私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ

20220811@東京都現代美術館

4人の作家によるグループ展。

高川和也による《そのリズムに乗せて》。
言葉として表出させることで、自分でも思いもしない方向に展開され・読み取られ・自分のものでなくなっていくその言葉。
映像作品の中の登場人物の「他人の語りを聞くことは他人事として聞き流してしまうけれど、ラップとしてリズムに乗せられることで自分事として捉えることができる」という発言にはなるほど、と思わされた。
ラップとして発する、所謂ラッパー側としては、「自分としてただ語るだけでは、自分という枠からは外れない。ラップとして表現することで、不意に思わぬ表現や、無意識下の感情や理性を発見できる」(意訳)という実体験を耳にするに、ラップに対する意識が少し変化したように思う。

実際に、こうして文字を連ねる作業というのは理性を持った意識そのものなので、思うままに言葉をただ発することのできる表現の形というのは、手段
として持っていることはとても羨ましくもある。

工藤春香による《あなたの見ている風景を私は見ることはできない。私の見ている風景をあなたは見ることはできない。》は、ラップでの表現に見られる「無意識下」から連想されるような作品。無意識下での優勢思想に対する疑いや、それを起因とする"自分"とは何だろう、という哲学の表現。
芸術性を通じて訴えかける作品というよりは、事実を列挙して鑑賞者に突き付けるようなアプローチ。
人口湖である相模湖と、かつてのその土地の姿を、鏡を用いて未来(現在)へと常に語りかけるような配置となっている導入のエリアは示唆的だった。津久井やまゆり園での事件を巡って、作者自身の想いと諸問題への提起が感じられた。

大久保ありによる《No Title Yet》。今回の展示では個人的に一番気に入ったかもしれない。
過去の作品を断片的に用いて新たな作品とすることができるのではないか、という試み。「虚構と現実の在り様」に関心を抱く作者。挿絵という性質を持つ作品に対し、その背景にあるストーリーを考えるうちに、絵そのものよりもストーリーに重きを置くほどだという。

長編小説を書いてみたいという自身の思いに反して、書けないという現実。

《私はこの世界を司る あなたは宇宙に存在する要素》に感じられた、一見無関係なようで実はマクロな視点では同じとも言える、または価値があるように思えるが実は無価値と紙一重、というようなメッセージに作者の哲学を垣間見たように思う。

黒い円は無で 白い立方体は空で 灰色の地平線は死なの
Black Circle is Nothingness, White Cube is Emptiness, Gray Horizon Means Death
この言葉遊びに対しては(その遊びを十分に理解しきれてはいないが)、抽象的でありながらも、この展示の核となるヒントが隠れているように思えた。
白い立方体、つまり空を表現していると思われるスペースを撮影した映像のモニターが2か所に配置され、それぞれ過去と現在の映像が点在する形になっていたのは意味が分かりそうで分からない。。

無秩序に思える断片的な作品たちだったが、十分に作者の哲学を垣間見られたように思う。と同時に、芸術や表現するという行為に対する葛藤や苦悩も、勝手ながら私自身のそれと重ね合わせられるように、重々と感じられた。
価値・記憶・生死・過去と現在、そして虚構と現実の境界線が曖昧になって、理解出来たようで出来ていないかもしれない、自分事のようで他人事の不思議な空間となっていた。

最後に良知暁の《シボレート/Schibboleth》。展示される空間としてはとてもシンプルなものであったが、メッセージ性がとても強かった。
ここまでの3名の作品は、言葉に対して人間の感情や哲学が密接に関わっていることを感じさせられていた。それに反して、言葉がただの道具としての機能のみを果たす、もしくはなんの意味も持たないことを突き付けていた。
黒人や朝鮮人の排除を目的とし識別するための道具として用いられる言葉。

時計やネオン管が本来のその機能を失った状態で目の前に現れたとき、「考える」ことを促す。

自分の中に留まっている色々を表出するため言葉を用いる。それはあまりにも多能な道具だが時に無能でもあり、凶器にもなり得る。それ故の分かり合えなさがあるために様々な方法で表現を試み、迷走し、巡り巡って再び自分の元へ還る。こうして常に考えることが、営みの基本なんだろう。

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