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教師になりたくなかった私の、恩師だったことがある人との思い出

うちの家系は教師が多い。母も教師をしていたし、母方の祖母も伯母も父方の祖父も伯父に従姉も教壇に立つ仕事をしていた(らしい)。

母は私も教師にしたがっていた。小学生の頃の担任の先生複数人にも、先生になるといい向いていると言われた覚えがある。理由は全くわからないが。私としては、それこそ小学生の頃から答えは決まっていたので、親はまだしもどうして先生からそう見えるのか不思議でならなかった。
「えぇーー無理むり絶対嫌だ無理」
小学生で先生に向いてるとかある?

私は学校というものが嫌いだった。そう良い思い出がない。
最も、思い出になる前から嫌いだったが。クラスメートとうまくいかなかったとか、親がテストの点数にうるさいだとか、そういうこともあったかもしれないが、まあ、有体に言ってハブられたりする前からもう嫌いだった。
何なら幼稚園の頃から幼稚園が嫌いだったみたいなので(覚えてないけど、親が毎朝行きたがらなくて大変だったと言う)、集団に放り込まれるのが嫌だったのかもしれない。仕様がないよね、嫌いなんだもん。

それに、「先生」も好きではなかった。自分が大人になるまで、親親戚以外で最も人生にかかわってくる「先生」という肩書を持った大人を信用していなかった(たった一人の例外はエレクトーンの先生だった)。
たまたま当たりが悪かったのかもしれないし、私が可愛げのない子供だったからなのかもしれない。先生とはいってもただの人間だからね。

でも学生だった当時は、「先生とはいってもただの人間」ということがわからなかった。
この人は私をよく見ていると言いながら評価を下してくるが、大勢いる中でちゃんと見ているわけがないし、理解しているはずもない、と思っていた。
し、今でも思っている。大学の同級生が何人も教師になっているが(幸か不幸か自分で選んだ大学は教員を多く輩出している)、この「同級生」がそのまま「先生」になるんだもんな、と思ったときに、ようやく「ただの人間」という実感を持ったものだった。

かくいう私も一応は教員免許を取得したので、教育実習も経験はした。
めちゃくちゃに大変だったけど、あれは良い経験をさせてもらったと思う。
私の不手際で、実習の時期が大学4年の秋になってしまい、教員採用試験まで受けざるを得なくなったことは遺憾だったがそれも頑張ったし※1。

私は教師になる気がなかったので、つまり大学で教員免許を取る気もなく、そこは母と(電話越しに)大いに戦ったが、最終的に「誰が学費出してるの!」で折れた。それを言われたらお仕舞よ。遠方で一人暮らしまでさせてもらってたわけだし。
一応は妥協点として高校の免許のみにした。それでも取得する単位は多かったが、中高免許は絶対に嫌だった。
小学校は専用学科があるから私の所属する学科では無理、中高か、高校のみの教員免許取得の選択肢があった。
中高だと書道などのさらなる単位取得と教育実習が4週間と長くなるし(高校は2週間でいい)、出身中学に教育実習に行くことが求められた。

出身中学に!一か月も!教育実習で!!考えただけでもおぞましかったので、それだけは嫌だった。
今回書くと長くなりすぎるので詳細はまた別の機会に譲るが、私の中学は当時「市内で一番荒れている中学」だった。いまとなってはどうか知らない。地元も離れているから噂も入ってこないし、四半世紀近くもたっていれば生徒の質も変わっているだろう。
とにかく、当時はそんな荒れ放題な学校だったので、私が嫌がるのも無理はないと母も最終的には納得してくれた。

それで高校に2週間、教育実習に行ったのだが、受け持った生徒たちは予想外に懐いてくれて(高校生なのに!)、可愛くないわけではなかったし、授業をするという大変さも知ったし、担任の「先生」がどういう目線だったかを知ることができたのは人生経験としてよかった。後悔はない。

ただ今日の話は私の唯一の生徒だった子たちとの触れ合いの話ではない。
教育実習の挨拶に、出身高校を訪れたときのことだ。

それまでは、エレクトーンの先生以外にも一人、いわゆる「恩師」という「先生」が私にも一人はいた。
それは中学校の時の部活の顧問の先生で、2年の時には担任も持ってもらった先生だった。当時はその地域ではその先生のおかげでうちの中学は大会でいい成績を残していて、大いにしごかれたものだったが、荒れた中学だった中でなじめない私は部活のために学校に行っていて、授業以外は友人と保健室登校ならぬ職員室登校みたいな形で職員室を避難場所にしていたぐらいだった。
だが、先生は私が中学3年に上がる年、高校の先生になるといって転勤していった。部活はどうなるんだ、私たちは置いて行かれる、と子供だから思ったものだったが、先生の人生だから仕方がないし、せめてと先生の家でお別れ会までした。
ちなみに、部活は吹奏楽部だった。先生の奥さんも音楽の先生で、私と同じ楽器を専門にしていたので、奥さんにもお世話になった。

その先生が、私の出身高校に赴任してきていたのだ。
なんとなく予感はしていた。なぜなら高校の先生になる理由が、私の出身校にゆくゆくは赴任するためだという噂が当時からまことしやかに流れていたからだ。
私の出身の高校は、当時は市内では唯一他科がない普通科の進学校だったし、その上音楽系の部活も強く、音大受験を目指しているような子も集まっていた(後半は自分が進学して知ったことだが)。
私が通っていた当時の音楽の先生がもう高齢だったので、次の音楽の先生として……という噂だった。真相はどうかしらない。公立なんだからそういうことはできないんじゃないかとも思うし、実際教育実習の時には赴任していたんだから、そういうことだったのかもしれない。「大人」の話は知らない。生徒だった子供の妄言以上でも以下でもない。

それはさておき、私はつまりその「先生」にとっては「最後に受け持った中学の」生徒であり、お別れ会をご自宅に招かれてするほど慕っていた生徒の一人であり、奥さんとも面識があったわけで、当然覚えてくれていると思っていた。
まだ二十歳そこそこの大学生だから、子供に毛が生えた程度だよ。
私は何の疑問も持たずに信じ切っていて、のこのこと挨拶に行った。先生お久しぶりです!今度教育実習でお世話になります!
にこにこしている私に、先生は言った。「あれ、誰だっけ」

あの時の先生の顔はそれこそ昨日の話ではないが、忘れられない部類の思い出だ。
ひえーーッ!忘れられてるーーーッ!!ぐらいの反応ができるほど大人じゃなかった。なんなのこの人。ああいや、そりゃあそうだよね。たくさん生徒の面倒みてるもんね。私なんかが私のことを覚えててほしいなんておこがましかった。
あっ無理だわ私。やっぱダメだ。教師。なりたくないし嫌いだ。無理。
あの時、先生になんて返事をしたのかは覚えていない。

教師が全員そうだとは言わないし、この先生、たった一人の問題なのはわかっている。
わかってるよ本当に。
お別れ会でだって、「夏休み(大会前)には1日だけでも、練習の様子を見に行くから」と約束してくれたのに、1日も来てくれなかった。
卒業して高校に入学した夏休み、OBOGで抜き打ち訪問するのが恒例だったから私たちも計画して、後輩たちが練習する音楽室に突撃した時、その先生がたまたま(折悪しく!)居た時のなんとも言えない気持ち。
気まずい沈黙と、せっかく指導に来てくれてるのに私たちが居たら邪魔ですね帰りますとそそくさと退室したときの後味の悪さ。蝉の声。
私たちのときには来てくれなかったのに。これこそが裏切りというのでは?あの人はそういう人なんだ。やっぱり大人なんて信用できない。帰り道、ずっとそう思っていた。
全員テンションが下がってしまい、友達も言葉少なで、来なきゃよかったとまで思った。他の子たちが本当のところどう思っていたかは知らないけど、私たちはもう二度と集まらなかった。

私たちとの約束を果たせなかったのは、先生にとっても環境が変わって一年目で、時間を作るのが難しかったのだろうと思う。余裕なんてなかったのだろうとも思う。予定が合わなかったのかもしれない。でもその時点で信頼はかなり減じてしまっていた。行けなくてごめん、の一言ぐらいあってもよかったろ。

それでも無邪気に存在ぐらいは覚えていてくれているだろうと思っていた。それもむなしい期待だった。
「仕方ないね、人間だから」と、ここ連日noteに書いているように簡単に割り切れなかった。まだ若かったから。

もちろんこの先生の話だけではなくて、そうやって、中学でも高校でも、総合的に出会ってきた「先生」に信頼感がひとつもなかったら、その職業に憧れることはできない。

母にそういうと、「反面教師にすればいいの。自分がこういうことされて嫌だったなと思うことはしない、こうしてほしかったと思うことをすればいい先生になれるから」と言われたが、絶対に無理だと思った。無理だよ。そもそも子供好きじゃないのに。
また、母も祖母も私がこの「存在忘れられ事件」の話をするたびに「普通ならもし生徒のこと忘れていても、生徒が挨拶にきてくれたら「よく来たね!久しぶり!」ぐらいは言うよ。それはその先生の配慮がなさすぎる」と言っていた。私は教師にはならなかったけど、実習時の生徒が万が一覚えていて挨拶にきたら、忘れていても言うよ。「久しぶり!よく私のことわかったね。覚えててくれてうれしいよ」教師かどうかの問題じゃないよね。

もちろん、もともと教師になるつもりがなかったらその「先生」の対応だけが私が教師になろうと思わなくなったきっかけではない。
ひとつのポイントではあったかもしれないが。
長年勤めあげる中で、目が行き届かない子も出てくる。忘れる子も出てくる。それは絶対だ。その時に傷つけない対応ができる自信がなかった。
日々、刻々と変わる他人の人生に「先生」としてかかわることにも。

スポーツでもなんでも、誰かがずば抜けて活躍すると「恩師」が出てきてインタビューに答えている。
それを見るたびにざわざわする。子供の頃からズバ抜けているから覚えていてもらえるのだろうか?この「恩師」は適当に話をしていないだろうか?本当に覚えているのかな。私が覚えてもらえないような子供だったから、覚えてもらえないんだ、そんなことはわかってるけど、部活も顧問、クラスでは担任、転勤の時は家に招いてもらったりまでしたのに「誰だっけ」って言われるなら、どうすれば覚えてもらえるんだ?信じられない。信じたくないな。

ちなみに高校2年のときの担任もまだ居たので、意気消沈しながらも挨拶しに行ったら、「おお!誰だっけー!」とテンション高く言われた。
テンションが高いのは常の先生だったから冗談でもなかったと思う。当時から嫌いな先生だったので、私は彼の授業をボイコットする常連だった。
まあ、だから、たぶん私側に問題もあった。存在感なかっただろうし。
いや、別に高2の担任には覚えていて頂かなくて結構でしたので。大丈夫です。教師運がなかったのかなあ。

ちなみに、その恩師だと思っていたこともかつてはあった音楽の先生を、近年、正月に帰省した折に見かけたことがある。
近年とは言っても、もちろん長距離移動するのに何の制限もない頃で、マスクも必須ではなかった時期だ(とはいえ冬はノロ対策でずっとマスクしていたので当時もマスクをしていた)。
年始だったので往来に人も少なく、声をかけることもできたが、やめた。どうせ覚えてくれていないだろう。わざわざ嫌な気持ちになることもないし、今更また思い出してほしいとも思わなかった。
ただ、私は隣を歩いていた夫(にそのあとなった人)に言った。
「あそこ歩いてるの、中学の部活の顧問だった人」

そういうわけで、私は地元の友達、大人になってから連絡を取ったことがない人が、自分を覚えてくれていると思う自信がない。
覚えてくれていただけで、嬉しいし本当に覚えてくれてる!?と訊き返したくなる(し訊いてるかもしれない)。

自分が覚えてもらえているという自信がある人は、すごいなあと思う。
地元を出たから余計かもしれないけど、私もかなり忘れているから。

そして、教師という職業を選んだ人を尊敬するし、応援している。私には無理だ。

※1……当時(今もかな?)は、夏に教員採用試験の1次筆記試験があった。4年秋の実習に来ているのに(=次年度が就職)、採用試験を受験していないと教員になる気がないとみなされ、実習先の先生方からの扱いが悪くなるということで、採用試験の受験と叶うなら1次試験合格を大学側から勧められた(だから一応1次試験も受けたし頑張って合格した)。

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