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「感じる」と「感じ取る」の違いについて。

人はなにか情報を得たいと意図する時、「感じ取る」になりがちだ。
その場所に狙いを定め、得られるであろうモノを想定し、それを自分で手に入れる。
範囲は狭く、限定的になる。

かつて手技療法のテクニックを学びに行っていた当時のぼくはそうだった。
講師の姿をじっと見て、情報を取りに行く。
そこにあるモノを(ある筈のモノ、あると決めつけているモノ)を感じ取ろう、ゲットしようとしていた。

イールドワークのワークショップ(WS)では、「感じ取る」ことができない。
感じ取ろうとしても、なにもゲットできない。
ゲットできた気にはなるかもしれないが、何かを掴んで握りしめたはずの掌を開くと、何も残っていない。
何度も参加していると、ゲットする気さえ起こらなくなる。
ただ、なにかが自分の中に染み込んでいる。

その場で営まれているのは、「感じ取る」のでなく、「感じる」ことだ。


感じ取る時、視野は狭く、呼吸は浅くなり、身体全体がぎゅっと狭く小さく硬くなる。
狙いを定めてゲットした情報は限定的になってしまい、それをとっかかりに広がる世界にも制限が生まれてしまう。

一方、「感じる」時に視野の制限は生まれない。
空間に身を委ね、調和し、ゆったりとただ居る。
そうして過ごしていると、時になにかが現れることがある。
そこに「感じよう」という意図はなく、言うなれば「気づき」があるだけだ。
世界の現れに制限はなく、めぐり続ける。


「感じ取る」を全面否定しているわけではない。
そういう姿勢が必要な時もある。
(例えばポケモンをゲットする時とか。あれ?違う?)

ただ、自分のことを顧みていると、あまりにも「感じ取る」モードに偏り過ぎていたなぁ。と思う。
音楽を聴く時も「感じ取る」モードだったことに気づいた時は、音の聴こえ方が全然違って驚いた記憶がある。

ぼくに限らず無自覚にゲットモードになっている人が多いのではないだろうか。
どっちが良い悪いではなく、両方を知っていると人生はもっと面白くなる。

自分の居心地の良さを大切にしたところに、「感じる」がある。
そこで見える・聴こえる・触れるモノは、ハダカのあなたを動かす種になるはずだ。


「感じる」を体験できるセッションやってます。
ごきげんラボ



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