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人間の気質

 ※当たり前の話だけど、人(個人)が社会を作るわけであって、社会が人を作る様なマインドの方向性だと、抑圧ばかり生み、その結果、人のマインドが後ろ向きになり、結局世の中に悲しみが増えてしまうだろう。という原理的な話を、今から僕はするので、是非、悪い意味での個人主義的で、冷たく突き放した思想の持ち主だと思わないで読んで下さい。

※自己紹介兼ねてます。

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 底辺のような生い立ちと家庭環境で、誰かに助けてもらうこともなかったけど、自分は社会に対して不満を持ったことがないし、人間が好き。

 子供の頃、金持ちやイケメンがいても、素直にすげぇ、美しい、って思うだけだっだし、もしもなんか嫌なことをされても、笑いにして返すだけだった。それは自分の気質によるもの。別に教育の賜物でも、社会制度のおかげでもない。もう一度言うけど、生い立ちはゴミクズ以下。

 だけど同時に、社会に不満を持っているほとんどの人達には、帰る家や、最低限人間の扱いをしてくれる家族や、最低限の生活環境などが用意されているのを知っていたから、この現象だけは幼いながらに解せなかった。

 だからそこから色々と考え始めた。小学校のとき。自分の中の哲学は、こういったところにある疑問から始まった。幸せとはなんなのか、何にみんな怒っているんだろうって。

 恵まれないなりに、子供の頃は楽しみを見つけるので精一杯だったから、どんなに現実が厳しくても、人を憎む暇なんて無かったし、恵まれないなりに毎日が楽しかった。それも単純に自分の気質のおかげ。

 だけど同時に、同じ環境で育ったら、不満ばかりで若くして腐ってしまう人もいるだろう。犯罪者になる人も。それも気質のせい。

 少なくとも自分は、元総理を射殺しようとも思わない。彼なんて、俺から見たら温室育ちだけど。
 むしろ自分は、あれだけ放任された人が羨ましい。うちの親もどっかの宗教に入ってくれてれば、俺に気を向けなくて済んだのかもしれない。なんて思ったりはするけど。

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 そこにあるのは人間の気質でしかなく、環境や社会構造の問題ではない。

 せいぜい身内とか、同級生とか、そこら辺の人達との関わりの中で生じた何かしらの劣等感や怨恨だったり、本当は気づいている自分の才能の無さとか、若しくは、親から褒められたいとか、女子からモテたい!みたいな感情が、思想の形成に関係しているに過ぎないのに、1人の人間の成り立ちを、あたかも社会全体の制度や構造によってもたらされた問題かのように仕立て始め、一生かけて自分以外の中から原因(言い訳)を探し始める。

 問題と向き合い解決に向かうのは必要な作業だけど、自分の中にある問題を、社会の中から探して見つかるはずがないのに。

 悔しさとか憎しみとか、そういった感情も、素敵なものを作り上げるためのものとしては、糞の役にも立たないんだけれど、そういう人達の劣等感は、同類でコミュニティを作り上げるための原動力としては強力だから、結果的にそういう人達が、情報を発信する文化系社会の上の方に上り詰めてしまった残念な現実も僕は感じている。世論とマスコミの認識の極端なズレなんかも、そこら辺から来るのだろう。

 だから正義の皮を被った、争いや対立、不平不満や悲しみばかり生む、押し付けがましい思想で蔓延した世の中の空気になってしまったのだと自分は思っている。

 胸に手を当てるだけでわかる答えを、なぜか一生かけて、全人類を巻き込みながら、他人の人生や教科書の中から探し出そうとする。幸せとはなんなのかみたいな話を、なぜか自分以外に求めようとする。

 目の前で転んでいる人に、手を差し伸べるだけの当たり前の行為に、例えば人のために生きなさい!とか、いちいち思想まで絡ませてくるような人達の恩着せがましさや、人と人とが関わり合って生きていることなんて、考えなくても目に見えて明らかな事実だったのに、それをわざわざ、例えば人文社会学的に形式化して、どの考えが正しいかを決めなければ気のすまない人達が、正義を振り翳し悪を定義してゆく。

 猫や友達と遊んで、風が気持ちよくて、花が咲いているだけで嬉しかった毎日に、そんな意識の低い生き方でいいのか!世の中には困っている人だっているんだぞ!と、コンプレックスの塊の人たちが踏み込んできて踏み散らかしてゆく。

 既に現代思想に毒されている人達には、それらの独善すら、最もらしい意見に聞こえるかもだけど、他人の人生の中で正義を振り回す人達が、人を追い詰め、悲しみを生み出し、救う手も回らない程の社会にしてしまったのだ。というのが、僕の考えのベースです。だから今幸せな人は、今の幸せを噛み締めているだけで、皆んなの幸せに繋がるから、是非安心してずっと幸せでいてください。

 自分もスタジオを作り始めた頃、そんな金があれば他になんたらかんたらと、知識も無いのに自惚れるなと、延々と説教してくる人達は割と沢山いたし、出来上がったら出来上がったで、環境があって甘えて生きられるからだと、何も知らない人達が、次から次へと僕の人生のシナリオを作ってきた(そもそも片親だし親に甘えたことも無いし、育ててもらったこともごく幼少期を除いて無い。何なら母乳も生まれた瞬間吐き捨てている、ノンフィクション。注...甘えることが悪いと言っているわけではないからね)。だけど自分は、他に自分の様なことをしている人がいても、絶対に叩くような真似はしないし、嫌いな奴でも取り敢えず応援はする。せこい人間にはなりたくない。それも人間の気質によるもの。環境や社会構造は関係ない。

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 好きだから好き、助けたいから助けたい、一緒にいたいから一緒にいたい、友達は友達だから友達なのに、それくらい揺るぎのない自分の感情に対する答えにまで理由を探し始めたせいで、答えを自分の気持ち以外に求めるような世の中のマインドが作られていったのだと思う。このわけのわからない錯覚から、人類はいつになったら抜け出せるのだろうか。

 確かに、生まれや育ちは自己責任ではないけれど、今そこに存在してしまった以上、今目の前にある現実と向き合っていくしかなことに変わりは無いのだから、やはりそこから先に、どのような道を選択して生きて行くのかは、自己責任でしかない。同じ状況でも、ありとあらゆる選択をする人間がいる以上。

 自分は子どもの頃、どんなに親に酷いことをされても、絶対に親のことを悪く言わないどころか、親のガチなおかしさを、可笑しさに変えてやる努力をして生きていたせいで、死ぬほど家で辛いのに、誰よりも悩みなんてなさそうなキャラクターで生きていたし、その上で、嫌なことをしてくる人とすら、仲良くなってやろうみたいなバイタリティで満ち溢れていた。(今となってはそれは正解だと思わないけど、当時の試みとして)

 平成バラエティ黄金時代に、家にテレビもなくて、同級生のテレビの会話にも全くついていけなかったから、その分、自分が面白いことをして同級生を笑わせるために、毎日試行錯誤、努力していた。身に降りかかる不幸も全部笑いに変えた。それでも追いつかないほど次から次へと状況は悪くなる一方だったけど、それでも政治や社会のせいにしようとも、人を憎もうとも思わなかった。

 だけどやはり、人生上手くいかない理由はおろか、友達1人できない理由すら、金や育ちや世の中のせいにしたい人もいて、そういう人達が話をややこしくしているのだろうというのが、自分が今まで生きてきて、人を見てきた中で抱いた率直な感想。

 自分の人生と向き合えない、自分と戦えない、好きなものを好きと言って失敗して恥をかく勇気がない、間違いを認めたくない、なのに承認欲求だけは超一流な、往生際の悪い人達の行いが、新たな社会の悲しみを生み出しているというのが真相だと思う。

 人が弱いことは罪では無いけれど、他人のせいにしたり、誰かの足を引っ張ってまで何とかなろうとしている人達を、どうにかしてあげる義理だって社会にはない。そういう人達に手間と時間を割き過ぎているから、本当にどうにもならない人にまで手が回らなくなっているのだと僕は思っている。

 だから社会にできることは、その弱い人達に対し、何者になるわけでもなく、時に志を低く生きることさえも許してあげられるような、懐の深さを見せることだと思う。

 人が人に厳しい様な世の中では、どんなに言っていることが正しくても、人間を幸せにすることは絶対にできない。

 引け目や劣等感を受け入れて、自分とうまく付き合える様な世の中になれば、誰かを責めようとする機会も減るはずだ。

 だから社会病理は社会制度ではなくて、あくまで個人のマインドだと僕は言いたい。もしも社会をどうにかしたいのであれば、自分の力で自分が変わるか、自分で自分の人生を楽しめるようになった結果として、社会に余裕を生んでいくしかない。社会とは結果だ。政治家とか誰か悪者を倒せば問題が解決するのは、映画やテレビゲームの中か、若しくは独裁著しく、国民が飢えて死んでしまう文明レベルの国の話でしかない。そのうちまた話すけど、社会というのはもっと複雑だ。これ以上、個人が自分と向き合わずに社会や政治に全ての責任を丸投げして、最もらしい正義が世の中に増え続ければ、抑圧ばかり生まれ尚更生きづらくなるだけだ。

 もう少し噛み砕いて言えば、良かれと思って社会問題と向き合ったところで、根本的な原因と向き合えていないままでは、状況が良くなるわけないですよね。って話。
 そんなに世の中変えたかったら、それぞれが自分の人生と向き合った方が余程早いだろ、という話をしている。そうすることによって、結果的に社会に余裕が生まれるわけだから。

 人間と人生の数だけ、幸せの答えなんてあるはずなのに、賢く思われたい人達が、どこどこの研究によって幸せとはこういう物であると定義して、それを勝手にあるべき姿かのようにして、それに沿った社会制度が作られてと言った具合に、そう在れない、存りたくない人達のことを、完全に置き去りにしてしまう。

 そうして生まれた悲しみが、更に社会に幸せの答えを求めながら、悲しみのドツボに嵌まっていくんだろう。たぶんそうなった頃には、今自分が何と戦っているのか、何を嘆いているのか、もうわからなくなっているんだろうけれど。(健康管理、政治経済の問題も全て似た様な話なので、それもまた今度)

 今更、自分の人生と向き合いましょう!なんて、掴みどころのない意見のようだけれど、これは揺るぎない幸せの原理だ。

 つまり結論として、自分と向き合うことでしか相手の存在なんて敬えない。

 自分の人生と向き合うのに忙しい人間が、目の前にいる人間のことを、良く知らないって理由だけで傷付けようとするわけがないのだから、人間関係の希薄さ自体も争いの病理ではない。

 にも関わらず、無闇矢鱈に社会は、皆が繋がれば、世界は平和になるみたいな幻想を抱き、世の中が変な方向に向かい続けている。他人の人生ばかりを気にしながら。この誤解は現代における最も大きな問題のひとつだと思う。

 これ以上、自分の存在と向き合えない人達が世界を一つにしようとすれば、その先には、感情さえも完全にコントロールされた、幸せもくそもないような世界しか存在できないと自分は思っている。

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