現象の確からしさについて メモ

現象に対する仮説と立証に関しては
「それゆえ、~という確率が高いと考えられる 」という所までしか提示することができない

すべては仮説であり、どんなデータももっともらしく見せるためのものでしかなく、確率が存在する限り、未来の事を論じる限り、それはどこまでも仮説にすぎない。立証とは関係する因果関係が少なくなればなるほど容易になる。だからこそ数学上では1つの事象が完全なる証明として成り立つのである。

未来においての変更の可能性がないことーつまり確率の概念ちおける変動性がないこと 。その意味で、データにおける検証とは科学と事実における権威的な記号であるーにすぎないとすれば、そこで起こっていることを完全に示すのはなんであるのか?

ブラックボックスは残り続ける。極限的には、こうしたら、「なぜか」こうなった、というところでしかない。(世界が存在しているのはなぜか?ビッグバンは極限的な理由にならない。そうでしかないということ?)

「なぜか」関連がある。その上での話をすること。

或いは、そうであったという事に対する複数性がデータによる因果関係を不確定にする原因である。言葉は本質的に区別的であり、逆に包括的は言葉は区別を曖昧にする。

「解釈と理由は様々である。」

事象に対する「なぜ」を知ることすなわち「理由」を知ることが事象についてより知ることである

落ちているリンゴを拾ったとする。(事象)
落ちたリンゴが手の中にあるのは私が拾ったからである。(理由)
この物理的な因果関係に疑いの余地はない。

落ちているリンゴを拾ったのは私が拾おうと「思った」からである(理由)

因果関係は1つではない。因果関係は複数ある。
それに、理由はすぐさま事象になりかわり、その理由を提示する。

落ちているリンゴを拾ったのは「拾え」と命令されたから、だとすると、理由の1部でしかない。

その命令者が拾えと言った理由はそのリンゴがスーパーの商品であるからかもしれないし、単純に自分が食べたいからかもしれない。

この場合、因果関係はより複雑であり「理由」に付随する事象と因果が事象そのものを見る限りでは不可知である。(命令者の「意図」。命令者の命令者もいる「かもしれない」。)

思念、意味による因果関係は人間社会においてより重要である。自然科学には「意味」の概念はない。人間社会を論ずるとき、「意味」とさらに「解釈」の多様性が前提にある。その個体差により総体としてカオスになり、社会に対する因果関係を確実に証明するのは「運良く」一致しない限り不可能であり、確率の問題でしかない。

この宇宙が生まれたことは全ての因果として確実であっても有意義なことをなにひとつ言っていない可能性がある。

「我思う故に我あり」ですら、「我」の存在そのものの因果をたどるなら、その理由は1つではない。ということがある意味「無知を知る」ということでもある。

が、論理の中には論理しかない。論理の中に偶然はない。

意味に限界を持たせること。つまりプラグマティックに意味を使用すること。

哲学的な空論に聞こえるかもしれないが、これには重要な価値がある。議論でもなんでも、自分の主張がどれだけのたしからしさを持っているか、ということを確かめるツールになるから。

結局これは日常的な言語使用の感覚に戻っている。しかし、こう考えることができなければ「本当にそうなのか?」という問いに対して「適切に」返答することはできない。直感の素晴らしさは意味と世界にどうしても不確実性が存在するゆえにあるし、同時に計算機が有用な理由も示す。もしあらゆる真実を確実に出力する仕組みがあったとすれば、直感は下位互換の存在になるからである。

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