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食と回想、近況報告

一人暮らしが始まって3ヶ月が経ちました。世間でよく言われる実家の味が恋しいとか、実家に戻りたくなるみたいな感覚を期待していたのですが3ヶ月経ってもその手の類の衝動はさっぱり現れず、俺は建前上は否定していても内心は家族への愛だとか、そういったものを信じたかったので内心ちょっとショックでした。

実家にいた頃の俺は常に限界だったので些細なことで泣いたり癇癪を起こしたりして常に寝込んでいました。本当に精神がギリギリだったので鉛筆を机の下に落としただけで絶望して死のうとして、机の下の鉛筆すら拾えない人間が当然死ねるはずもなく、通りすがりにドアの隙間から一瞬見える、この家で唯一ベランダに通じるガラス戸に立ちふさがる父のデスクを睨んでいました。希死念慮を悟られたく無かったので立ち止まることはしませんでした。不幸か幸いか3年前に父は会社勤めを辞め、自営業を始めたので365日ほぼ1日中父はデスクに向かっており、俺が飛び降り未遂を試みるのはもっぱらフロントで鍵を借りると入室できるラウンジのベランダです。

住んでいたタワマンは全面ガラスははめ殺しで、2面ガラスで密閉されたリビングは開放的なのか閉鎖的なのかわからなくて飼育ケースみたいな場所でした。思い返す限り楽しかった記憶がほとんどないけれども俺は実家の空間自体は結構好きで、隣のビルに反射する夕焼けの景色だとか、鈍色のシンクだとか、毛がゴワついた藍色のカーペットを草原に見立てたりするなどして愛していたのですが、今からすれば精神を保つために無理やり実家を愛そうとしていただけだったのかもしれない。タワマン暮らしのガキは精神を病んではならない法がある。

俺は両親に感謝こそあれど俺と両親は思想が合わないので俺は両親との接触で無闇に傷つき、無益な精神の消耗を積み重ね、18になる頃には憎しみや嫌悪に近い感情が薄っすらと積もっていました。しかしそれは遅めの反抗期のような、今は険悪でも将来的には仲睦まじい家族に戻れるとどこかで信じていたし憎い憎いと言えど俺は両親を愛しているのだと思っていました。なのでまるで初めから一人で生きてきたかのように圧倒的に呼吸が楽な毎日を送り、時折実家に連れ戻される悪夢にうなされるたびに俺は本当に家族も実家も心底嫌いだったのかもしれないという不安に囚われ、それでまた少し病んだりするけれど実家にいた頃よりはひどくないので適当に酩酊して寝れば20時間後くらいには日常に支障が出ない程度には回復します。

しかし、実家恋しさを感じないのはまだ3ヶ月目なのでなんとも言えないのですが、食事に関してはある程度恋しさが出るのではないかと当初から期待していた面があり、3ヶ月経っても片鱗すら見せないので、母の不治の病を知らされ母の死後に備えて母の味を習おうと料理を手伝っていた10歳の俺がちょっと可哀想になってきました。あくまで予感ですがこのまま一生母の味を思い出す事無く死ぬ気がする。

俺が一向に母の味を恋しがれないのは母の味=飢餓の刷り込みが脳になされているからなのかもしれません。これはどういった図式なのかと言えば俺の実家は結構ガチで、割とシャレにならないレベルで食料が慢性的に不足しているのです。

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これらは4人家族の家庭の冷蔵庫なのですが俺の実家の食料事情は常にこんな感じで、友人にネタでこの画像を見せたらネグレトを心配されて、それをまたネタに笑いをとっているので俺も大概です。味噌だけは絶対に切らさない大和魂と冷蔵庫の上段に8年以上居座っているあのペットボトルの正体をとうとう知る事なく俺は実家を出ました。

言い訳をすると別にネグレトだとか貧困だとか言うわけではなく単純に親父が節約に目覚め、週一で買い出しをする文化が根付いてしまったものの親父一人が自電車で運べる食材の量には限界があり、かと言って週一回以上の買い物は許されていなかったので結果として常時背景の白が見える冷蔵庫が誕生するわけです。とは言ってもこの悲惨なルールが生まれる以前から両親共々買い物に行くのを億劫がっていたのか材料を余らせるのを良しとしなかったのかはわかりませんが限界ギリギリまで買い物に行かなかったので、それが親父考案のルールでより一層強化されたと言う感じでした。俺はよく空腹を抱えて戸棚や冷蔵庫を漁っては賞味期限がとっくの昔に切れた調味料や食材をかき集め、2年前から棚に入っているホットケーキミックスを水で練って焼いたものに砂糖を振って食べたりしていました。

俺の家では朝食は各自が自分で作り、昼食は平日は弁当又は昼食代支給、休日はたまに母が作るが基本は自主性に任せ、夜は概ね父か母が夕飯を作るルーティーンが根付いていました。俺は鬱のせいか目覚めてから1時間くらいぼーっと立ち尽くすだけで本当に体が動かず、朝食を作る時間も食べる時間も無いのでここ13年くらい朝食を食べる文化は廃れています。昼食に関しては昼食代支給で、500円きっかりしか支給されず、おそらく端数とか消費税とかいうものを考慮していなかったのでしょう。なので1日昼食を抜いて端数を確保していました。しかしこれは栄養失調で、160cm38kgとかいう体重の減りがいよいよ深刻になって来た後期の話であって、俺は物欲が激しく万年金欠だったので一箱100円のクッキーを昼食と呼び、それは未だに友人に笑い話として語られています。俺は箸が転がっても可笑しいお年頃を卒業してしまったのであまり笑いません。夜は概ね母の手作りなのですが双方50を超えた人間の胃を基準にしているので育ち盛りの胃には少なかったし、俺は相変わらず鬱とナルコレプシーで椅子に座るのも、箸を握って正確に口の位置まで運ぶのも、そもそも箸を握り続けるのも腕を持ち上げるのも咀嚼も嚥下も目を開け続けるのも意識を維持し続けるのもしんどくてひどい時は固形物が一切食べられず味噌汁の汁だけを飲んで崩れ落ちるように眠ってました。そんな俺を目の当たりにしているはずの両親は俺を病院に連れて行く気配を一向に見せなかったので今の俺の成績とか、あんたなんか産まなければよかったと叫びながら泣く5年前の母の背中だとか、もっと昔の俺が物心ついた頃の、俺を橋の下から拾って来た話を笑いながら話す父の口元だとかが脳内をぐるぐるし、とうとう恐る恐る病院を探して欲しいと頼むとあっけないほどあっさり探してくれました。

なんというか、両親は万事においてこんな感じで、俺の履いてる靴が明らかにボロボロで穴が空いて靴底が剥げていたとしても、躁鬱と希死念慮で毎日学校に遅刻して進級が危うんだとしても、食事が足らず栄養失調気味になったとしても一切両親側から何かアクションを起こすことは無く、しかし俺がそれに対して改善を要求すると7割方は対処してくれるのです。残りの3割は忘れるので繰り返し何度か頼む必要があります。両親共々優秀だったので、彼ら自身幼少期にあまり両親にこういった構われ方をしたことがなかったのでしょう。俺は両親とのコミュニケーションが絶望的に精神衛生に悪影響だったのとそもそも両親に対する遠慮があったので結局限界まで言い出せず、結果としてネグレト紛いの食事事情がまかり通り、実家の食事=飢餓の刷り込みがなされたのだろうと思います。俺が今だにコンビニ弁当を食す毎日を悲劇として描写する物語にイマイチ共感が湧かないのは、コンビニ弁当を食べていれば俺は健康診断で軽度の飢餓だなんて診断はなされなかったはずだからです。世間は手料理に夢を抱き過ぎている節がある。

あとは単純に母の食事はあまり美味という味では無かった。これは母が料理下手と言うわけでは無く、普通に作ればそれなりに美味しい料理を作れるにも関わらず抜ける手は徹底的に抜くのと材料不足を全部代用品で賄う所為です。母は昔中東かどこかを1年間流浪していたらしく、日々の食事に対する妥協の度合いが常人の比では無いので父がこそこそとデスクの引き出しに隠した柿の種やバームクーヘンなどで足らない食事を補う中、母だけがあの劣悪な食事事情に適応していました。

俺がまだ小学生で、学校に母手製のお弁当を持たされていた時代、100均で買った横幅12センチくらいのちいちゃい黄色いお弁当箱にオムライスが詰まっていました。刻み玉ねぎが入ったケチャップライスと薄い卵があって、卵は時間がなかったのかご飯を包んでいなかったけどとても美味しかったのでその日は母に随分とニコニコしながら美味しかったと伝え、空のお弁当箱を渡しました。次の日のお弁当もオムライスでした。昨日と同じく美味しいオムライスでした。オムライスは2週間ほど続きました。2週間の間の変化といえば卵が薄焼きでなくスクランブルエッグに変わったことと、1週間目あたりから玉ねぎが入らなくなったことでした。2週間を過ぎた頃にはとうとう卵が姿を消しました。お弁当箱に詰まったケチャップライスは、玉ねぎや人参などの具材は一切使わず、純粋に白米を油とケチャップで炒めるのみの、その名の通りのケチャップライスでした。その後どれくらいケチャップライスが続いたのでしょうか、2ヶ月くらいだったかな。後半の頃になるとケチャップと白米の混ざりが悪く、赤と白のまだらのご飯になっていました。母に一度これについて尋ねましたが聞き方が悪かったのか、「お弁当を作るのには姉妹2人分で10分も時間をかけている」と怒られてしまいました。10分もかかっているなら仕方がない。カップ麺を3つ作ってもまだおつりが来ます。今思えばツッコミ待ちだったのだろうか。そんなある日、お弁当箱を開くと中にはマヨネーズと茹でブロッコリーが詰まっていました。それ以降ケチャップご飯は姿を見せることはなく、ブロッコリー生活は長く続き、その内付け合わせのマヨネーズは姿を消し、俺は塩茹でされたブロッコリーを半年ほど食べ続けました。中学に上がる頃には育ち過ぎて縁が紫になったレタスとウインナーとケチャップを挟んだ、水分でべちょべちょになったサンドイッチが現れ、やがてハムとチーズのみのサンドイッチに変わったのでべちょべちょではなくなり、パンの耳が切り落とされたのは始めの数回で、ハムとチーズはしょっちゅうどちらか一方が姿を消し、またおにぎりが現れ、具材のウインナーと海苔は姿を消し、やがて塩も時折姿を消し、俺は廊下のベンチに腰掛け、白米の塊をもぐもぐと頬張って冷たいコーヒーで流し込んでいました。当時の俺は鬱で食欲がなかったのでしょっちゅうお弁当を残し、お弁当を捨てる母の能面のような横顔を見てまた泣いて布団に篭りました。

高校に上がってもお弁当箱は相変わらずちいちゃいままで、その頃になると昨晩の夕飯の残りと冷凍フードが半々の割合で混ざるようになり、過去の5年間と比べるとだいぶ豪華になりました。ただお弁当箱の蓋を閉めるのが早すぎるのか汁物を入れるのに躊躇が無い所為かお弁当はいつもべちょべちょで、しょっちゅう手に汁が付きました。高校1年生の頃の俺の席は窓際で、初夏の日差しに照らされてお弁当の白米に紛れた母の短い頭髪がキラキラと光っていました。お弁当にはよく母の頭髪が混ざっており、俺も最初は律儀に警戒して一つ一つ除けていたのですが、そのうちめんどくさくなってそのまま食べるようになりました。なんてことはない、少し凍ったままの冷凍ハンバーグの味で、シャリとした食感です。

俺は母が好きだったので、あの頃はお弁当にケチをつけたことなんてほとんどありませんでした。俺は昔から母が好きでした。妹が生まれ、川の字になって眠る時に、幼い妹を抱かねばならないのでいつも俺に背を向けて眠る母の背中に縋り付きながら、母に愛されたいとマゾヒスティックな感傷に浸っていました。母の愛情を掠め取る妹は生まれる前から嫌いで、生まれた後はもっと嫌いだったので、俺は常に妹を叩いたりつねったりして泣かせ、母を消耗させ、より疎まれました。病院帰りの衰弱した幼い妹が俺にうさぎの絵が描かれた注射痕に貼られたガーゼをくれた時、すごく虚しくて悲しかったのを覚えています。母に縋り付いて眠る時に、母が「お前の触り方がいやらしい」と手を払いのけた時はすごくギクリとしました。俺は確かに母に多少なりとも性的な目を向けている節があり、それを母自身に指摘されたことによって初めて俺の汚い面が可視化されたのでした。俺は硬直し、焦り、手のやり場に困りながら実に不本意そうな態度を保つのに必死でした。

俺がお弁当の中の母の髪の毛を除けなかったのはほんとうにめんどくさいからだったのでしょうか。別に、ふと過ぎった最悪な妄想だっただけです。俺はその日の夜に「明日からは購買でパンを買う」と母に伝えました。翌朝には食卓の上に300円が置かれていました。当初のお昼代は300円だったのです。それから俺と母はあまり喋らなくなり、たまに思い出したように沢山喋り、笑い、時折母の点てた抹茶と和菓子を食べ、年に一回程度二人で出かけ、そして俺は実家を出ました。

一人暮らしが始まって3ヶ月が経ちました。しがらみから解放されたかのように無味で平穏な生活を送っています。一人になった俺は少し奔放になり、シャボン玉を吹いたり花火を買ったりしてそれをアイデンティティにしようとしています。脳にモヤがかかった感じと情緒不安定はだいぶマシになりました、毎日が楽しいわけではなくて躁鬱の繰り返しだけどあの頃よりは希死念慮も薄らぎました。ご飯もちゃんと食べれています。平均的な量からするとものすごく少ないけど少しずつ量を増やして、体重は44キロ台をキープできるようになりました。実家にいた頃のように慢性的に無気力で頭痛と吐き気と倦怠が続くことはないし、5年ほど続いていた立ち上がるたびに7秒間ほど目が見えなくなって激しい頭痛で崩れ落ちる現象も最近はなくなりました。立ってもフラつくこともなく、ちゃんとまっすぐ歩けるしなんなら走れます。睡眠時間も10時間以上眠ることはほとんどなくなりました。最近は13年前に失われた朝食文化を取り戻そうと、フルグラと牛乳を買いました。少しずつ調理器具も調味料も増えて来たので、今度煮うどんを作ろうと思います。餅を入れて、お揚げも入れて長ネギをたくさん入れようと思います。鰹節も乗せます。賞味期限の切れてない、買いたての材料だけで作ります。当分実家に戻ることは無いと思うけど俺は元気です。





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