見出し画像

10/22「女も戦争を担った~昭和の証言」著者で、元、朝日新聞記者 川名紀美さんによるトークイベント インタビュア 武田砂鉄さん 報告レポート

川名さんとの最初の出会いは、2017年秋のことでした。個々セブンというシングルの女性7人が集まって始められた友だち近居グループがあり、拠点であるサロン・プラウド武庫之荘で、講演させていただいた時に、そのメンバーにいらした方が、川名紀美さんでした。

2016年に、私の恩師を描かれた『井村雅代 不屈の魂』を、上梓されていることから、川名紀美さんのお名前だけは、存じ上げていましたが、その時に、初めてお会いしたのでした。

今回のインタビュアーの武田砂鉄さんは、河出書房新社で、本を編集されていた方です。
河出の社長だった若森さんには、父の代からのご縁もあり、良くしていただきました。

武田さんには、本屋に対する深い愛があり、ラジオや、色々な媒体で本をお薦めされる時にも、決してAmazonとはリンクを貼らないという徹底ぶりです。 

40年ぶりに復刊された「女も戦争を担った~昭和の証言」を、拝読した時に、これは、伝えなければならない。と感じ、すぐに河出書房新社に電話し、川名さんにも連絡しました。

その時に知ったのですが、川名さんが以前上梓されていた「アルビノを生きる」というご著書(「白皮症」という1万人から2万人に一人の割合で現れる遺伝性の疾患について書かれたもの)があるのですが、何とこれを出すのに武田砂鉄さんが、大変な尽力をされていたことをお聞きしたのです。

私の中で、井村雅代先生と川名紀美さん、本と本屋を大切に考えて下さる武田砂鉄さんが、つながったのです。とても高揚しました。

今回、武田さんにインタビュアーを、お願いしたのは、その様な経緯があったからです。

版元の河出書房のOBというだけでなく、編集者として書き手の川名さんを熟知されていて、隆祥館にもひんぱんにお越しいただいている、しかもラジオパーソナリティのお仕事で聞き役はお手のものです。

砂鉄さんのインタビューは、まず、川名さんの朝日新聞記者時代のことから聞いていかれました。

男女雇用機会均等法が制定される前の時代です。
当時の、新聞社には、女性用のトイレもなかったという話には、びっくりしました。男女兼用とされた個室に入っていると男性記者がカギをガチャガチャならして「あれ、壊れているな」と言われたそうです。

川名さんはそんな男中心の記者世界で、取材を続けていかれます。

 
本書に連なるきっかけは1980年、この年に、川名さんが、日本の政治と社会の右傾化に、危ういものを感じられたことでした。「戦争とは何か伝えなければならない」敗戦から35年が経過していましたが、まだその体験者は多数、ご存命でした。戦時下をどのように過ごし、戦争とどうかかわったのか、各地を取材で訪ね歩いて実感されたのが、表題です。そして新聞に連載されました。デスクからは断定ではなく、「?」を入れろと告げられたそうです。なので、連載時は「女も戦争を担った?」だったのです。
それが、1982年に、本として発刊されました。刊行時は著者の意向で見事に「?」は削除されていました。

連載時は「女も戦争を担った?」

時が流れて2023年8月、河出書房新社の手により40年以上も前の作品が再び世に出ることになりました。いまの日本は40年前よりもっと危ういと感じていると川名さん。

「ロシアが、ウクライナを侵攻して以来、ロシアの人々の姿が、私には80年あまり前の日本国民に重なって見えます」と話されていました。

第一章の「息子を『売った』母」これは、三國連太郎さんの徴兵退棄のことでした。三國連太郎さんを取材することになった経緯や、インタビューが、6時間にも及んだ話、そして、本人が語った家族制度や出自、天皇制についてのエピソ-ト゛は驚くべき内容でした。
そのあたりは、武田砂鉄さんが、上手く引き出して下さいました。(関心のある方は、隆祥館書店の ※アーカイブ動画をお申込み下さい。)

川名さんは、先述した経緯で「女も戦争を担った」について、「?」がつくことになったという当時の新聞を持って来て下さいました。

そこで、他にも新聞掲載時に変更を求められたことはありますか?という問いが出ました。

「一つだけありました、全部ではなく、表現の問題で、カットすることになった箇所が」

その表現とは、
「遺書」という章の取材で、おじゃました家には、玄関に、「遺書」と、「天皇陛下の額」が飾ってあったのです。帰り際にそれを見た川名さんは、新聞には、最初、「その幸吉さんを戦場へと連れ去った人は、額縁の中で、さっそうと立っていた」という言葉を入れていたのですが、デスクとのやりとりの中で、掲載を見合わせたといいます。
それは、「天皇の戦争責任を問うことにつながる」という理由からだったそうです。
削除された一行、これは、本には見事に復活して書かれていました。

 新聞やテレビでは表現に規制がかかり、本当に自由な表現は本の中にこそ在る。そう信じて選書やイベントをしてきた私としては、間違っていなかったと、とても励まされるエピソードでした。

「おっとり話されているが、ラジカルというか、会社とぶつかりながらも、きちんと主張されて来たのですね。」と武田さん

新聞に掲載された時の反響について聞かれましたが、当時は、バブル経済で、反響は、あまりなかったそうです。

最初に本になった時のお上の反応には、驚くべきことがありました。
愛知県教育委員会で起こったことですが、これについてはぜひ、アーカイブ動画で見ていただけたらと思います。
衝撃の事実で、会場は、驚きの声が響き渡りました。


1978年の有事法制にきな臭さを感じて、1882年に出された本ではありますが、川名さんは、今、どのように感じられていますか?という質問に、
 
「当時とは、比べ物にならないくらいに、毎日、危険なニュースが、飛びこんでくる。例えば、『放送法』について高市早苗さんが総務相のときに、解釈変更を国会答弁し『あまりに酷い場合は、電波を停止します』と仰ったことを、この耳で、はっきり聞きました。
こんなこと言われたら、当然、テレビは、猛反発すると思った。だけど、しない!議論をせずに、決めていくというのが、あまりにも多い。学術会議もそうだった。戦争の時の反省から、政治的中立、権力から距離を離そうということだった。任命拒否されて、拒否された理由もわからない。そのままになっている。これはおかしい。敵基地攻撃、防衛費増額、国会が終わってから、閣議決定で少人数で決めてしまっている」と話されました。
 

第四章の「一太郎やあい」は、戦前の国語の教科書に載った美談ではありますが、川名さんが、取材し検証を進めていくうちに意外な事実が浮かんでくるのです、戦意を高めるために「教育」が果たした役割りが浮き彫りになっていきました。

他にも、国防婦人会幹部として活動することに生きがいを見出した女性たち。取材の時に、彼女らは最初こそ口を閉ざしていたものの、子どもたちを率先して戦地に送ったその活動を生き生きと語ったと言います。

それらから学んだことは、そのような社会になってしまった時には、もう抗えない、ということでした。

最近、教科書にも「政府見解」というものを入れるように指示があったり、教育への政治の介入があからさまになってきています。

今回のイベントには、学校の先生方も沢山お越し下さっていました。私たちが今できることは何なのか?考えさせられるイベントとなりました。

「女も戦争を担った」本とアーカイブ動画の配信をしております。
この機会に、ぜひ、読んでいただきたい一冊です。

川名紀美さん、武田砂鉄さん、ありがとうございました。

お申込みは、下記の隆祥館書店のホームペ-ジをご覧ください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?