ヒヤリ帽子
「Nくん! Nくんはいないか!」
休憩室でくつろいでいたN氏は、研究所内に響き渡る大声にびっくりして今まさに飲もうとしていたコーヒーをこぼしてしまった。リノリウムの床に黒いシミが広がっていく。
「Nくんは……ああ、ここにいたのか。探したのだぞ!」
布巾で床を拭いているN氏を見つけたS教授は、急ぎ足でそばへ駆け寄った。何かを伝えようとするのだが、ゼイゼイと息を切らしているので思うように声が出なかった。
「先生、とりあえず落ち着いてくださいよ」
N氏は立ち上がり、新たに入れたコーヒーを差し出した。S教授はコーヒーを受け取ると、熱さを気にせず一息に飲み干した。
「うむ、きみの入れるコーヒーはうまいな」
「それはどうも。本当はもう少し味わってほしいんですがね」
「考慮しておこう。――そんなことよりだな、これを見てくれたまえ!」
S教授は背中に隠し持っていた帽子を取り出して、N氏に突きつけた。帽子は何の変哲もない青いシルクハットに見えた。彼は頭に疑問符を浮かべた。
「なんですかそれ。シルクハットですか?」
「ふっふっふ、甘いぞNくん。これはな、ただのおしゃれなシルクハットじゃないぞ。まあ百聞は一見に如かずだ。かぶってみなさい」
N氏はシルクハットを受け取ると、おとなしく頭にのせた。S教授は顎に手を当ててその様子を観察した。
「――きみはシルクハットが似合わないなあ」
「なんですかそれ、僕を馬鹿にするために持ってきたんですか?」
「ああ、すまんすまん。つい本音がぽろりと。そんなことより、ほれ、そのままそこに座ってみなさい」
N氏はぶつくさ言いながら先程まで座っていた椅子に再び座った。S教授は彼から5歩ほど離れた場所に立った。そして、片目をつぶりコーヒーカップを持っていない方の手を顔の前に上げた。何かを図っているようだった。
「よし。絶対に、絶対に動くんじゃないぞ」
「はい? 一体何を……」
突然、S教授はコーヒーカップをN氏めがけて投げつけた!
◆
N氏は反射的に身を縮こませ、その勢いで椅子から転げ落ちた。コーヒーカップは頭上を通り抜けて壁に当たり、激しく砕け散った。コーヒーの残滓が辺りに撒き散らされた。
「うわあ! 何するんですか!」
「どうもこうもただの実験だよ。――ふむ、どうだねNくん。冷たくなったかね?」
「は? つめた……? え?」
S教授の数秒前に自分の助手めがけてコーヒーカップを投げたとは思えない落ち着き様に、N氏は目を丸くした。
「冷たくなったかね、と訊いておるのだよ。これは重要な質問だから嘘偽りなく答えてくれたまえ」
「――そりゃ冷たくもなりますよ。背筋は凍りましたし……脇汗もビッショビショですよ!」
N氏は答えている最中に段々と腹が立っていき、しまいには怒りが爆発した。床を叩いて勢いよく立ち上がり、自分の脇を指さした。彼のシャツは確かに大量の汗で湿っていた。
今日という今日はもう我慢できねえ。N氏は袖をまくって腕を振り上げた。
「いやいや、そういうことではなくてだなNくん、私が訊いているのは帽子のことだよ」
S教授は冷静を装いながら、しかししっかりとN氏の怒りの一撃が当たらない位置へ下がった。そして、彼がかぶっているシルクハットを指さした。
しばらくN氏はハアハアと息をあらげてS教授を睨んでいたが、給料のことを考えて、殴りかかりたい衝動を抑えた。
「落ち着いたかね?」
「……ええ、はい」
「それでは本題に戻るとしよう。きみは今、確かに驚いただろう? だとすると、そのヒヤリ帽子はそれ相応に冷えているはずなのだよ」
「ヒヤリ帽子? なんだかパッとしないネーミングですね」
「そこは気にしないでよろしい。とにかく、どうなのだ? 頭がヒエヒエになってないかい?」
N氏は頭部の感覚を探った。すると確かに、頭に程よく冷気が当たっていることに気がついた。
「あっ、確かに。なんか冷たい気がします」
「ほう! そうか!」
「なんですかこれ、保冷剤でも仕込んでいるんですか……んん?」
N氏はシルクハットを脱いで冷気の出処を探した。しかし、保冷剤やその他冷気の要因になりそうな代物はどこにもなかった。
さらに、シルクハットの中に手を入れてもなぜか冷気を感じなかった。頭にさらに疑問符が浮かんだ。もう一度シルクハットをかぶってみた。しかし、冷気を感じなかった。
「さっきまで程よく冷えていたのに……」
その様子を見て、S教授はニンマリと笑みを浮かべた。N氏は少しイラッとした。
「ふっふっふ。それが、この発明のすごいところなのだよ!」
S教授は自分の発明の成功にテンションが上り、その場で踊りはじめた。
N氏は自力でこのシルクハットの謎を解き明かそうとしたが、納得のいく回答は出てこなかった。なので降参の素振りを示してシルクハットをテーブルに投げ捨て、S教授が落ち着くのをコーヒーを飲みながら待つことにした。
◆
「さてと、きみも気になっていることだろうし、そろそろ種明かしといこうか」
およそ10分ほどたっぷりと踊っていた教授は、シルクハットを取り上げテーブルの上に立ち上がった。そして咳払いを1つ。
「簡潔に言うと、このヒヤリ帽子はだな」S教授は一旦言葉を切って、たっぷり10秒溜めを作った。「なんと、使用者が脅威に面した時、帽子内に冷気が噴出されるのという発明なのだよ!」
「……はぁ」
「む? なんだねその反応は」
N氏は、不満げな視線を向けるS教授を無視して、部屋に備え付けてある台所にコーヒーカップを置きにいた。そして、流しに手をついたままS教授へ視線を向けた。その視線は驚くほど冷え切っていた。
「いえ、くだらない発明だと思いまして」
「くだらっ……きみもズケズケとものを言うねえ。まあいい」
S教授は机からゆっくりと降りて、シルクハットをかぶり、台所へ向かった。そして、N氏の隣に立ち、棚に置かれていたキッチンナイフを手に取ると、自らの手に当てて引いた。すぐに、手に薄い血の筋が浮かんだ。
「うわっ」N氏は顔をしかめた。そして、S教授から離れ、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、イスに座った。
S教授は、N氏の汚物を見るような視線も、自ら作った切り傷も気にせず、「ふむ、やはりこの程度か」などと独りごちながらキッチンの脇においてあるノートに何かを書きなぐりはじめた。
「ところでなんでそんなものを作ったんですか?」
S教授は書く手を止め、振り返って手を組んでN氏に視線を向けた。
「うむ、今、それを説明しようとしていたところだ。ところでNくん、きみはこの研究所内で発生している驚異について考えたことはあるかい?」
N氏はつい「イカれたおじいさんが暴走していることですか?」と口から出してしまいそうになったが、なんとか言葉を飲み込んだ。代わりに、眉を上げて首を横に振った。
「そうだろうそうだろう。きみは知らないだろうけど、ここ最近、災害や事故がうなぎのぼりで増えているのだよ。由々しき事態だとは思わんかね。――そう、由々しき事態なのだよ!」
N氏は、数週間前にS教授が作った発明品によってボヤ騒ぎがおきたときのことを思い出した。しかし、藪蛇を避けるため指摘しなかった。
「だからわたしはこの状況を打破するべく、このヒヤリ帽子を発明したというわけだ! 先程も説明したが、ヒヤリ帽子は使用者が驚異に出くわすと内側から冷気を放出する仕組みになっている。冷気の強さは、脅威度に比例する。ここまではいいかな? ……よろしい。さて、ここで言う脅威なのだが、つまり災害や事故のことだ。リスクと置き換えてもいいだろう。実例を出すと、突然コーヒーカップが飛んできて怪我をしそうになったり、フルーツナイフで手を切ってしまったり、と」
S教授は切った方の手をぶらぶらと振った。N氏は、先程の彼の奇行の理由を理解した。理解したからと言って、コーヒーカップを投げられたことを許すつもりはなかったが、そのことも黙っていることにした。
「そしてこのヒヤリ帽子は、そういった脅威が発生した、または発生しかけた時に機能する、ということだ」
「なるほど?」
「まだわからないかね。つまりだ、ヒヤリ帽子を日常的に使用することによって危機管理能力が向上し、結果、災害や事故が減るというわけだ。失敗するたびに痛みを得れば嫌でも学ぶというものだ。何か質問は?」
S教授はヒヤリ帽子を外し手で回転させながら、N氏の反応を待った。N氏はしばらく回転している帽子を眺めていた。まるで、そこに回答が書かれているかのようにじっくりと。しばらくすると帽子の回転は止まった。S教授は帽子をかぶり直した。
「はい」N氏はいつもの癖で小さく挙手をした。すぐに気がついて、恥ずかしそうに、忌々しそうに手をおろした。
「なにかな?」
「痛みで学ぶ云々は置いておいて、なぜ痛みではなくて冷気なんですか?」
「それはわたしは痛いのが嫌いだからだよ。もしかして、きみはそっちの趣味があるのかい? だとしたらきみ用に痛みを感じるものを作るが……」
「いえ、結構です」
N氏が真顔できっぱりとはっきりと断ると、S博士は少し残念そうな表情になった。
「それで、何故冷気なんですか?」と、N氏が訊いた。
「今が夏だからね。蒸してしまわないようにという配慮だよ」
「なるほど……あと最後に1つ、シルクハットの形である理由はなんですか?」
S教授は、シルクハットのつばを人差し指でクイッと上げた。
「それはわたしの趣味だよ」
◆
翌日から、S教授は常にヒヤリ帽子をかぶりながら過ごしていた。そして、時折なにかブツブツつぶやきながら手帳に殴り書きをする光景が研究所内で目撃されるようになった。と言っても、S教授は何かを発明するたびにこのような奇行に走るので、誰も必要以上に気に留めることはなかったが。
N氏はN氏でそんなS教授を気にかけることもなく、いつもどおりの日常を送っていた。
ある日、食堂でお気に入りのカツカレーを堪能していた時、同期のR氏がラーメンを手に向かいの席に座った。
「おい、N。お前んとこの先生、さっき廊下で見たけど、ブツブツ言いなが壁に頭突きしてたぞ。しかもなぜか青いシルクハットをかぶりながらな。あれ、やばくないか?」
「先生の奇行は今に始まったことじゃないし。大丈夫じゃない? 多分」
「なんだそれ。お前毎日顔合わせてんだろ。何やってんのか知ってんじゃねえの」
N氏は食べる手を一旦止めて、手に持ったスプーンで自分の頭を指してクルクルと回した。
「先生はアレだから。俺にはなにもわからんよ」
「お前のその態度。逆に尊敬するわ。……尊敬しているわけでも音があるわけでもないのになんでまだあの先生のところにいるんだ?」
R氏の問に、N氏はそっけなく答えた。
「金払いがいいから」
◆
夏の終わりが近づいてきたある日の深夜。そこそこ大きな地震がN氏の住む辺り一帯でおきた。
多くの住民が目を覚ました。慌ててガス栓を確かめる者、SNSに書き込む者、我関せずと二度寝する者。行動は千差万別だった。
N氏はというと、地震に気が付かず寝続けていたのであった。
翌朝、本棚からたくさんの本が落ちているのを見て、昨夜の地震を知った。
ぶつくさと文句を言いながら、スマホで情報収集をしつつ本を片付けていると、震源地は研究所の近くだと知った。
今日一日は片付けで忙しそうだ、と思って顔をしかめた。
彼の予想通り、研究所内はしっちゃかめっちゃかになっていた。カップ、ペン、書類の束、作業着、溶接用ゴーグル、ボルトにナット、モンキーレンチ、研究用モルモット、トイレットペーパー、フォーク、ペットボトル、など研究所内にあるありとあらゆるモノがあっちこっちに散らばっていた。
「うーわ、これは酷い。先生はまだ部屋かな?」
N氏は落ちているモノを極力踏まないように注意して、S教授が寝泊まりしている部屋へ向かった。
部屋には問題なくたどり着いた。扉には『就寝中』と書かれた看板が貼られていた。N氏は、まずはいつもどおり扉をノックした。勝手に扉を開けるとS教授はとても不機嫌になるのだ。
5回ほどノックをしたが返事は帰ってこなかった。
「先生、おきてますか? Nです」
声をかけても見たが、返事はなかった。流石にこれはおかしいと思い、扉を開けた。
室内は、廊下と同じぐらいひどい有様だった。S教授が発明した数々のガラクタがある分、被害は酷いように思えた。
N氏はS教授の姿を探した。彼は部屋の中央にしかれた布団の上で寝ていた。頭にはヒヤリ帽子をかぶっていた。頭のすぐ脇に、重いガラクタ――発明品の1つ――が転がっていた。
「先生、もう朝ですよ」
声をかけても、S教授は目覚めなかったしなかった。不思議に思ったN氏はゆっくりと近づいた。すぐ隣まで近づいてもS教授は微動だにしなかった。
「先生? ……うわっ!」
N氏はS教授の体を揺すって起こそうとした。そして、彼はびっくりしてすぐに手を引っ込めた。なんと、S教授の身体は氷のように冷えきっていたのだ。
死んでいる。これは大変なことにになった。こういう時はどうすればいいのか。とりあえず救急車? それとも警察?
焦る思考で何をするべきかを考えながらもう一度S教授を確認した時、2人の視線が交わった。
S教授の唇が震えながら小さく動いた。
「ぼ、ぼ、ぼ、ぼう、し、を……は、はず、はずし……」
「うわっ! えっ? あっ、帽子ですね!」
N氏は慌ててヒヤリ帽子を剥ぎ取った。帽子からは、恐ろしく勢い強い冷気が発生していた。帽子を部屋の隅に投げ捨てて、暖房を最大で入れた。そして、電子ケトルでお湯を沸かし、S教授のかぶっている布団に撒き散らした。
◆
「いや、参ったよ。まさかヒヤリ帽子にあれ程のパワーがあるとは予想外だったよ。きみが来てくれなかったら危なかった。感謝するよ」
あの後、なんとか体が動く程度には回復したS教授は、病院にはいかず、備え付けのシャワーを浴びた。そして、S氏の淹れたてのコーヒーが入れられた頃には元の元気を取り戻していた。
事の顛末は『深夜の地震によって高いところに置いてあったガラクタが、S教授の頭のすぐ横に落ちてきたのでヒヤリ帽子が作動した』というものであった。N氏はそれを聞いた時、思わず「アホですね」と本音を漏らした。
「しかし、今回の件でヒヤリ帽子の問題点が浮き彫りになった。これは大きな一歩だよ」
命の危険に直面したというのにあっけらかんとした調子のS教授に、N氏は呆れを通り越した表情を向けて、言った。
「そうですね、高いところに重い発明品を置いてはいけないってことがわかって良かったですね」
~終~
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