貧しさの中に幸せあり

僕には一生をかけて追いたい事があります。
それはより多くの人が幸せを感じながら生きて欲しい。
もっと詳しく言えば幸せを感じるセンサーを敏感にさせて
今まで感じていなかった幸せを感じることで幸せに生きているんだと実感してほしいという目標があります。

なぜこんな事を思うようになったのか?
キッカケは20歳の時に行ったカンボジア。
そこで孤児院、日本語学校に行きました。

確実にこれまでのかちかんが180度変わるような体験をしました。
何に驚いたかというと。

120%の笑顔

嘘偽りのない心の底からの笑顔をみた時に
これまで味わった事がないような事を多く感じました。

直感的に「これは日本人負けたな」と。
笑顔に勝ち負けなんてないはずなのに、反射的にそう思った。

その時はなぜ自分がそう思ったのか?わかりませんでした。

そこから少しずつゆっくりと整理していくなかで見えてきたことがあります。
カンボジアで出会った子たちは、言葉を選ばすに言うと、一般的に恵まれていない子って表現されるかもしれません。

特に孤児院にいた子ども達は親に捨てられ行く宛がない子達でした。
日本語学校でもほぼ同じ年齢の子達でした。

本音で言えば孤児院の子ども達はかわいそうと。
日本語学校の子は少し幼いなと感じました。
今思うとなんと失礼な感情だったなと。

少し話を戻すと、笑顔を見て負けたな。と思ったのは
純度120%の笑顔をみたから。
もっというと日本人よりもいい笑顔をしているなと

本来、衣食住においても日本のほうが豊か。
お金も物も情報も明らかに日本のほうが豊かである。

だから日本人の方が豊かで幸せか?という疑問が僕の中でずっとある。

物の豊さ=幸せじゃないなとその時気づいた。

じゃあなぜ、幸せじゃないのか?
カンボジアから日本を見るとどう考えても日本の方が豊かで幸せに見える。

そこでたどり着いたのが
日本人は幸せを感じるセンサーがマヒしているなと。

カンボジアに行って以来僕自身、今までスルーきていた何気ないものに気づくようになった。

例えば朝ごはんが食べられることにも、これって普通じゃないんだなと。
大学に行けているのも本来幸せだったんだなと

こう感じているうちに幸せでいることが申し訳なくなってきました。
これだけ幸せでいるのにしょうもないことで悩んでいたり、文句を言ったり思ったり。

今まで肩に乗っていた重荷が降りた気がしました。
堅苦しい表現をしたけど、簡単にいうと楽になった。

大抵の事がおきても許せるようになった。

許せるようになって、いろんな歯車が回りはじめた。
自分はこれまで感じていなかった幸せを感じられるようになったし、回りにもより気を配れるようになった。

器が少し大きくなれたのかな?

おこがましくいえばこの感覚を皆にもってほしいなと。
当たり前の幸せをか感じることができれば
例えば自殺者を減らすことができるんじゃないかなとか
自分さえよければいいみたいな考えとか
今苦しい思いをしながら生きている人とかに何かしらプラスの事を届けられるんじゃないかなと。

今の世の中を見ていて思うことは
幸せを感じるレベルが高すぎる。
求めているものが大きすぎると。

美味しいご飯を腹一杯1日5食も食べてたら後半食べるのがキツイ。どんなにいい食材、いい料理人がつくってもだ。

反対にダイエットしている時に食べられるご飯と味噌汁は死ぬほどうまい。

たぶん人生もこういうことじゃないかなと思う。

だからタイトルでも示したように貧しさの中に幸せあり
とかいたように、あえて貧しさを自分の中に持っていないと本当の幸せは感じられませんよってこと。
これを伝えていきたい。

お金持ちなのに苦しそうに生きている人はこれの典型的な例だと思う。

これまでは収入が20→30万になれば幸せになれた。
まぁこれは資本主義の世の中の仕組みだからそれでよかったんだと。

これからは人口減の時代。
右肩上がりで収入が増えていく人は少数
収入が30→20万になっても生きていけるだけの知恵
余った時間で好きなことをやれる人が輝く未来になるんじゃないかなと。

そんな未来を僕は作りたいと思う。

っていったらそれは社会主義じゃん。って
その場は確かにって思ったけど、冷静に見れば違うなと。
資本主義の社会の中で逆張りをするみたいなイメージ。

全員にとは言わないけどそんな生き方もできるよと提案していきたい。

そのためにはもっと幸せとは何か?
本質を追い続ける必要が僕にはある。

22歳、何もない。けどこれを実現するためにこれからも
がむしゃらに走っていく。

※過去イチ真面目に書いた(笑)
書いている手がとまらなかった。

2020/6/20

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?