丸呑みと咀嚼とじゃんけんの話


前回の投稿から9カ月も経過してしまった。

何かしら読者にとって有益なことを書か“ねばならない”と思うあまり、文章を書くことへのハードルが高くなりすぎた。
もう少し自由な発想で書いてみたいと思う。

今日読んだばかりの本の話。

『わたしを空腹にしないほうがいい 改訂版』くどうれいん
https://booknerd.stores.jp/items/5c3317b62a286274434c42e2

毎日の料理や食事を切り口としたエッセイで、くどうさんが大学4年生(と社会人1年目)の頃の日常が描かれている。Webマガジンに連載されていた公開日記のようなもので、加筆修正のうえ再構成され、冊子となった。

読書していると、作者と気が合うとか合わないとか感じることがあるが、くどうさんの場合は非常に自分と近い性質を感じた。正確には、学生時代の自分とそっくりだと感じた。
そのまま日々が続いていくと思っていたのに、社会人になったら歯車が狂ってしまうところも同じだった。

改訂版を記念して収録された「おかわり対談」の中で、くどうさんは言う。
「たぶんだけどわたしたちの感覚は「わたしたちは一生懸命咀嚼してるのに丸呑みできる人がたくさんいる」っていう感覚なんですよね」
言い得て妙である。


一方最近、大豆田とわ子と三人の元夫というドラマを見ている。
(最新話を見ておらず、かつ事前情報なしで楽しみたい方はご注意願いたい)

第4話で、とわ子の親友かごめは「じゃんけんで一番弱いのは、ルールが分からない人。私にはルールがわからない。会社員もできない。バイトもクビになる。みんなが当たり前にできることができない」と語った。
さらに、社長を勤めるとわ子は、辛くとも「じゃんけんができてる」からかごめとは違うと言う。
かごめにはかごめの、とわ子にはとわ子の苦しみがある。


社会のルールを丸呑みして勝敗の土俵に立ち、勝ちに行く人と、社会のルールを呑み込めず咀嚼しているがどうにか土俵に立ってはいる人、そしてルール自体が分からず土俵に立てない人。
私もとわ子と同じ、どうにか土俵に立っている人にあたるが、こと人間関係のルールというものはいまいち分からず、理解できないまま負けていたり、自覚もなくルール違反をしでかしてにらまれたり、している。
分からないけど土俵に上がってしまったので、見よう見まねで生きている。

”仕事ごっこ”や”人間ごっこ”をしているような気になる。


そんなことを考えているうちに、分かったことがある。

昨年の今頃は、自分の人生の連続感を失くしていて、学生時代以前の記憶が自分の物とはどうにも思えなかった。映画で見た話か、人から聞いた話のように他人事の感覚だった。

これはどうやら、主観の喪失だったようだ。

訳の分からないルールで動いている組織に対して自分をはめ込むために、私は客観を重視した。つまりは、人からどう思われるか、を物事の判断基準にしてしまった。
と同時に、環境に対する不満や不安も、感じないよう努めた。ネガティブな感情は不要、行動あるのみ、というわけだ。

客先への出向期間中は、自社の飲み会で先輩に「色々大変だけど、最近は何も感じなくなる修行と思っています」とへらへら喋ったりした。

しかしながらこれは失敗だった。私は、何も感じないのではなく、感じたことをなかったことにしただけだった。
環境に適応するのに不都合だから、自分の感情を「いらないもの」にしてしまった。

客観の重視と何も感じない修行の成果として、愚痴も言わず一所懸命に仕事に取り組めた時期があったが、長期的にみるとこれは非常に無理のあることだった。
臭いものにふた方式で閉じ込めた感情は、そのまま取り出せなくなった。
私は、私の感情と意志とはぐれた。小さな選択でさえ、決断ができなくなっていた。


出向から帰任して半年以上経ち、やっと自分の気持ちを見つけ出せるまでに回復している。
私はこうしたかったんだ。こんなものが好きだったんだ。昔からこういう思いがあって、だからこんなことをやってきたんだね。
自分を再発見するたびに、涙が出てきて、私は私に無視されたことで傷ついていたんだと思い知る。
10代までの自分が今につながっている感覚も戻ってきた。

その反対に、1年前の春から夏のことを、今となっては十分に思い出せない。
断片的にくっきりとした記憶が焼き付いているが、8割がたの時間はまっしろに塗りつぶされている。
そのまっしろの下にあったものを掘り起こそうとしてみたけれど、小さな穴から黒いインクが漏れ出すみたいに漠然とした不安と恐怖が押し寄せてきたから、あわてて引き返した。


ゆるやかに回復してきたものの、今も、丸呑みできる人とは話が通じないままで、ルールはいまいち分からないままで、見よう見まねで会社員ごっこを続けている。
上司が私の体調を気遣ってくれるが、私が丸呑み人間の気持ちを理解できないのと同じく、丸呑み人間にもまた咀嚼人間の気持ちが分からない。
いつまた、まっしろの下の不安と恐怖が破裂するかも分からない。

きっとまだ、大丈夫にはなっていないのだ。無理を押した代償は想像していたよりも大きい。
丸呑みできなくても、それが私なんだと認めて、そのままで生きていくしかない。

咀嚼しながら、生きていく。
見よう見まねのごっこではなく、本当の自分として生きていく道が開けるように、何かを変えるべき時がきたのかもしれない、と考えている。


“噛み過ぎたガムに 唱え過ぎた祈りに 嫌気がさして何を吐き捨てる”
The pillows / No Surrender
https://youtu.be/GlCEDepH7AM

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