死に至る病と私

今回はひどく愚痴っぽい、弱音の話になる。
あんまり愉快な内容ではないし、熱のある頭でぽつぽつと書いているだけだから整合性も取れていない。
楽しい話じゃないから、ちょっと鬱っぽく感情的な内容で、つぶやきみたいな文体でも耐えられる人だけが読んでくれたらいいなと思う。








知り合いのほとんどは知っているけど、私は身体があまり強くない。
病弱、とはまた違う気がする。
虚弱、のほうがしっくりくる。
別に病気にかかりやすい訳ではなくて、記憶にある大きな病気も肺炎をやりかけたのと水疱瘡くらいで、あとはなんか、よくわかんない。色々あったらしいが、覚えていないからまあ良いだろう。
私の場合、何かに感染して体調を崩すというより、貧血だったり、アレルギーだったり圧倒的に体質の問題である。
かかりつけの医者曰く、「インフルエンザとかなら逆に楽なんよ。薬があるから。でも君の場合は飯食って寝てゆっくりするしかない」らしい。
これでも十分強くなった方なのだ。
小学生の頃はもっと弱かったし、手術もした。
そのおかげで、術前よりはそこそこ強くなったとは思う。けれどそれでも完全には治らず、今でもずるずると虚弱をやっている。

「体調不良って、気合いでどうにかなるもんよ?」

去年、私に笑顔でこう言い放った女性がいた。自分の母親ほども年の離れた人だった。
私はそういう年代の女性があまり得意ではない。自分の母親を思い出してしまって、どうしても、得意じゃない。トラウマの一種なのかもしれないと思う。私は母親と確執があり、それは多分この先の人生を全部使ったとしても取り除けないものだ。だからその年代のご婦人方とは少し接するのが怖い。
その人は演出家だった。そして、私は役者だった。
体調を崩し、稽古を休みがちな私に、彼女は笑顔でそう語ったのだ。
多分、私はそのことがめちゃくちゃにショックだったんだと思う。ショックっていうか、これもトラウマなんだけど。
小さい頃から虚弱をやっていた私は、自分が虚弱なことに慣れてしまって、大抵の体調不良は無視できるようになってしまっていた。無視できる、だけで身体は辛いし、しんどいのだけど、慣れとは恐ろしいもので、35度代が平熱の私が37度後半までは普通に活動できてしまうようになったのだ。無論めっちゃ無理をしている。すごく頑張っている。
この体調が悪くてもどうにか活動すること、を私は「ちゃんとする」と言う。身体が思うように動かないと、ちゃんとしなきゃ、と思う。過剰なまでにそう思うのは、多分母親に「あんたは手術をしたんだからもう健康なはず」「身体は強くなったんだから、体調不良は自己管理ができてないせい」と言われ続けたからだと思う。今でも、言われる。
お母さん、手術したからって、ましにはなるけど体質は変わらないから虚弱なのは治らないんだよ、と言いたくなるが、言ったら絶対屁理屈だ自分の怠りを正当化するなと言われることが目に見えているから、いまだに言えずにいる。
熱を出したり、気圧性の頭痛がしたり、立ちくらみがしたらまず、母に気取られないよう歯を食いしばっている自分がいる。
怒られる。
叱られる。
ちゃんとしなきゃ。
弱くては、舐められる。
嘲笑われる。
ちゃんとしなきゃ。
と。

母親だけではなく、誰にも気付かれないようにしなちゃいけない。
昔学校の保健室で寝ていたら、家に連絡されてサボりだろと母からめちゃくちゃ怒られたことがある。
そういう、小さな事かもしれないけど、私にはあまりにも大きすぎた母の押し付けの積み重ねが、私はしんどかったし、そして今自己の解離を発生させていると感じている。

私は、ちゃんとし続けなければいけない。そうじゃなきゃ愛してもらえない。

ちゃんとするのはすごくしんどい作業だ。
いつも通り生活するのが一番辛い。
身体は重いし、言うことを聞かない。最近は不眠症の気も出てきたので、以前よりも体調を崩す頻度が増えてしまった。ぼんやりする頭で身体に指令を出して無理矢理いつも通り動かす。
私は役者だから、そういうのは得意だ。
けど、やっぱり、どこにも気を許す事が出来なくて、苦しくなってしまう。
みんな、苦しくなったらどこで休んでるんだろう。私は、一番心休まるはずの自宅の中で、一番気を張る癖がついてしまって、逃げる場所が見出せないというのに。

「身体は僕らが思うよりずっと物理現象だから、体質についてはある程度諦めていくしかない。
それでもそう思ってしまうところを見ると「絶望とは自己の分裂関係である」という言葉を思い出さずにはいられないね。」

今回の稽古を休む時、ポンコツですみませんと謝った私に、今回の演出さんが返してきた言葉である。
あーどっかで見たぞその言葉、なんの引用だと熱のある頭でぼんやり考えて、キルケゴールの死に至る病を思い出した。あれか?私も読んだことないし、ちょびっとどこかで聞きかじったぐらいなはずだけど、調べてみたらやっぱりそうだった。
まあつまり、自分でしか解決できない問題があるが、こんなはずじゃなかった、自分はこうあらねばならない、みたいな風に自分を責めてしまう状況が「絶望とは自己の分裂関係である」の意味?なはず?あってるかな、まあ熱のある頭だから許してほしい。
うん、多分そうだろうと思う。
私はいつまでも自分の中にある母親に責められ続けているし、自分自身にも責められ続けている。
そんなんじゃ誰にも愛してもらえない、と思っている。だからいつまでも寂しい。
ごめんなさい、ちゃんとできなくて。
この絶望は、私を死に至らしめるほど強いものなのだろうか。
頭がいたい。
寂しくて、苦しくて、夜はまだ不眠症で熱のある私が持て余すには十分に深く長い。

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