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記録の性質。記録のフェイク。記録の方法。

そもそも記録とは何であるか。記録といって思い浮かぶ代表的なもの、それはカメラ、文書、慰霊碑。それらに共通することは、かつてあったであろう過去を間違いなく証明できるものであり、そのことを後世に残すための媒体にすぎない。逆にいうとそんな媒体であればなんだって記録となりうる。僕が一日平均三回排出するうんちだって、昨日あるいはそれ以前になにかを口に通し、それが胃、腸など臓器をめぐって消化されたことを示す物体である。それでも、記録中毒者である僕がうんちを保存せずためらうことなく流せてしまうのは、それは記録するに値しないものだと思っているからだ。

記録は決して全面的に信用できるものではない。なぜならそれは、誰かが「残す価値のあるもの」を取捨選択して残ったものにすぎないのであって、すなわちその記録そのものは事実すべてを含蓄しているものではないから。たとえば写真。フレーム外のものは画としては写らずにカメラマンが取捨選択をしてフレーミングをしている。たとえそこに残虐な風景が切り取られていたとしても、その外には台本が置いてあるかもしれないのである。

記録はその目的によって姿を変えていく。もし大衆性を望むならば複雑な過程は割愛され、わかりやすいポップな部分だけが残る。たとえばドッキリ番組。本当はいくつもの背景があるであろうにもかかわらず、ピークとなるリアクションに向けて作為的な編集が施される。プロパガンダはこの延長線上にある。ある一定の思想を植え付けたいならばそれを阻害する情報を選択しない、または感情を煽るように否定してしまえばいい。こういった記録の性質に対するリテラシーの低い人々は、今日もマスコミの報道やSNSを過信し、その背景を調べることもせず容易に物事の善悪を決めつける。

法律や規約をまとめるならばそこに感情はいらない。理詰めされても崩れることのないように確実性を第一に残す。当然、すべてを抜け目なく定義するならば記録は膨れあがり、わかりづらいものとなり大衆性は削がれる。それを逆手に取ったのが、小さな文字で大切なことを記すような詐欺のようなものだ。これもまた、情報を多面的に見なければ簡単に騙されてしまう。

どれだけ膨大な情報を記録したところで、記録そのものが目的ではなく後に振り返ることを前提とするものであった場合、それらは整理しなければゴミ同然となりうる。かつて記録していたのにも関わらず必要なときに出てこない、またはその存在そのものさえ気づかれずにいたならば記録の意味がない。そこで重要となるのが記録の整理。なにがどこにあるのかを明確にし、それが個人を超えた価値のあるものであった場合、記録の所在もまた記録する必要がある。

整理における重要なテクニックとして画一化というものがある。たとえば、B5で配られた紙でもA4の紙に貼ってにまとめる。B3の紙もまたA4に縮小または分割してまとめる。しかし一度画一化したからといって安心はできない。約25年前に開発そして普及したDVカメラは、今は生産終了かつ修理も困難であり、今のうちにデジタルデータ化しなければ一生見られなくなってしまう可能性がある。デジタルは膨大な記録の整理がしやすいが規格が時代とともに変容していくのでそれに合わせて更新していかなければならない。もしそれらすべてを一生更新していくのだという覚悟を持ったとしても、それが約束されるのは自分が生きているうちであり、その後については保証されない。

この記事では主に「記録そのものが目的ではなく後に振り返ることを前提とする記録」について書いてみました。しかし、ノートに書くことで覚えたいことを覚える手法があるように、記録そのものが目的となる場合もまた存在します。これについてはより内容が複雑になるので、またの機会に書いてみようと思います。

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