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読書記録「ふがいない僕は空を見た」

恋愛では自分の「性」と「生」を強烈に感じる場面がある。そんなときこそ「彼が本気で愛してる証拠!」とか「本気で愛してるのならそんなことしない」的な定説にすがりたくなる。不安があるたびにコラムを覗いては落ち込む。。。の繰り返しで。

今回紹介する本は,窪美澄さんの「ふがいない僕は空を見た」です。

新潮社の紹介文から引用します。

https://www.shinchosha.co.jp/book/139141/

高校一年の斉藤くんは、年上の主婦と週に何度かセックスしている。やがて、彼女への気持ちが性欲だけではなくなってきたことに気づくのだが──。姑に不妊治療をせまられる女性。ぼけた祖母と二人で暮らす高校生。助産院を営みながら、女手一つで息子を育てる母親。それぞれが抱える生きることの痛みと喜びを鮮やかに写し取った連作長編。R-18文学賞大賞、山本周五郎賞W受賞作。

生と性。人類が生を繋ぐに不可欠な性行為。にもかかわらず各人の「性」は多様で,私たちはときにそれを持て余す。この作品は「性」に対して客観性を保っている。善悪の判断もしない。愛とか恋で彼らをジャッジしようとしていない。淡々と彼らの「性」を含めた日常を描いている。

ままならない「性」を抱えて「生」きる各人それぞれ文脈があるわけで。ネットコラムの定説は私にとって真実ではないことも大いにありうる。まあ定説は,ある種の妥当性も含むのでそこから離れる怖さもありますが。

以下は本文から,印象的な文章を引用します。

こんな気持ちいセックスの果てに子どもが生まれるとしたら、それはなんて幸せなことなんだろう。私の体は誤作動を起こして生めないけれど。斎藤くんとも、もう会えないけれど。
「そんな趣味、おれが望んだわけじゃないのに、勝手にオプションつけるなよな神さまって」(中略)「でかい病院の息子で、自分で言うのもなんだけど頭も顔もそれなりによくて、教師としても有能な男が子供の裸の写真を見て興奮しているなんて,狭苦しい街で退屈しまくっている人たちにとっては、こんなにおもしろい話はないよな。」
悪い出来事もなかなか手放せないのならずっと抱えていればいいんですそうすれば、「オセロの駒がひっくり返るように反転するときがきますよ。いつかね。」
乱暴に言うなら、自然に産む覚悟をすることは、自然淘汰されてしまう命の存在を認めることだ。
ばかな恋愛をしたことがない人なんて、この世にいるんすかねー

最後に新潮文庫の重松清の解説の言葉を借りて。

本書に登場する人たちは、誰もがそれぞれに大きな「欠落」や「喪失」を抱えて生きている。…そんな「欠落」「喪失」を軸に据えれば、傷ついた彼や彼女たちの悲しみに満ちた物語は容易につくれるだろう。…窪さんが描き出したものは違う。まるっきり逆だった。彼や彼女が失ってしまったものではなく、彼や彼女たちがどうにも持て余してしまう<やっかいなもの>=「過剰」を活写した。失われたものを無視したのではない。前提なのだ。出発点なのだ。

どんな人も「生」を営むのは大変で,その大変さの背景には「性」も含まれています。ほんとうにどうしようもなくやっかい。本作は登場人物の「性」に客観的でありながら,冷たい感じはしない。そこには「生」へのまなざしがあるからではないでしょうか。何があろうとも命の尊さやきらめきを忘れたくない。一方で,「生」に対して生半可な祈りや慰めは何の力もないのだと実感させられる作品でした。



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