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2022/12/20(火)自分・烏合の衆・野村克也

【一つ残さずゴミを取り除きたい】

夢の中の僕は掃除をしていた。一人で黙々と。強く印象に残っているのは「細かなゴミが一つでも残っていたら煩わしい・・・」というフラストレーションだ。

それをもう一人の僕(あるいは夢から目覚めた後の僕)は、僕自身の行動に対して「ちょっとやり過ぎなんじゃないか」と、一歩引いたところから眺めている感覚があった。

「来た時よりも綺麗にしましょう」なんて謳い文句があったりもするが、何事も、やり過ぎるのは良くない。誤解を恐れず言えば「話半分」ぐらいで聞き流すこともまた大切だ。現代の言葉に置き換えるなら「スルースキル」が妥当か。

「理想は目指すことに価値があるよね」と、良い意味で聞き流す。「来た時よりも綺麗にするぐらいの心掛けを持たないとね」と思いながら清掃業務に励む。「〜しなければならない」と追い込み過ぎると、何事も、長続きしないものである。


【靴が片方ずつしか無い】

清掃場所が靴箱にうつったのだが「靴が片方ずつしか無くて履き揃えられない・・・」と、苦悶の表情を浮かべている自分が居た。

どうやら、デザインは同じものであるが、並べてみると、左足のものが二つ、あるいは、右足のものが二つ、などという風に、上手く揃わない問題に気付いたみたいだ。

「これじゃあ履けない・・・」と、何度試しても結果が変わらないことを分かりながらも、靴の向きを変えたり、靴の位置を逆にしたりと、無駄な作業を繰り返していた。

いわゆる「徒労」に終わることほど、身も心も疲弊させるものはない。

「有終の美」という言葉があるように、途中過程で、どんな苦難や困難があったとしても、最後、これまでの努力が報われような幸運に巡り会えたら「今までやってきて良かった」と思える。

そんな心持ちになると、不思議なことに、身も心も晴れやか・軽やかになったりするものだ。

「フルマラソンは35キロ地点が一番しんどい」と言われるように、終わりが見えない辛さに苦しめられることは、人間、往々にしてある。それと似たようなものだろう。


【巧遅は拙速に如かず】

隅々まで掃除が行き届かないと気が済まない性分に加えて、靴が揃えられない事態にまで直面したことで、僕の清掃業務は、他の人と比べた時に、かなり遅れをとっていた。

そして、掃除を済ませた僕以外の者は、まだ掃除が終わらない僕に対して「お前は『巧遅は拙速に如かず』という言葉も知らないのか」と、なじってきた。

無論、僕は、その言葉は存じていた。ただ、状況が状況なだけに、言い返すことが出来ずに居た。甘んじて受け入れる他はなかった。

「そもそも、清掃業務を依頼してきた人は、そこまでの『質』を僕に求めていなかったのかもしれない。だったら、僕が間違えていたわけだ。彼らの言う通りなんだ・・・」

そんな感情に打ちひしがれながら、僕は、一向に履き揃うことのない靴から手を離し、ふらふらとした足取りで、掃除場所を後にした。


【掃き清める ↔︎ 心を清める】

依然、モヤモヤした気持ちが拭い切れない僕のもとに、突然、野村克也氏が現れた。

何が起きたのか状況を把握することすら出来ない僕に対して、ややぶっきらぼうな口調で、こう言い放った。

「掃き清めるということは心を清めるということにも繋がってくる。お前のやり方には見直すべき点があるかもしれないが、全てのことを自己否定する必要は無い。要領良く生きることが常に正しいともまた限らないのだからな」

・・・そんな言葉を投げ掛けてくれたと同時に、僕は、夢から覚めた。


【おわりに】

〈自分の言動を振り返るキッカケ〉

「目に見える結果を出したいという気持ちが先行し過ぎるあまり、瑣末なことが気になったり、人の些細な言動に目くじらを立てたりするなど、あまり良くない方向に向かっていたかもしれない・・・」

自分に内省の機会を与えるために見させてくれた夢だったんじゃないかと思えた。

「巧遅は拙速に如かず」という言葉も、日頃、僕が念頭に置いているテーマだ。

「相手から求められた以上のものを出してやろう」と心掛けるのは殊勝なことではあるが、良かれと思ってやった結果、「仕事が遅い人間だな」と評価されては、本末転倒だ。

「速くて出来が良い」のが理想なのは言うまでもないが、当然、物事には限界がつきもの。

「満足な出来ではないが期限内に出した」
「期限は過ぎたが満足な出来だった」

「両者を選択するとなったらどちらが良いのか」と問われれば、これは間違いなく前者である。

なぜなら「期限は誰の目から見ても揺れ動かないが、出来不出来には主観がつきまとう」からだ。

自分は100点と自己採点したとしても、自分以外の人が全員、100点と評価してくれるとは限らない。

また、自分は60点と自己採点したとしても、他の人にとっては100点と評価してくれることもまた、起き得る。

そのことが分かってくれば「最善の行動を取った結果『それなり』で終えるのは致し方ない」と、良い意味での諦め、みたいな選択も取れるようになってくるはずだ。


〈救いの言葉〉

自分を戒めるだけで終わらず、最後、野村克也氏の言葉を賜ることが出来たところに、今回の夢の素晴らしさがあると感じられた。

「自分を律する」ことが自己成長に繋がることは言うまでもないだろうが「律し過ぎる」のも、それはそれで、マイナスが生じてくるもの。

「良いところは伸ばしていって、悪いところは正していく」と書いてしまうと、何とも陳腐な表現にはなってしまうが、人生とは、そんなことの繰り返しだ。

順風満帆な成長曲線を描く人なんて誰一人居ない。個人差はあれど、大小はあれど、みんな等しく、壁にぶつかって、乗り越えて、また新たな壁にぶつかって、乗り越えて、それを経ていく中で、少しずつ、成熟していくものだ。

そういう意味で言うと、今回は、夢を見るというカタチで、壁の存在に気付かせてもらった。

そして、野村克也氏の言葉から「新たな壁に気付けたということは、その壁を乗り越えるだけの自分になれたということでもあるんだよ」と励まさせてもらった。

夢の中では感謝の言葉を直接伝えることは叶わなかったけど、壁を乗り越えるという行動を通じて、感謝に代えさせてもらおう、と思った次第である。

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