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ホラー映画&カルト映画レビュー ファニーゲーム&ファニーゲームUSA

ファニーゲーム(1997 墺) 95点
ファニーゲームU.S.A(2007 米) 90点

これは今流行りの「なろう系」の逆作品でないだろうか。改めてレビューを書くために再視聴して思ったことである。
「なろう系」とは正直私もしっかり見たことがないが、語弊を恐れず端的に表すと、主人公が基本的に努力なく特別な力を得て、その力とご都合展
開で悪を駆逐し女の子にモテモテという、ストレスにさらされた現代人の心を癒すストレスフリーの作品群である。
しかしこのファニーゲームは、ことごとくその逆を行く、現代人の心をへし折る非常にストレスフルな芸術作品である。具体的には以下のような要
素が挙げられる。
「主人公が特別な力を持つ」⇒「敵が特別な力を持つ」
「主人公が楽々敵を撃破」⇒「敵への抵抗はすべて無駄」
「主人公補正で都合よく勝つ」⇒「物事はすべて敵に都合よく進む」
「ハッピーエンド」⇒「なにひとつ救いのないエンド」
あなたは果たしてこのような作品を鑑賞したいであろうか。おそらく9割ほどの人間はNoであろう。しかし残り1割の人間は上記の説明で鑑賞欲を刺
激され、そのうちの数割がこの作品の虜となるのである。

作品の説明をすると、まず最初の「ファニーゲーム」はオーストリア制作のドイツ語作品である。監督はミヒャエル・ハネケ。詳しくは後述する
が、本作はおそらくアメリカ人にこそ見てもらいたい作品であったのだと思う。しかし彼らは基本的に英語作品しか見ないので、仕方なくセリフリ
メイクとして「ファニーゲームUSA」を英語版で作成した。リメイクといっても、ストーリーのみならず構図・セリフに至るまでオリジナルと全く
一緒。違うのは言語と役者くらいである。
もし手に入るならオリジナル版の方を若干お勧めする。オリジナルのキャスティングは「本当にそのあたりにいる家族(夫婦は実際の夫婦)」とい
う感じがあり、敵2人のツラも本当に憎たらしく、よりリアルな不快感が感じられる。
アメリカ人は役者の顔がよくないと映画を見ないので、リメイク版は家族と敵ともに顔が整っている。ティム・ロスやナオミ・ワッツ等有名役者が
演じているので、リアル感が若干薄い。画面も少し明るめな気がする。しかしその程度の差でしかないので、どっちを見ても良いのだが、USA方が
手に入りやすい。

この作品のあらすじは非常にシンプルである。
上流家庭(父・母・子供)が別荘に週末旅行をする。そこで2人の男が彼らを襲撃し、彼ら全員を嬲り殺す。
まとめればこれだけである。本当に最悪な作品だと思うだろう。何のためにこんな作品が存在するのだ?と思わざるを得ないことかと思う。
しかし実際に見てみれば、この作品が何を訴えたいかは意外とわかりやすい。この映画はハリウッドの娯楽映画などで描かれる、「正義の暴力」は
フィクションであり、「現実世界の暴力」はこのようなものであるということを訴えたいのだ。日本のバトル漫画などでも同じで、主人公がバコー
ンとこぶしで悪い敵を殴って解決、ハッピーエンドの作品は多いが、現実世界で人を殴る場面などめったに遭遇するものではなく、実際にそれを目
にしたら常識のある人はドン引きだろう。しかしフィクション作品にあまりに「正義の暴力」を肯定する作品があふれると、暴力が本来持つ生々し
い残酷性についての認識が失われてしまうため、その啓蒙としてこの作品は作られたのである。そういう意味では「なろう系の逆作品」という認識
も大きく違ってはこない。
この作品は決して残酷趣味な人たちを楽しませるためにあるのではなく、上記テーマのため非常に考え抜かれた構成となっている。実際シチュエー
ションは残酷でも、この映画にグロテスクなシーンは一切存在しない。殺されるシーンも明確に移さないし、死体も画面に映らない(唯一飼い犬の
死体が遠目で映るのみ)。ハネケ監督はかなり教養深い監督ではないかと思われる。

以下は、印象に残ったシーンの考察である。
・オープニングシーン
3人家族が車で別荘へ移動している。雰囲気は穏やかで、カーステレオで流れるオペラの作曲家当てをするという上流な生活を思わせる。そこに突
然BGMとして流れるジョン・ゾーン(Naked City)のアヴァンギャルドミュージック。最高に痺れるオープニングでこの作品そのものを象徴している
かのようだ。ここはホラーコメディ映画「キャビン」においてパロディされた。ちなみにBGMはここと最後の一瞬しか流れず、作中は一切音楽がな
い。現実世界に雰囲気に合わせたBGMが流れることはないからだ。エンドロールにすら音楽はない。
また現代の格差社会においては、上流家庭が理不尽な暴力にさらされることにカタルシスを得るという、本来の意図とは違った楽しみ方ができると
言えるかもしれない。

・生卵を割るシーン
ここも非常に巧妙なシーンである。私が上記で簡単に述べたストーリーを聞いただけだと、暴漢が急にヒャッハーと家に侵入してきたように予想さ
れるが、男2人はそうではない。最初は「卵を2つ分けて下さい」とお願いしてくるだけだ。そこからこの2人の不快感のボルテージの上げ方が非
常に上手い。急に凶暴性を爆発させるのではなく、徐々に徐々に人間としての不快感を増大させる。しかもこの不快感は割と現実世界で想像できる
タイプである。一般的な人間が許容できるリミットを超えて家主に「出ていってくれ」と言われたときにようやく彼らの凶暴性が牙をむくのだ。

・犬の死体を見つけるシーン
妻に殺した犬の死体を見つけさせるシーンがある。それは実際に殺すシーンを描写するよりも残忍だ。特にドイツにおいて犬を虐待することはご法
度である。ペットショップの存在しない動物愛護の国で、つい最近も散歩を1日2回以上を義務付ける法案が提出された。そんな彼らを最も激怒さ
せるのは、人を殺すシーンより犬を殺すシーンである。それをハネケ監督はよく理解している。
またこのシーンで男が第四の壁を破って観客に目配せをしてくる。それはまるで「やあ、映画を楽しんでいるかい?」と言っているようである。不
快感と同時に、リアルな描写の中で唯一フィクションを示唆しているため、救いも感じられる。

・子供を殺した後の静寂
まず死ぬのは子供。映画のお約束を逆にいくような展開だ。一度隙をついて逃げ出すシーンがあり、ここで子供なりに頑張り警察を呼ぶシーンか?
と思わせ普通に捕まる。しかも自分が護衛用に隣の家で見つけた銃で逆に殺されるという、なんとも裏目に出た逃亡である。
残酷なことに両親の目の前で殺されるわけだが、そこで2人組が白けて家を去った後に訪れる静寂。ここだけ映画の時間ではなく、実際に流れるリ
アルな時間を描写している。アングルも変えず、音もなく、ただ夫婦が呆然とする様子を5分以上も映し続ける。次の展開に意識を割かせるのでは
なく、鑑賞者は空白な時間で2人の感情をこれでもかと受け止めさせられる。
さらに次の水に落ちた携帯を乾かすシーンでまた10分近くである。こんなシーンで10分かけるのは通常の映画産業であれば狂気の沙汰である。しか
も結局形態は復旧しない。普通の映画なら「ダメ、直らない」で10秒で終わるシーン。リアルな時間の流れを反映させ、焦らせる為のシーンである
ことはわかるが、良い悪いはともかくすごい表現だ。

・再度現れる2人組
絶望とは、そこから逃れるチャンスがあったのちに再度立ちはだかることにより、より深くなる。ハネケ監督はそれをよく理解している。その恐怖
の表現がゴルフボールが転がるシーンであることが、ハネケ監督のセンスが光る。
なぜ彼らは戻ってきたのか?それは「映画にするにはまだ尺が足りなかったから」「映画のエンディングとしてしっくりこなかったから」である。

・リモコンで巻き戻される時間
これは本作においては最もフィクションが協調されるシーンである。なぜこんな良くわからないシーンが挿入されているかというと、おそらく鑑賞
者の抱く「最後に逆転してほしい」、「被害者に助かってほしい」、「悪人は最後にやられるはずだ」と一縷の望みを逆なでするためだと思う。こ
のシーンの前のセリフも相まって、ハッピーエンド=ご都合主義であるという、鑑賞者のみならず映画製作者への皮肉も込められている。およびハ
ネケの意図したところではないだろうが、「セーブ&ロードを敵側が使う」というゲーム文化についての皮肉にもなっている。

・彼らは何が目的でどこから来たのか?
初見では2人組は非常に憎むべき存在として書かれているが、映画をよく理解すると、逆にこの2名について特に憎むべき感情は起こらなくなる。
なぜならこの2名はアンチテーゼを掲げるための単なる舞台装置であり、血が通った人間ではないからだ。だからレイプをするわけでも、金品を巻
き上げるわけでも、殺人を快楽として感じているわけでもない。ただ鑑賞者を不快にするために存在するマイナスベクトルのデウス・エクス・マキ
ナであり、憎む対象にならなくなってくる。映画周辺で彼ら自身それを匂わす会話をしているが、彼らは異次元から来た存在なのだ。

いささか語り過ぎてしまったが、ひとつひとつのシーンにハネケ監督の表現が光る。
岡本太郎も言うように、芸術とは「なんだこれは」と一見して理解できないものこそふさわしいが、しかしただ訳が分からないだけではなく、鑑賞
者の心に感情の津波を起こさせる必要がある。この「ファニーゲーム」は、十分それらの要素を満たした現代アートの一つと言って差し支えない。

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