辺りはそういった熱量に押されるかどうかで、本当に賛否が分かれると思う。


(7)投げっぱなしエンドロール

皆さんも待っていたのではないだろうか…?この映画のエンドロールの後、何かがあると。私も待っていた。劇場の照明が点灯するまで…。
映司の蘇生や、それに繋がる何らかの希望…仲間たちのその後、アンクのその後が見られることに期待していたのは私だけじゃなかったはずだ。

見事になんにもなかった!!!明日のパンツが墓標のように映り、終わり方に不釣り合いなAnything Goes!が流れ、OP映像が流れ…何のフォローもなく終わってしまった!

梅田ブルク7で初日を見たときに「嘘でしょ!?」と大きな女性の声が劇場に響き渡った。(関西のノリ)その後劇場全体から同様のざわめきが起こり、オーズのファンの一体感を感じたが、こんなことで感じたくはなかった。たとえ映司が死にっぱなしだったとしても、何か他に終わり方があっただろう。


(8)偏ったBGM選曲

オーズのBGMと言えば、スカをベースとした軽快なBGMを思い出す方は多いだろう。映司役・渡部秀の歌うコンボソングも忘れてはならない。
なんとこの映画、これらのBGMが全く流れなかったのだ。

特に軽快なBGMで代表的なものと言えば「アライビング(※1)」「オープン・ザ・スカイ(※2)」「オイラは、旅人(※3)」「変身・オーズ(※4)」あたりではないだろうか。

(※1)オチに使われる曲。伊達さんが実は生きてた時に流れた曲。
(※2)クスクシエにいる時など、日常シーンの曲。
(※3)映司の日常シーンで流れる曲。
(※4)映司が変身する時や、オーズ登場時の曲。

では今回の映画、どんなBGMが主に流れたのだろうか?
三度の視聴でわかる限り羅列してみた。

「アンクの秘密」
最初にアンクが比奈ちゃんたちの前に事情を聞きに現れた時の曲。アンクシリーズのBGMはバリエーション豊富だが、その中でも一番不穏な曲。(わりとお茶目な曲調が多いアンク)

「決意」
アンクと映司(のふりをしたゴーダ)がアイスの契約をしたときに流れた。本編でも、映司とアンクの熱いシーンで流れた曲(例:浜辺の殴り合い)だったのだが…後から思うとゴーダ相手にこの曲かぁ…となってしまう。

「力の暴走」

映司のふりをしたゴーダが変身・戦闘する際に流れた。この曲の使われ方はまあ、わかる。

「ドクター真木の野望」
ゴーダが映司の体を盾にアンクを脅しているシーン、先代オーズがグリードたちと会話しているシーンで流れた。よほど汎用性が高い曲なのだろうが、真木博士もいないのに乱用しすぎ。

「比奈の想い」
アンクと比奈がアイスを食べているシーン&最終話の3人並びの回想で流れた曲。本編でも、比奈が誰かを想う切ないシーンでよく流れる。

「友情の崩壊」
先代オーズVS映司後に映司が少女を庇った時に流れた。オーズの中でもとりわけ悲愴な曲。

「バースの悲劇」
バースXの戦闘シーンで流れた。時間稼ぎぐらいしか活躍がなかったので、悲劇と言えば悲劇かもしれないが、バースの戦闘といえば「バース バトル」を流すべきだろう。謎の選曲すぎる。

「不安の増殖」
回想で映司が瀕死の際&アンク復活の真相がわかる際に流れた。オーズの中でもとりわけ不穏な曲。

「プトティラ コンボ」
なんと、タジャドルコンボ・エタニティの戦闘シーンで流れた。全然雰囲気に合っていない上に、別コンボの曲である。
選曲する時に曲のタイトル見ましたか…?

このように、オーズサントラの中でも不穏で悲しいBGMを中心にかき集めたラインナップとなっている上に、明らかに選曲がおかしいものがある。
映画の破滅的な雰囲気に合うものだけを選定したがために、その曲が本編でどのような使われ方をされたのかすら把握・尊重しなかったのでは…?と感じる。

オーズの象徴とも言えるコンボソングが一曲も流れないのもまた、おかしな話だ。映司の出番がほぼないので、当然と言えば当然なのだが…。タジャニティの時でさえ、映司とアンクのデュエット曲である「Time judged all」さえ流れない。まあ、流されたらトラウマになっているだろうから、逆にこれはよかったのかもしれないが…。
平ジェネFINAL後に8years laterが作られたように、10th記念に10years later版のタジャドルソングがあったらどうしよう…!とワクワクしていた頃が懐かしい。

偏った映画の作りになっているせいで、BGMまで偏ってしまいオーズらしさが損なわれた選曲になっている。


(9)ファンのことを考えない制作陣

「いつかの明日に手が届く―。」
「欲望を満たせ!」

仮面ライダーオーズ「復活のコアメダル」キャッチコピー

これがこの映画のキャッチコピーだったが、全く手が届いていない上に、満たされてもいない。盤上の駒になっていたこの映画の映司だけは満たされたかもしれないが…。

「いつかの明日」というのは、メガマで登場した言葉と概念だった。それは、何年後かはわからないけど、確実に映司がアンクを復活させるという、希望そのものを現した言葉だ。

平ジェネFINALではこの言葉にさらに付け加えられ「俺とお前のいる明日」と明言された。そう、ただアンクが復活しただけでは駄目なのだ。映司とアンクが並び立つ未来…それが「いつかの明日」という言葉になっていた。

この認識に関しては、映画の賛否でわかれるファンの間でもそうズレはないのではないだろうか。そのため、この「いつかの明日」という言葉を使ったプロモーションに、最初からネガティブな意味を受け取った人はほとんどいないと思う。

だが実際は、このような共通認識とは真逆の内容が映像化されてしまった。制作陣は、この共通認識を知らないはずはない。
二人が再会し、存在する明日…これが多くのファンの望むものだとわかっている。わかっていて、外したのだ。

10周年作品と銘打ち、希望とほぼ同じ言葉を並べ、そのような希望を持っていたファン(※)の望むものを何一つ叶えようとしなかった。こうして映画を作ることができたのは、この作品が現在でも愛されているからだというのに、そのファンに向けて10年以上経って出したのが主人公の雑な死である。純粋に二人の再会を願ったファンに行う仕打ちではない。

田崎監督曰く「昔甘口カレーしか食べられなかった人も、今は辛口カレーも食べられる年齢になったから…」とのことだ。オーズ本編を甘口カレーなどと表現して侮辱するなど、とんでもないことだ。今作はこれだけの豪華食材を揃えながら、食べ物ですらない。

顧客の求めるものをキッチリ作れとまでは言わないが、この10周年というタイミングで希望が一ミリもない内容をお出しするなど、クリエイターとして終わっている。そしてそれをよしとした東映も、ヒーローコンテンツを提供する企業として終焉を迎えるのも遅くないのではないかと感じた。

制作陣に何か大きな志や覚悟があってこのような内容にしたかといえば、まったくそうではなく、偏った本編知識・解釈でエモーショナルを極めようとしただけだと、パンフレットやオーディオコメンタリーからわかるだろう。武部Pは「映司の死を日和らずに描いた」(オーディオコメンタリー参照)と言っていたが、日和るとは…?一体何と戦っていたのだろう?

映司を絶対に殺す…という殺意だけはあったとよくわかるオーディオコメンタリーだったが、田崎監督は「まぁでも、欲望が明日を作るので…」と、今回の内容がファンの欲望次第ではひっくりかえるかも…ということを、なんと示唆していた。ファンの皆さんに欲望を開放していただけたら(要するに色々な売り上げがよかったら)、それ次第では映司が生きている続きを作る可能性あるかもね…と匂わせていた。
…もう呆れ果てて何も言えない。そんな程度の感覚の持ち主たちが、揃いも揃ってしまってこの映画は作られた。それだけはわかった。

公開直後は、オーズ本編本来の人気によって映画も支えられているが、このような映画を何度もリピートしたいと思う人はごく僅かではないだろうか。商業的な損失も今後出てくるのではないかと思っている。CSMオーズドライバーや今作の円盤などは、キャンセルしたという声をよく耳にする。
せめてきちんと本編のメッセージを把握し、安直でも王道を貫いたならば、オーズという成功が約束されたコンテンツでここまで大外れはしなかっただろう。売上も確実に増えていただろう。東映という会社は、本当に馬鹿なことをしてしまったなぁと思わずにはいられない。

(※)文脈からだけではわかりにくいかもしれないが、ここでの「ファン」とは、私を含めて、『いつかの明日に希望のある未来を感じていた方々』という特定の範囲のことを指している。そのため、今回の映画の内容を望んでいた方や十分納得した方を含めているわけではない。あくまで『そういう希望を持っていたファン』の気持ちを大事にしなかったのではないか…という話をしているため、そういう希望を別に持ってはいなかった…というファンの方は、どうぞご自分の意見を大事にしてほしい。

補足(舞台挨拶について)

2月28日の舞台挨拶について、少し触れておきたい。
私は1部と2部両方を見たのだが、どちらもキャストは口数が少なく、映画の核心について聞かれると「賛否両論」や「脚本を飲み込むのに時間がかかった」など、言葉少なくお通夜のような雰囲気だった。
だからといってキャストも納得がいっていない!ということを断言したいわけではない。実際、色んな気持ちの整理をつけて飲み込んだうえで演じられたのだろう。

だが、マスコミの入っていない2部で泣き出した高田さん、「脚本を受け入れられなくて…」とはっきり言い涙した三浦さん、何かをこらえるように涙を流して「映司は旅人なので旅立った、僕は嬉しいです」と言った渡部さんがいたことだけは、書いておきたい。
渡部さんはこうも言っていた。「またなんらかのかたちでオーズをお送りできる機会があれば…」と。

※平ジェネFINAL以降、ファンの間で渡部さんがプロデューサーのような扱いをされているが、脚本を渡されて初めて内容を知ったと各記事で仰っている。(平ジェネFINALも、好きな回想シーンのチョイスをしてほしいと依頼があってのことだった)

※オーコメに関して、俳優さんの発言はこのnoteにあえて入れていない。
このような批判100%記事に載せると「キャストもこう言ってる!」という後ろ盾のようなかたちにしてしまうからである。
ただ、舞台挨拶に関しては円盤に入ることはなさそう&現地に行かないとわからない情報もありそう…とういう点から、少し触れている。

総括

以上、とても長くなってしまったが、これが11年以上オーズを愛してやまない人間の仮面ライダーオーズ劇場版「復活のコアメダル」の感想である。

完成披露舞台挨拶以降、私自身も他の方の感想を拝読している。「映司が死んだから批判しているのだ」という肯定意見に対して「映司が死んだことが問題なのではない」という反論も多く見られる。そういう意見もあるだろう。

だが私は、死んだこと自体が問題だし、その過程が雑すぎるのも問題だし、何もかもがお粗末な映画(キャストの演技以外)…だとはっきり思う。
誰が好き好んで、11年以上好きな作品の念願の最新作を批判しまくっていると思うのか。全48を繰り返し見続け、VHSであればとっくに擦り切れているほど私は仮面ライダーオーズを愛してやまない。

そのため、こんな批判ばかりの記事は正直まとめたくはなかった。
だが、そうせざるを得ないくらいこの「復活のコアメダル」という映画は、大好きな思い出すらもぶち壊しにかかってきたのだ。
私が繰り返し見てきた仮面ライダーオーズはこうだった!と声を大にして主張したい、その一心で今、鬼のようにタイピングをしている。

ネガティブな内容ばかりまとめてしまったが、キャストの熱意と迫真の演技だけは称賛したい。キャストの方の内心はわからないが、どんな脚本でもプロ意識を持ってキャラクターを大事に演じられたというのがよくわかった。
特に、企画の段階で主要キャスト一人一人に連絡を取ってくださり、これまでずっとファンのことを大切にしてきてくれた渡部秀さんには多大な感謝を述べたい。

もし叶うのなら、また別のかたちで「いつかの明日」が見てみたい。
だが、現在の東映にそのような希望の物語を紡ぐことができるのかというと、そうは思えなくなってしまったのもまた事実だ。

一度作り手から離れた作品は、作り手だけのものではない。公式がこう言っているから正しいのだ!と私は思わない。観客としてどう受け取るか、どう評価するかは個人の自由だ。
私はこの映画を認めない。長く愛してきた仮面ライダーオーズのすべてを否定したくないから、この映画だけは認めるわけにはいかない。

私の中の火野映司はまだ、自分とアンクがいる「いつかの明日」に向かって、割れたメダルを握りしめて旅を続けている。

Life goes on!
Anything goes!

旅はまだ途中―。


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