「朗読動画を聞き流すならコレにしとけ」と風の便りが届いた

昨日、ドストエフスキー『罪と罰』を聞き流していたが、馬が嬲り殺しにされるシーンに突入したあたりで、なんやら気持ちが悪くなってしまい、視聴を断念した。そうだった。初めに読んだ時もそうだったのだ。見るに堪えない場面が幾つかあるなと感じた記憶が鮮明に思い出された。

「さて、どうしたものかな」

よくよく考えてみれば、ドストエフスキーの気分でも無かったのだろうか、なんだ、僕の第六感も大したことはないな、などと、自嘲の念が入り混じった苦笑を浮かべていたら、突然、風の便りが、届いた。

「太宰治『風の便り』を聞きなさいよ」

誰に言われたわけでもない。それこそ、新たな第六感、とでもいうべきか。そんな心の声を受け取った僕は、迷いなく、且つ、慣れた手際で、その動画に即座に辿り着き、聞き流しモードに入ったのだ。

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結論から述べると、今回の第六感は、ピタリとハマることとなった。

聞き始める当初は、それほど意識してはいなかったのだが、主人公の心境と、今現在の僕の心境とが、面白いくらい、リンクしたような感覚に浸ることが出来た。

これは文学作品に限らず、創作物全般に言えることだと思うのだけど、タイミングがバシッとハマれば、その作品の魅力を本能的に感じ取って、一瞬で好きになってしまう、時間が経っても、色褪せるどころか、思い出補正が入り、エンドレスに、作品を美化、と書くと失礼にあたるが、少なくとも、周りの評価以上に自分は評価しているよ、という現象が起きるものだ。

そんな体験を、今日、得ることが出来た。これは、やろうと思って得られるものではない。重ねて言うが、タイミングが全てなのだ。作品の良し悪し・出来不出来ではコントロールできない。それこそがタイミングの妙なわけだ。

また、主人公の独白シーンだけでなく、主人公に対して叱咤激励をするシーンもまた、僕の心に深く刺さった。なぜなら、言うに及ばず、かもしれないが、僕自身に訴えかけられたようなメッセージの数々に感じられたからだ。

当然と言えば当然だ。だって僕は、主人公とリンクしたような感覚に浸っているのだから。その主人公のことを想って言葉を尽くしているシーンが、ダイレクトに響くというのも、無理はない。

作品をご存知の方はお気付きかと思われるが、僕が「叱咤激励」と形容したメッセージの数々は、言葉だけを切り取れば、なかなかに耳が痛い話が続いたりもする。むしろ「大喝一声」だとか「罵詈雑言」といった四字熟語を当てた方が適しているのではないか、とお考えになる方も、もしかすると、おられるのかもしれない。

だけど、違う。これは、紛れもなく、叱咤激励なのだ。それも、最上の、という枕詞を、つけたくなるほどに。少なくとも、今日の僕には、そう感じられた。

「ダメ出し」が何よりもの「励まし」に聞こえることだってあるのだ。

普段であれば「いちいちうるさいな!そんなこと分かってるよ!」と食い気味に返して、耳を傾けようとしないのに、やけに鎮痛な面持ちで相手の話に耳を傾けているな、と、自らを客観視しながら驚きたくなるようなことがあったりする。

不思議なものだ。そう。これもタイミング。前述したように、内容の良し悪しや出来不出来で決まるものではない。本人の心の在り方次第なのだ。素直な心で聞けるかどうか。否、聴けるかどうか、と書いた方が、正しいだろうか。

自分で言うのもなんだが、今日の僕は、「そんなことわかってるよ!」と、つっけんどんな態度を取るというよりも、「確かにそうだよなぁ・・・」と、神妙な顔つきで、朗読の声に耳を澄ましていたのではないか、と思われる。

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この手の話をすると、決まって感じるのだが、「内容の解説とか、こんなあらすじですよ、みたいなことを一切言ってねえな」と、自身の「独りよがり」な文章に、半ば呆れてしまう。

昔からそうだ。特に、その作品が好きだと感じれば感じるほどそう。前のめりになって入ってしまうため、他人に良さが伝わるような説明が出来なくなるのだ。ゆえに「上手く伝わらない!伝えられない!」というモヤモヤに襲われて、一人、自己嫌悪の念に駆られるなんてことも、数多く経験してきた。

だけど、今は、ちょっと違う。「開き直った」と言うべきか「諦めた」と言うべきか、どういう言葉を当てるべきかは、まだよく、分かっていないのだけど。

なんていうのか。「熱量」を感じ取ってもらえれば、それで良いじゃん、みたいな、のほほんさが、持てるようになってきたように思われる。

そもそも論として、僕は、文学に精通した人間ではない。そこらへんに居る、なんの変哲もない、アラサー男子だ。であるにもかかわらず、有識者ぶって「この作品の素晴らしいと思うポイントは・・・」などと、かしこまった態度で書き記すのも、甚だ馬鹿らしいじゃないか。

その手の論評は、それこそネットで探せば、幾らでも見つかるだろう。もっと言うと、論文を当たれば、その界隈では名の知れた人物が、膨大な研究を携えて、詳説しているケースもある。正直に打ち明ければ「お前はそんな土俵に入って何がしたいんだ?」という、自らを嘲笑してしまう気持ちも、無いといえば嘘になるだろう。

だからこそ、だ。
感じたままに書き記す。
想ったままに書き記す。

正直者でありたい。

「風の便り」が届いて「太宰治『風の便り』」に触れたおかげで、そんな気持ち、僕の心深くに沈んでいたポエマー精神を、思い起こさせてくれた気がする。

西村俊彦さん、素敵な動画を、どうもありがとう。

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