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コンクリートタウンに咲いた大きな向日葵

春が過ぎ、本格的な梅雨が来る前に、夫と娘が玄関前のスペースにプランターを置き、向日葵を育て始めた。

私が外出してる間に、2人でホームセンターに行き、種や土を買ってきたらしい。

娘「大きい向日葵咲くといいね」
夫「毎日ちゃんと水をあげればきっと咲くよ」

そんな2人の様子を見る、私の心の声は冷たく、皮肉に溢れていた。
向日葵の開花を純粋に楽しむ気持ちなどほとんど持たず、飲食店から出る煙が立ち込むこの都心のど真ん中で、向日葵を育てても、果たして咲くのか?
もし咲いたとしても、こんな狭いプランターの中ならば、どうせ小ぶりな向日葵なんだろうと思っていた。

そんな私の気持ちとは裏腹に、娘は夫に言われた通り忠実に、来る日もくる日も向日葵に水をあげ続けた。

向日葵も娘の期待に応えるように、いつのまにか、娘の背を追い越すほどに成長していた。ただ、肝心な花の部分はまだ咲かない。
私は「ほらみろ、やっぱりここでは咲けない」と思っていた。

夏の日の束の間、コンクリートタウン東京から実家に帰省した。そこで、私は娘と自転車に乗りながら、ブラブラ近所を散歩していた。

すると娘が突然「ママ!向日葵!あんな大きい向日葵があそこにある!」とまるでUFOでも見つけたのか?と思わんばかりの、大きな声で言った。(ちょっと向日葵もUFOぽく見えなくはないけど)

娘が指差す向日葵の一つは、畑の一角に堂々と身を構え、まるで太陽をスポットライトにするかの如く、天に向かって、思うがままに自身の存在をアピールしているようだった。

ボーッと向日葵を見ていると、娘が「ママ、おうちの向日葵もあんな大きく咲くといいね」と、それこそ向日葵のような屈託のない笑顔で言った。私は「そうだね」と返答しつつ、また心の中では「ここは大きな畑だからあんな向日葵が咲くんだよ、プランターじゃあんな大きい向日葵は咲かない」と娘にかけた言葉と相反することを思っていた。

そんなことを思っていると、ふと別の大きな向日葵に目が行った。その向日葵は太陽の方向でなく、くたっと花の部分が地面に向かって垂れ下がっていた。その姿は、まるで、私が心の中で抱いている思いを、全て見透かしているような、軽蔑しているような感じがして不気味だった。

数日後、実家からコンクリートタウンに戻ると、家のプランター向日葵が玄関前で迎えてくれた。
数日水をあげていなかったこともあり、余計にシナッと小さくなった目の前の向日葵を見て、私は、勝手に実家で見たあの大きな畑の向日葵と比較し、プランターの向日葵を「あの畑の向日葵のように大きく咲くことができない可哀想な向日葵」という目で姿を眺めていた。

そんな思いもつゆ知らず、娘は、畑で見た向日葵を目指して、毎日水をあげ続けていた。

それからしばらくたった夏の日の暑い日、私は娘を自転車に乗せて、近所を走っていた。上からの太陽の日差しに加え、コンクリートを通してくる下からの照り返し、それだけに留まらず、コンクリートタウン特有の、横からの室外機の温風という、あらゆる角度から、多様な暑さの種類を四方八方から繰り出され、どうやっても逃げることができない暑さと格闘しながら、自転車を走らせていると、突如、ビルとビルの隙間に、大きな向日葵が現れた。

目を疑った。あの畑でみた向日葵とまるで同じ向日葵だった。
同じ背丈で、同じくらいの花の大きさ。

なんでこんな所に向日葵があるの?
なんでこんな所でこんなに大きく咲けるの?

予想外に現れた向日葵にの姿に、私は様々な思いが入り混じった。こんな所で咲いていたという驚きの思いと、よくぞここまで頑張ったねという労いの思いと、ちゃんと報われてよかったねのいう安堵の思いが混ざっていた。

すると、私は今までずっと、心の中で抱いてきた、どこか冷たくて、変に皮肉な思いを払拭したくなった。間違った箇所を消しゴムで消すように。

正確には、私はずっとこの思いを払拭したかったのもしれない。けれど、私自身が、これまでの人生で、この思いを払拭するに至るまでの出出来事に行き着けていなかったのだろう。
だって、冷笑してた方が先の見えないことに立ち向かわなくて済むからラクだったし、行き着けなかった時の絶望を味わうこともなかったから。

今回それを向日葵を通して見せつけられた。

結局、私は最初から、向日葵の待ち合わせる生命力やポテンシャルを信用せず、勝手にこの環境では無理だと決めつけていたのだ。

それは、私自身の生き方に対しても同じだった。
私は勝手に自分の能力を判断し、輝ける環境を決めつけたり、制限していた。そして、自分の理想通りにできないと、環境のせいにして逃げた。

もちろん、ある程度、環境は影響する。
向日葵だって、時には強風に吹き飛ばされそうになったり、人に引っこ抜かれそうになったこともあるだろう。けれど、与えられた環境で、限られた養分を自分で吸い続け、ひたむきに太陽に向かった結果、大きな花を咲かせた。

意外と人も同じで、どんな環境でも、その場所でできることをひたすらこなし、目的さえ見失わなければ、咲き誇れるのかもしれない。

コンクリートタウンで懸命に咲き誇るあの向日葵に「あなたもこのコンクリートタウンで、まだまだできることがあるよ」と激励されている気がした。

やってみよう。可能性がある限り。

向日葵の花言葉の一つである「情熱」に恥じないように。

そして、今日も開花を心待ちにしながら水やりをする娘の姿を見守りつつ、相変わらず飲食店の煙を被りながらも、必死で太陽に姿を向けるプランター向日葵に対して、敬意と「頑張って咲くんだよ」という熱いエールを心の中で送っている。


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