クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]

20220111@東京都現代美術館

まず初めに目にするのは【リサイクル工場のためのプロジェクト】。廃棄扱いとなったPCのモニタ自身がスクラップされる様子を映し出し、10数台が円形に配置されている。それぞれ異なる周期で映像が再生され、それぞれの音声がランダムに絡み合って偶然性を伴ったサウンドを鳴らしている。モニタ最後の役目が自身の死を映し出すことで、生と死を感じさせるような儚さや、皮肉めいた表現となっていた。円形の内側に無造作に配線やスピーカーがむき出しになっていて、作品としてそれを隠したり形式的に配置することをしないことで、無機質でインダストリアルな剥き出し感(モニタとして生かされている生の部分?)を与えていて、「何もしない」ことで良い効果がある気がした。

フロアの周囲の壁には印刷された【ミクスト・レビューズ】。テキストは印刷…?シール的なもので張られているのだろうか…?ああいうのってフロア丸ごと壁から床から張ってるのかな?仕込み大変そう、って思った。新聞や音楽誌のレビューの記述のテキストをコラージュして、ズラッと直線的に壁面を一周している。展示される原語に翻訳され、その国の言語から次に展示される国の言語に翻訳して…を繰り返しているそう。音楽についての記述が紙面上で書き手により翻訳され、それがこの作品に落とし込まれて翻訳され、さらに様々な言語に翻訳され…という、この展示会の主題である「翻訳」が、シンプルな形で作品の要素として備わっている。翻訳という行為を重ねるほど元の経験から遠ざかっていくという、音楽を言葉に翻訳することはナンセンスとも言い放っているようなメッセージ。

複数の作品の素材として使われるレコード。「生の音楽」が「死んだ記録」になる(死んだ記録になると同時に過去が永遠の命を持つよう生と死の双方向のメタモルフォーズをもたらすメディアとも)という解説がどこかにあったけど、録音という革新的な技術はある種、芸術の死という面を併せ持っているという解釈は知っていたようで改めて端的に言葉にされると新鮮だった。【ファスト・ミュージック】はレコードを食べる様子の映像作品。レコードというひとつの完成された作品を、本来は機材でもって再生することで機能が果たされるもの。ターンテーブル奏者としても活躍した作者ならではの解釈で、レコードを単なる素材としてしまい、それを食べるという、これも皮肉めいた面を持っているように思った。芸術作品としての音楽を、レコード=死 の状態としてしまったらそれはもう消費されるだけのもので、手軽が取り柄のファストフードならぬ、ファスト・ミュージックと題して15秒(だっけか?)の映像作品として新たな芸術作品に昇華させている。

それと対(なのかな?)に展示されていた、【レコード・プレイヤーズ】。こっちはレコードを叩いたり擦ったりして、人の手によって色々な音響を発生させている様子の映像作品。こっちはなんかすごく苦手なタイプだった。「前衛音楽ってこういうのもアリなんですよ~^^」みたいな、安直ともいえる表現だからかな?学生当時に感じた、一部の層の苦手な作風に重なるものがあるように思えて、ある種のトラウマのようになっている部分な気がした。映像作品としての展示なんだけど、音楽の表現の範疇にもなり得るような、なんというか中途半端に音楽を感じてしまうからか、拒絶感が強い。

その他でレコードを使った作品で感銘を受けた表現だったのは【フォトグラム】。カメラを使わずに印画紙の上に光を遮断する様々な物体を置いて直接露光した写真らしい。どういう工程なのかいまいちよくわからん。ピンホールカメラみたいな原理?写真は手ではなく光という現象によって作り出され、作家の恣意的な選択を超える可能性を見出した。とのこと。
物理的に音楽が記録されたレコードを、写真という形態に再生させる。作家がコントロールしきれない要素も二次元的に、視覚的に写真となって現れるという表現が新鮮であった。

レコード盤だけではなく、レコードジャケットをも素材として使用する。ジャクソンポロックの作品を「フリー・ジャズ」というアルバムのジャケットに使用しているのを見て、抽象絵画と音楽の関係について考察を始めたそう。抽象絵画は、音の抽象的な性質へのあこがれや、視覚と聴覚の類推が大きく関わっているとのこと。作曲をしていると、絵画という視覚的な具体的な性質へのあこがれも覚えるけれど、無いものねだり的に抽象絵画と音楽(とりわけ現代音楽)は相互にあこがれをもって高めあっていく芸術、というより芸術とかいう大きな主語よりは、自分自身の創作に落とし込める概念がここにありそうだと思う。レコードジャケットに絵画が用いられることで、商業音楽として・商品としてのレコードを「ハイアート」の付加価値を与える戦略であったのではないかとマークレーの考察。

ジャケットを用いた作品の中では、【ボディ・ミックス】に主張を強く感じた。クラシック音楽では指揮者は男性中心となっていて、その指揮者たちの姿を印刷したジャケットに「独裁者たち」というタイトルをつけて発表をしていたそう。クラシック音楽界での男性優位についてこの展示で目にするとは、という意表を突かれたことで印象に残っている。そのジャケットの指揮者の上半身と、また別のジャケットの無名の女性の下半身をコラージュして、その独裁に対して強く声を上げているような、悪戯的で攻撃性を持ったような表現だった。
それに対して【架空のレコード】はただ単にジャケットのコラージュを楽しめる作品に感じた。

展示の後半のキーワードとしては声・叫び・オノマトペとかその辺。【叫び】【ノー!】【フェイス】シリーズは、主にマンガにおけるオノマトペや叫びの描写を切り出して、そこに音声を感じさせる作品。音楽的要素から少し離れたことで、印象としても薄くなってしまったものが多かったように思う。展示のメインビジュアルになっている作品は【フェイス】のシリーズに含まれているもののひとつで、まぁ目を引くパンチのあるイラストではあるしコロナ禍で生まれた作品だからメインに据えられたんだとは思うけど、作品としてはわりと中身は薄いように思えた。絵画的要素が強い、シンプルに美術としての作品としては、ひとつの形としてもちろん成立しているけど。

展示の最後、日本人の聾者であるパフォーマーが手話をしている映像。冒頭の【ミクスト・レビューズ】を手話に翻訳しているそう。「音楽についての原文と、手話の翻訳との間で失われるものが多くあるが、それが音楽であるという感覚を得ることができる」とのことだけど、あんまりそれはピンと来なかったかも。手話が理解できれば違うのかな。音楽を見る、という翻訳の仕方としては感心だった。「音楽についての原文云々、、」の説明を読まなければ、積極的に音楽を感じようとする意識で観られたのかなぁとも思う。

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