絶対正義はない

不易流行を立ち上げてから、改めて古典芸能で描かれる世界(筋と呼ばれるストーリーや登場人物の描写に見られる設定や背景など)について意識を置くようになりました。
舞台上で描かれている世界には、現代人の視点としては到底受け付けられない設定や習慣・慣習、心的描写が見受けられます。
例えば、求愛した女性の顔をよくよく見ては醜いと言って逃げ出したり、いとも簡単に子どもを殺したり…現代人の感性では笑えなかったり、芝居といえど目を覆いたくなるような描写も随所に見られます。
所謂ヤクザものというものも暴力であったり過度な忠誠を描いていますが、今もなお作品として人気を博しているものは多くあります。(私もこの手の作品がとても好きです)
仇討ちにしてもそうです。物騒です。
しかし、ここで大事なのはこれらが脈々受け継がれている作品であり、描かれている世界においては「一般的」であるということです。(描写がデフォルメされているかどうか、またそれを観客が意識しているかどうかはさておき、「そのようなもの」として捉えられているということです)
ここに私が古典芸能(これも定義が曖昧ですが…)に魅力を感じる要素の一つがあります。
「かつてこのような考え方の世界があった」「現代では憐れまれるようなことでも、この時代(世界)では賞賛されるものであり羨ましく思われることである」というように、今自身が生きている世界とは価値や感性を別にするところに面白さを感じたり、想いを馳せることができるのだと思います。

今回のタイトルは、私が目下読み進めている「現代の考察 ただ独りで生きる(執行草舟 著)」にある言葉で、文明についての言及で発せられているものです。
不合理の連続や不合理の転換のなかで過去の常識や良識というものは、いつしか「文明が低いもの」として扱われることがあるが、文明に高いも低いもなく等価値であり絶対正義というものはないと執行氏は言っています。
これは現代のあらゆる文化圏においても、また世代間においても言えることです。
あの地域の文化は野蛮だとか、ウチの父はまともにスマホも使えない、などというのは論外の思考であるということです。
出来の悪い新入社員も、暴力的に振る舞う人も、社会という人の関わり合いのなかで生まれた現象だと理解する必要があるわけです。

さらに、歴史は繰り返すと言われるように、時代が移り変わり危機を乗り越えたとしても(落ち着きを見せたり、制度を是正したりしても)また異なる形で争いや不正は発生します。
喉元過ぎれば熱さ忘れるということもあるでしょうが、当事者以外は一様に傍観者であり又聞きの域を出ず、歴史的な経緯や人間の性質に目を向けないからだと思います。
それはある程度致し方のないことであり、だからこそ歴史を学ぶ必要があり、古典と言われるものが重宝される理由だと思うのです。
近年盛んに「可視化」「エビデンス」と平等や正当性の必要が叫ばれていますが、結局のところ提示され一見それらしく見える論拠も、レトリックにすぎない可能性もあります。
「バランスシートで読みとく世界経済史(ジェーン・グリーン・ホワイト 著、川添節子 訳)」でエンロンの破綻などと併せて紹介されているように、会計監査をもって正当性を主張する企業も、実のところは複雑な財務操作によってそれらしく見せているだけということも多くあります。
会計に限らず、その時代時代のレトリック(水戸黄門の印籠みたいに)があるわけです。
執行氏が言うところの「文明が為していることは〈中略〉不合理なものを他の不合理に作り替えているだけ」であることそのものですね。

以前、違和感について記しましたが、何か釈然としないもの(急に栄えたものだったり、良いところしか見えないことだったり)に触れた時に、世の中はとても複雑にできているんだよなぁと冷静に大局的な視点をもたらしてくれるきっかけにもなります。
この感性は人生を通して大切にすべきものであると思い、ご紹介させていただきました。

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