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本当の中庸を目指す人生


私は中庸な人が好きだ。
ここでいう中庸とは、単純に良い人でも悪い人でもない人中間の人、悪口など言わない良い人という意味ではない。

自分の中の陰陽を知っている人。もしくは知ろうと模索してる人だ。
こういう人は、自分という存在が、両極の面でできていることを知っている。

なので、世の中の「悪」と判断される事柄に出くわした時も、一部分を切り取って、断罪するようなことは少ない気がする。
きっとそれは自分の中にも「陰」だったり「悪」の部分があるとわかっているから。

また、皮肉なことに「陽」の部分があるからこそ「陰」が浮き彫りになり、良し悪しのジャッジが生まれる。ということも、なんとなく肌で理解している。もちろん逆も然り。

それに対し、世間のあらゆる事柄に「これは悪だ」と自分の価値観を、必死で主張する人を見ると、その主張の裏に、何か恐ろしいものを必死で隠そうとしている心理が見えることがある。


自分の中の深い所にある「陰」に、自分の「陽」のスポットライトを当てることを避け、手っ取り早くスポットライトを当てやすい、自分以外の他人、社会に矛先を向ける。

自分の「陰」に、自身が直視しようとするとき、相当な労力、気力が必要になるので、他人のことなんて構っている暇はなくなる。
そして、向き合ってきたからこそ、気付けるものがある。

それらの経験、気づきが、また、陰陽両極のふり幅を大きくし「自分はこうありたい」という中庸に向かうための判断材料になっている。

このふり幅の増減、中庸に向けたバランスを模索し続けることが、人生なのかなと思っている。

だから私は「悪い」と思わしき出来事に遭遇した時も、自分の「陰」に触れる、一つの機会として、自分に活かしていきたい。
断罪することは簡単だが、それも人生の一部、切り捨ててしまうのは、なんかもったいない気がするから。

日々アップデートを繰り返し「もう今回は十分かな」ってところで死ねたら「今回の人生まっとうしたな~」って気分になるのかななんて思ったりしている。

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