目的と欲望について
欲望とは何か。何かをしたい、ということなのか。携帯電話を取り出したくてカバンに手を入れることは携帯電話を取り出したいという欲望なのか?もちろん違う。欲望するのはその携帯電話を操作することによって得られる何かだ。恋人と連絡を取り合うこと。一番近くのカフェはどこ?携帯電話を取り出すことは、欲望する目的に連接する行為となる。その行為は欲望されたそのものなのか?恋人と連絡を取り合うことはそれ自体が目的となりうる(逆に、もしそうでなければその恋人とは別れたほうがいい)。
だがカフェを探すことは、欲望された目的ではない。その先にある物事が目的だ。お気に入りのコーヒーを飲むことが目的ならそれは容易に達成されるだろう。恋人と一緒に過ごすことが目的ならそれはカフェに行かなくてもいいだろう。
もし携帯電話を鞄から取り出した理由が会社からの急な電話に対応するためだったらどうだろう。それは「望まざる」ものである。しかし、恋人と連絡を取り合う時と同じように携帯電話を取りだす動作をする。正しくは「取り出さなければならない」という心理的背景がある。これは欲望ではない。望まざる抑圧。反欲望。望まない抑圧は欲望されたものではない。これは何を意味しているのだろう。このとき自らが置かれた状況は、言葉どおり望まざる状況である。この状況はどう解釈すべきだろうか。望まない状況。労働。お金を稼がなければ極端な話、飢えてしまうだろうし、そうでなくとも彼の今付き合っている恋人とは別れてしまう可能性が高まる。ここからわかることは、欲求とはその達成のために対価をそれ相応に必要とするものである。と、よく聞く教義のように解釈することもできる。それもまた一理とは思うし、よくある状況である。
しかしここで疑問に思わなくてはならないのが、それは「望んだ」「欲した」「欲望した」ことか?という根源的な問いである。
プロ野球選手を目指すといった目的的なものであれ、とにかく自由でいたいといった脱中心的かつ抽象的である意味で無目的的なものであれ、それは望んでいることである。すなわち、実存にとっての「真」であり、「善」であり、「美」である。幸福という目的。
労働することは欲望であってはならないと誰も決めていないのにもかかわらず、我慢することに、欲しないことに慣れてしまい、むしろ感覚しないまでにも経験してしまう、ということもある。もしあまりにその時間が長いなら自ら過ごした時間を真剣に振り返ってはならない!
私たちは「選ばなければならない」。この義務は欲求と矛盾しない。言葉によって可能性をトレードオフにしないからだ。
逆に欲望されたものを善と盲信してしまうことは依存症の根源でもある。依存症は欲望そのものが自らを滅ぼす。あるいは製造された欲望。新商品。嫉妬。欲望は自殺因子を孕んでいる。持ちきれないなら持ったところで重荷になる。だから、欲望は自己と同一だと思わないこと。欲望は目の前にあるケーキを食べるか食べないかの選択の時に現れる、漫画の天使と悪魔のようなものだ。目的と欲望は同一であるとは限らない。飼い慣らさなくてはならない。欲望されるものは必ずしも価値ではない。
学校、職業倫理。これが「良いこと」である、と教えられること。もしそれが本当に「良いこと」ならしない手はない。これは価値を転倒しているのか?学校、職業倫理。学校なら童話的。職業倫理ならうまく作られた論理機械。いずれもある種の宗教である。それが望まないものであれば、結果としてそれは虚偽である。
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