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フィルター | カントのコペルニクス的転回に出会って「認識」という語彙の使用頻度が増した


※唐突にTwitterの引用から始まりましたが、今日から「140文字で要約した文章を載せてわしかつめらしい顔をしながら、それを長ったらしく論述する」っていうやり方で書き進めて行こうと思います。どうぞよしなに。

僕は判官贔屓のきらいがある。

どれぐらい判官贔屓の精神があるかと言うと、平氏打倒のヒーローとなった源義経が悲しい最期を迎えることになった顛末を知って

「俺、源義経、好きだ・・・!」

って、一人で盛り上がった後に、源義経の非業の死が語源となって「判官贔屓」という言葉が生まれたんですよ、と知ったぐらいには、判官贔屓だ。

なんか、上手いこと言おうとしたけど失敗しました、みたいな空気感が漂っている気がするので、ココは区切り線で誤魔化してしまおう。


判官贔屓の気質がある僕としては、

・書店ランキング1位の書籍
・好感度ランキング1位の芸能人
・アニメやマンガの主人公(ヒロイン)
・再生数1位の動画
・etc

・・・といったように、

▶︎「皆様から人気を博しています!」
▶︎おかげさまで大好評をいただいています!」

なんて言われると、それだけで「あ、そうなんですか」とトーンダウンしてしまう癖がある。これはおそらく悪癖。

むしろ、

▶︎「自分の勉強がてら情報発信というテイをとってるだけで、本来、他人様にお見せできるような出来栄えじゃないんですよ〜・・・」

こんな感じで、おそるおそる目の前に出されると「いやいや、そうはおっしゃいますけど、ココなんて良く出来てるじゃないですか」とフォローを入れたくなる癖がある。これはどうだろう。ケースバイケースだけど、悪癖とまでは言えないか。


「なんでそう感じるんだろう?」

今回はココにスポットライトを当てて考察を深めてみようか。

まず考えられるのは、

▶︎「みんなが既に知ってるんだったら俺の出る幕じゃないな」

これは間違いなくありそう。例えば、ドラゴンボールなんてそうだ。気付いた時にはクラスメイトの大半は知っていて、そのほとんどが大好きだった。子どもながらに「じゃあ今更入っても遅いな」と感じて、作品の出来不出来を知る前に、僕はドラゴンボールにまつわる情報を一才合切シャットアウトした。

俗に言う「逆張り思考」は僕も持ち合わせているのかもしれない。それと関連するかは分からないけれど、自身のことを「天邪鬼」とか「捻くれ者」などと頻繁に呼んでいた覚えはある。僕の記憶では、小学生の頃から、そんなことを言っていた。

例えば、阪神タイガース。僕は兵庫県生まれ兵庫県育ち。ゆえに、プロ野球チームを応援するとなると、ほぼ自動的に阪神タイガースファンになる環境が出来上がっていた。ましてや、我が家は父親がタイガースファン。英才教育を施されて、僕もタイガースを応援する流れが出来ていた。それに僕は反旗を翻したわけだ。

それはなぜか。やっぱり「関西に生まれ育ったのならばタイガースを応援しよう!」っていうふうに、価値観の押し付けがなされるのが、僕は我慢ならなかったのだと思う。そこにプラスして「他の人と被りたくない」という、子どもらしい茶目っ気、レアキャラ感を持ちたかった。そんなのもあったのだろう。おそらく。

ウン。

確かに「他の人と被りたくない」という想いは、言えてるのかもしれない。その感覚は、今も昔も持っている気がする。「没個性」を極端に恐れるところがある。それと同時に「没個性的な人」を低く見る傾向もある。これは悪癖だな。そんなの余計なお世話だよって、自分で自分に言い聞かせておこう。


「他に何か思い当たることはありますか?」

うーん。そうだなあ。あと、出てきていないことで言えば「せめて俺ぐらいは取り上げてやらんとあかんやろ!」って観念も、人並み以上に持っている気がするな。

そうだね。これこそ「THE・判官贔屓」って感じだね。動画で例えるなら、大半の人が「再生数:多い順」で検索をかけるところ、僕は「再生数:少ない順」で検索をかけたりする。これはマジョリティかマイノリティかでいうならば、おそらくマイノリティに属するだろう。

今の時代、誰もが情報発信を出来る時代。再生数やフォロワー数だけでは、コンテンツの出来不出来は判断出来ない。事実、数字自体は伸びていなくても、自分の琴線に触れる作品に出会えることだって、沢山ある。

ただし。

▶︎「再生数やフォロワー数がやたらと伸びているから『お呼びじゃない』と思って早々と立ち去る」

そんな行動が癖付いているならば要注意だ。情報を正しく認識出来なくなっている。「一番数字が伸びている=一番優れた情報」と捉えるのも短絡的だが「数字が伸びている=自分にとって不要な情報」と捉えるのもまた短絡的だ。

僕の場合、後者の行動を無意識的に取っているところがある。うーん。なんでなんだろう。「布教欲求が刺激されない」のもありそうだな。

例えば、実況動画で言うならば、

▶︎「こんな実況プレイヤー見つけました!」

そうやって、僕の「推しメン」をデデーンと発信したい。でも、既に一定の地位を確立しているインフルエンサーだと、それが叶わない。ていうかそもそも、伸びている時点で、自分とは遠い存在のようにも思える。あと、周りを囲っているような、いわゆる「信者」が気になってしまう。

そんな諸々の理由から、10万再生以上されていたりする実況動画は、数字だけ見て「どうせ僕の好みじゃない」と弾いていたりする。これは良くない。せめて一度視聴してから判断するのが筋じゃないか。

というのか、僕ぐらい拗らせてくると、1万再生ぐらいでも「ヘビーリスナーが既についてるってことだろうな・・・」って敬遠していたりする。そんなことを言い出したらキリがない。1000再生でも、おそらく見ようとは思わないはずだ。

それぐらい、僕の場合は、新規から入るハードルが、どえらいぐらいに高い。一度入っちゃえば、そこに居心地良さを感じて、半永久的に応援していたりするんだけどね。熱量を問わなければ。


なるほど、なるほど。
大体、考えていることは分かった。

「なぜ判官贔屓の性質を持っているのか?」について、そこまで掘り下げられたのならば、自分の認識のクセを矯正するような策も、ある程度は思いついているのだろう?

・・・。

・・・・・・。

「矯正する気は毛頭ない(キッパリ)」

ツイート文でも示したように「知名度や人気といったフィルターに振り回されたくない」と言ってるのであって「フィルターがかかって認識している事実」それ自体は否定していない。

▶︎「ああ、今の俺は、書店ランキング1位の書籍を読んでいるから、どこかへそ曲がりの態度で、文章を目で追っているのかもしれないなあ」

そんな自分を、もう一人の自分が冷静に見つめている状況を作れているのならば、別に問題ナシ。そう考えているわけだ。

・・・とまあ、長々と語ってきたくせに、問題が何も進展しない、そんな「不毛な議論」は、これにて終了。

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