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さよなら青春時代 (本文・上)

なんだか仕組まれたような匂いさえする伝染病が世界的に流行して、何万人もの人々が亡くなっている。ライヴハウスや映画館は光を失い、ひとびとの笑顔はマスクの向こうに消えて、この国の総理大臣は狂っている。


そんな2020年。一種の戦争状態のような、2020年。僕は本厄である。

序文にて記したように、けじめというか纏めというか。大袈裟に言えば青春時代への決別というか。とても私的なことだけど、思いは確りと綴っていかねば先に進めないような気がしたのだ。


愛し抜いた仕事をやめたよ

2003年のことだから、ちょうどボビー・ギレスピーが不惑を迎えた頃からだ。10代の頃から音楽が好きでたまらなかった僕は、CDショップでアルバイトをはじめた。三大外資系CDショップの一翼を担っていたチェーン。丸井に入っていた、あの「V」がつく・・・といえば判る人には判るだろう。

ちょうど初めて恋をした女の子のことが忘れられない様に、僕は未だにあのCDショップのことが忘れられないし、愛している。今でもだ。


働いて3年か4年くらいで社員になって、さらに何店舗かの異動を繰り返す。仕事は楽しかった。ポップを描きまくり、好きなアーティストの新譜の発売日は嬉しくって仕方ない。予算達成は稀。たまに受けるクレーム。でも楽しい仕事。天職だと思っていた。

どこの店舗の社員もそうだったが根っからの音楽好きが集っていて、冷静に数字を見れる人は少なかったように思う。いま思えば、一歩引いてその部分を鍛えておけばよかったなと思っているのだが、正直アルバイトに毛が生えたような存在だったのは否めない。

そんな「V」も大きな転機を迎える。誰もが知るレンタルショップを運営する企業の子会社化。そこからの転落は早かった。最終的に「V」は全店舗が看板を架け替え、日本から消えた。2010年だった。

あの、看板が外されるときの哀しみは筆舌に尽くし難い。

詳しい経緯は本筋から外れるので話さないけど、僕はなんとかCD販売職にしがみついた。天職だと思っていたからだ。しかし2020年現在。CDショップは大都市のチェーン店を除いて激減している。

正直、このタイミングが見切りをつける最良のポイントだったと思っている。妻とは結婚前ですでに付き合っていたけれど、現実的で先を読んだ冷静な思考ができる彼女からは「辞めるべき」とかなり口酸っぱく言われた。その後も定期的に言われるんだけど、どうしても決断できなかった。

仕事が好きだったからだ。

給与は信じられないくらい低かった。いや、たぶん「T」や「H」よりは高い水準だったのだが、それでも年齢のわりにはあり得ないレベルだった。時給換算のアルバイトさんよりも低かったときは本当にへこんだ。やりがい搾取だよね。そんな言葉が何度も脳裏をよぎった。


結局流れ流され、繰り返される日々。

好きじゃないことをもやらなきゃいけなくなった。関わる人間が多くなったこともあり、不得手なマネジメントがさらに苦手になった。失敗も多かった。クレームの量は以前の環境より圧倒的に増えた。


8年が経過した。ひとことで表したが、これが恐ろしい。8年だ。

不惑が迫ってきた。

上がらない給料。下がり続ける売上。この8年間で自分は成長できたのか?いや、そうとは思えない。業界は崩壊寸前だ。このままだと、10年後の自分がどうなっているか?想像に難くない。働くところが無くなる。クビだろう。

すでに結婚して、長女も産まれていた。

でも、好きなことだけやってきたような人間だ。社会のことは、あまり知らない。いい歳してCDを売ることしか知らないヤツに何ができるのだ。

辞めたほうが絶対に良いに決まってる。でも。俺に何ができる。怖かった。精神的にも不安定になり、大きな失敗を犯した。もう潮時かもしれないと思った。これが最後の一押しとなった。

ここにはいられない。環境を変えよう。


無謀な転職活動と呼ばれても

2018年夏、転職活動を始める。慣れないスーツを着て東京中を駆けずり回った。同時期に退職を申し出た。10月の退職が決まった。

不規則な生活をせざるを得ない仕事だったし、人生を家族中心に戻したかった。土日休みの企業を希望。経験のある販売職には応募しない。つまり未経験職ばかりの応募。もちろん給与は前職以上を望む。これが条件。

甘い?まあそう思うでしょうね。でも、いくら厳しくてもこの条件を勝ち取らないと、「今以上の生活」は望めないと思った。


いやあ、本当に決まらなかった。

予想はしていたとはいえ、現実に打ちのめされていく。応募した会社の数は3桁を超えた。意外に3割くらいは一次面接まではいけるのだが、そこでバッサリと斬られる。自分がいかに何もしてこなかったかを思い知らされる。最終面接までもろくに辿り着けない。「あんた何しとったの?」と嘲笑するような面接官もいた。


結局、退職の時点で次の仕事は決まらなかった。

いちばん痛かったのは12月に最終面接まで進んだ教育関連の企業。面接官の語る企業理念が心に響いた。ここで働きたいと思った。でも、最終面接で落とされた。もっと経験のある良い人材がいたのだろう。ここでポッキリと気持ちが折れてしまい、しばらくろくに転職活動を行うことができなかった。

ようやく重い腰をあげた翌年2019年、1月下旬。僕は条件を変えた。

子供のことを考えると、給与アップは絶対条件だ。少しでも上げていく必要があるし、前職以下など絶対に許されない。ただ、経験のある販売職を選択肢に加えた。土日休みは望めないだろう。でも贅沢は言っていられない。諦めも肝心である。


突然決まることもある 

なんとか春までに決めるしかないと思っていた矢先。

活動再開一発目の面接で即採用されてしまった。今、勤めている会社である。しかも面接官は現在の上司で「まじめそうだし、こいつ欲しいと思った」とのことだった。

以前応募して最終面接までいったので「いけるかも」と考えて物流職で応募したのだが、最終的にまったく違う仕事をしている。会社に対してはいろいろと思うこともある。企業体質は昭和っぽく、どうかと思う部分も多い。離職率も高いし。だが、ずっと販売職しかやってこなかった自分にとっては、それこそ名刺の交換の仕方からビジネスマナーまで一から学ばせてもらっている。ひとりで客先に行く。論破されそうになる。なんとか食らいついて冷や汗かきながら切り返す。そんなことの繰り返し。中途採用が多いこともあり、年齢で判断しない。新人は新人。しっかり教育するスタンス。この歳だと叱られることも少なくなるものだが、関係なく、言われるときは言われる。そんな会社である。変に今っぽいスマートな会社よりも合っていたようにも思える。スピーチやプレゼンが上手いと言われる。自分でもあんまり考えていなかったような才を見出されている、そんな状況。

労働条件に関しては前職より確実に改善されたし、休めている。給与面に関しては理想まではもう少し・・であったものの、未経験の中途採用者にはこれ以上は望めまい。あとはここからの努力で上げていくしかないか。

ということで、僕の転職活動は終わりを迎えた。

これは、ズルズルと引きずってしまった青春時代に、遅まきながらもピリオドを打った記録でもある。

痛みは伴ったが、ちゃんと得るものがあったのだ。








最後に僕の宝物を紹介する。

自分が働いたことのない店舗のものだけど「V」の看板の文字のひとつだ。2010年の暮れに渋谷で関係者だけのさよならパーティがあって、そこで貰ったものだ。自分の名前のイニシャルを選んだ。このパーティで人生3度目くらいのDJをさせてもらったのも懐かしい。バカな音楽好きしかいない会社だった。

死ぬまで忘れないと思う。ボケなければ。

※ちなみにトップ画像は新宿本店だけど、ここでは働いたことはなかった。すぐ閉まっちゃったからね。その後、丸井の店舗になり、FOREVER21なんかも入居していたけれど、撤退後は何が入ってるのだろう。

つづく。

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