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地球市民のためのエコロジーとスピリチュアリティ

東洋哲学的な文系教養の授業である本講義、学んだことで共通して言えるのは、自分の根源的な欲求や自分の本質のようなものすごくInternalな存在に耳を傾け、それでいてその自分をexternalに観察することの大切さである。

Internalな欲求ドリブンでは、何かうまくいっていない時に立ち止まったり場合によっては精神に大きな負荷がかかってしまい、一方でexternalに自分を俯瞰・達観しすぎるとそれはそれで自分という存在の小ささに呆れ人生に無関心になってしまうかもしれない。内面の自分を信じて動くが、外側からの視点は決して忘れない、本講義で学んだ気づきは自分の人生が行き止まった時に自分を手助けしてくれるのだと思う
 
そしてそれを踏まえて自分は何を考えたのか、
まず本講義のテーマ「地球市民」であるとはそもそも何なのか考えてみたい。
よく「地球に優しく」といった言葉を聞くが、中心から縦軸に地球をとったら人類が使っている地球はせいぜい表層の0.1%にも満たないだろうし地球内部のほとんどは生命が一切存在し得ないようなまっさらな空間である。もしかすると地球そのものは人類が表面で行っている大虐殺や環境破壊に一切の興味は無く、地球から見たら人間による破壊など取るに足らない物なのかもしれない。

そして、我々はその0.1%に固執する。いや固執せざるを得ない。そして人類以外の大多数の生物もその0.1%の中に生を営んでいる。有機物がそうでなかった時代から、物質的な何かが増えることと減ることを繰り返して今の私たちがいて、それを囲む生態系がある。この増減は絶妙なバランスで推移しており時たま大きく増え、大きく数を減らし、地球の表面を構成してきた。
「地球市民」は本来この0.1%のバランスを構成するすべての構成員であるべきだと思う
しかし、地球が46億歳になった時に誕生した「地球市民・人類」はみるみるうちに文明を獲得し、”自然”によって構成されていた「増減のタクト」を”人工的に”担い、パワーバランスを構成するようになった。家畜や養殖などで一部の動物や丈夫で発育のいい雑木林などは増え、そうでない生物は減少の一途を辿っている。これまでどの生物も不可侵だった地球表面を人類や最早デザインする立場にあり、暫く人類はこの「指揮棒」を手放すことはないだろう

もちろんこれが自然淘汰の一環であるという意見も分かる、というか地球から見たら人類のやっていることなど大きな問題ではないし46億年間行われ続けてきた表面のいざこざの一つなのだろう。自然淘汰の中で生じた人類が、“人工的な”自然淘汰を行うことも地球としては織り込み済みだろうし、その結果がhuman natureにより生じるものならばそれも仕方ないのだろう、なぜならそれは自然が生み出したものなのだから

それなら私たちはこのままの「地球市民」でいていいのだろうか?
―いずれ種としては滅びてしまう人類として終末時計の時間をいたずらに早め、人類がさった後近いうちに始まる原始的な生物の増減に地球の表面を委ねてしまうのも一つの手であろう。時間を無限大に取れば人類は間違いなく滅びるのだしそもそも地球だって存在しない。
ただ個人的なわがままを言うと地球にはできる限り持続可能でいて欲しいし、(私にとって)住み良い環境であってほしい。私が「地球に生きている」と感じるのはこのようにファミレスでPCを使いながらレポートを書いたり高層ビルで青白いライトを浴びながら仕事に追われる時ではない、木漏れ日を浴びながらゆったりと地球のエネルギーを感じる時であり、波打ち際でヤドカリなどを観察しながら寄せては返す白い波の音を聞く時である
もしかしたら、数十年後バーチャルリアリティがこの体験は与えてくれるのかも知れないし、人類を感動させる風景を場所を問わず提供できるのかも知れない。しかし我がままで古い人間である自分はその場に立ちたいと思うだろうし、その風景や自然を残したいと思う。

本講義のタイトルである「地球市民のためのエコロジーとスピリチュアリティ」とはこのわがままのことを指すのかも知れない

どのような策を講じても最早修正不可能なところにある人類と地球との関係性、環境保護のためのどんな努力も、逆に人という種を根絶しうる「核兵器」の開発なども結果的には人類の終焉という結果を迎える。
ただその長いかも短いかも分からない、地球市民である我々に残された時間をありがたく享受したいと私は考える
子孫のためとか人類のためとか、生態系のためとかそういったおおそれたものではない、自分が「地球市民」らしく暮らすために、どうかその間だけでも今の生態系や大切な風景が守られればいい、その程度の個人的な欲求である。年収とか、社会的ステータスとか、そういった人間社会に必要なことを追い求めることも重要だし多分自分はそっちの競争も今後戦っていくのだろう、社会からの評価がガラリと変わるこっちの競争も自分は嫌いではないしある種人間的な欲求はこの辺に帰着するように思える。
ただ一方で「地球市民」としての自分は、イタリア地中海の綺麗な海を横目に昼からワインを飲み、シエスタをとり、星空を眺めながら何も考えずに眠りにつきたいし、ほとんど人のいない島の海岸で潮風に吹かれながらぼーっとしていたいのだ。
この非常に個人的で全体主義的でない欲求は最早フェチズムかも知れないし、この我がままを他人に押し付けるのも自分の傲慢である。
でももし人類皆がこの我がままをシェアできたら地球の表面は幾分か良くなるのではないだろうか?、そんなことも一方で思う。誰かが失いたくない風景や空間を意固地になって守ったり、何となくかわいくて好きな動物が生き残れるために山や河川をそのままにしたり、「地球市民」による個人的な欲求に耳を傾けたその世界は誰かにとって過ごしやすい場所になるのだと思う。
開発や森林破壊を止めるではなく、誰かが何と無く好きな場所をみんなでなんとなく大切にする。授業で紹介されたような考え方や生き方は大層な大義を掲げるのには不十分であるが、みんながなんとなく地球を大切にし、人を思いやり、そして自分と環境の関係性を知るようなきっかけとしては最適なように思える。
100年後、1000年後の議論をするのではなく、「今」の地球の表面をとりあえず守ってみる、そして少しだけ責任を持ってその大切さを周りに主張してみる。

そう、2023年戦い疲れた我々は主張する必要があるのだと思う、「0.1%の奇跡」を守るために

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