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「宗教みたい」は大チャンス

「宗教みたい」そんな言葉を誰もが耳にしたり、言ったりしたことがあるはずだ。TABIPPO学生支部として活動する中で、言われた人もいるのではないかと思う。現にインターネットで検索をしても、「TABIPPO 宗教」という予測変換が出てくる。今回は、通常何かを皮肉ったり、マイナスの意味として捉えられがちな言葉を、別の方向から見てみようと思う。

このnoteは学生支部の人たちに向けて書いたような、そうじゃない人に向けて書いたようなよくわからないnoteだし、人によっては嫌な印象を受けるかもしれない。まあそれも含めて、最後まで読んでみてもらえると...。

「宗教みたい」は褒め言葉⁉︎

「宗教みたい」って言われたとき、どんなことを思うだろうか。

「そうじゃないんだけどな」「どうしてわかってくれないんだろう」「そうう考え方しかできない人なんだ」

いろいろな感情があると思う。一見バラバラなようだけれど、おそらくマイナスの感情であるという点で全て一致している。だが、これは本当にマイナスなのだろうか。私は逆に褒め言葉なんじゃないかと思う。

みなさんは、「宗教」と聞くとどんなことを思い浮かべるだろうか。

キリスト教・イスラム教・ヒンドゥー教・仏教・ジャイナ教・世界史・怪しい・洗脳・危険 yada yada yada...

「宗教」の辞書的な意味は、ここではあまり重要ではないので割愛するが、皆上記のようなことをイメージするのではないだろうか。確かに宗教にはそういった部分が少なからずあるのかもしれない。だがそんなイメージを持つのはきっと、特定の宗教を信じる人が少ない日本に暮らしているからだと思う。

日本で宗教を信仰する人は少数派だと思うが、世界的に見れば、宗教を信仰していない人の方が少数派だ。そもそも宗教というのは、何かしらの魅力があったり、何かしら共感する部分があったり、苦痛から解放してくれると思ったりするから信じる人が生まれ、成立するのだろう。

つまり宗教は、共感者が集まることで成立する。

ここでお気づきの方もいるだろう...

そう、TABIPPOって宗教なんじゃね?と。

確かにこの定義からいけばTABIPPOはある種の宗教なのかもしれない。だが、よく考えてみて欲しい。現代では一般的となった「推し」という言葉。これとなんら変わりのない概念ではなかろうか。

何かしらの魅力があったり、何かしら共感する部分があったり、苦痛から解放してくれる(辛い時でも推しを見たら元気になれるとか)と思ったり。まるっきり一緒じゃないか。

つまり、「宗教」ってう言い方をしているけど、それだけ魅力があることで、共感する人も多いことなんだよねって話。共感する人がいなければそもそも宗教は成立しない。

それと、宗教ってそもそも人のことを救いたい、救わなきゃと思って始まってるものなんだ。「世界をもっと素敵にしたい」っていうTABIPPOのVISIONと何ら変わらない気がする。個人的に。

もちろん、「宗教みたい」って言った人が、そういうつもりで言ってるわけじゃないってのはわかってるし、こじつけじゃないかと思う人がいるかもしれないけど、捉えるのはこっちの勝手だから!相手に迷惑をかける捉え方じゃなければ、都合よく解釈した方が幸せじゃん?

と、これが、「宗教みたい」って褒め言葉なんじゃねーかと思ったお話。

「宗教みたい」は大チャンス

ここからは、さっきよりもちょっとだけ説得力のあるお話。私は思った。「宗教みたい」は大チャンスなんじゃないかって。

理由は至ってシンプル。私たちが旅の魅力を伝えたい相手は、そういう人たちだってこと。

人間は基本的に、変化を恐れる動物だ(と聞いたような気がする)。特に日本人はその感覚が強いのではないだろうか。もちろん人間一人一人違うから、あくまでそんな傾向があるんじゃないのーくらいだけど。

そんな特性がある、人間(日本人)は、「宗教みたい」と言って、新しいもの、今までの自分になかったもの、得体の知れないものを遠ざけようとしているのではないだろうか。そう言って遠ざけておけば、今までの自分が正しいと信じ続けられるし、変化しない、安定した(?)生活が保障されているからだ。

でもそれって本当に幸せなんだろうか。自分の殻に閉じこもって、変化を受け入れようとしない人生。もちろんそれが幸せの形っていう人もいると思うし、否定するつもりは全然ない。ただ、一歩踏み出せば広い世界は広がってるのに、踏み出さないのはもったいないなと、個人的には思う。

そんな傾向がある中で、稀有な存在なのが、TABIPPO学生支部のメンバーだ。学生支部の人たちは、変化をたやすく受け入れるし、自分と異なる考えも否定しない。それはなぜかって?

答えはきっと、旅をしているから。

旅をすることで、自分の中の常識が当たり前でないことに気づいたり、ぶち壊されたりする経験を何度もしているはずだ。つまり、旅を通じて、変化を受容することが「当たり前」になっているんだ。

だから、最初の話に戻ると、「宗教みたい」と言って、変化を跳ね除けている人にほど、旅に行って欲しいってこと。まあ、そもそも旅に行くってことが変化なわけだから、鶏が先か卵が先かみたいな話にはなってしまうけど。

つまり、自分の伝えたことを「宗教みたい」と言われたときこそ、それを本当に伝えたい相手が現れたというチャンスだし、逆に自分が何かに対して「宗教みたい」と言って「はっ」としたら、それは自分が変われる大チャンスってこと。

まとめ

ここで前半の話にも繋がるのだが、よく知りもしないで「宗教=危険、怪しい」みたいな方程式を組み上げちゃっている人が多いんじゃないかと思う。旅に出れば、宗教を信じることが当たり前というか、そういった人たちにたくさん出会うことができるだろうし、そこで出会った人たちに対して、「宗教は危険だ」などとは思わないはずだ。よく知りもしないで決めつけるのは良くないということに気づく経験もするだろう。

宗教は、それ自体が危険なのではなく、「盲信」するから危険なのだ。よく知って、自分が納得した上で、みんな宗教を信仰している。だから、物事をさまざまな方向から見て、正しく捉えられる眼を養おう。もちろんありのままに感じることが大切な場面もたくさんあるけどね。

また新しい話を持ち出して、結局何が言いたいのか。ここまで読んでくれた皆さんならもうお気づきだろう。

そう。この眼を養うのに最適な方法が、旅である。

と、私は思う。

盲信することなかれ。思考を巡らせた上で、共感するのか、しないのか。

さあ、あなたはどう思う?



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