反復についての覚書 -新しい秩序に向かって-

 いつも同じ時間にジャイアントコーンガーリックペッパー味二袋とゆずレモンサイダーをレジ袋付きで買いに行くセブンイレブンがあるのだが、ついに店員に「レジ袋入りますか。」と聞かれなくなった。もうそういう客なのだと習慣の中で認識し、私と彼との間が無意識のうちに関係づけられているのだろう。いや。それよりもっと前から「あ、いつものジャイアントコーンとゆずレモンサイダーの客だ。」と揶揄されていたかもしれない。それは、本来質的な時間であったものが、量的時間の反復へと緩やかに移行していると言えるだろう。しかし、次それで私が全く別の行動を彼にとった時、まさにそこで彼と私の身体は全く別のものに変身するのである。
 アンリ・ベルクソンによれば、生命はそれぞれ個別的な質的持続として存在するという。質的というのは、数的に予測できない、一望不可能なものをいう。確かに、生命は「本来」決定的な目的によって行動が規定されうるものではなく、次どういった行動を移すか、またどのような判断を下すかは生命自身がその都度決定していく。それは想定どおりの場合もあればそれを裏切る場合もあるだろう。こうした生命の質的持続はそれぞれ個別的であり、それぞれの時間はすべて異なっている。一方で我々は、質的な諸要素を制限し、自身を量的な存在へと当てはめることをしばしば欲望する。アイデンティティの確立や自身をカテゴライズすることがそれに当てはまるだろう。私はどんな人物で何になりたいか、私はどの様に見られたいのか、そういった意識や欲望は自身を一望可能な範囲へと置き換えることである。それらは自身の中にある無数の諸要素を統合することによって形作られるだろう。習慣化するとは、まさに同じ物事やイメージを反復することによって自身の要素を取捨選択し、限定させることで、自身を一望可能なものとして位置付ける(空間化する)ことである。よって量的なものとは理解を促し、質的なものは理解不能を突きつける。我々の身体はこうした質的な性質と量的な性質の衝突によって絶えず生成変化している。それはどういうことか、順を追ってみていこう。
 まず、我々の身体は統合することを前提としておらず離散的かつ複数的なものとして共存している。それらは全てが個別的であり、互いに共通性を含みあいながらも個別性を保ったまま結び合うことである形(自己)を形作ってゆく。例えば親である自己と仕事の上司である自己、息子/娘である自己など、同じ人間でありながら、我々はその状況や環境に合わせて多様に自分自身を変身させる。それぞれの自己は、外的環境の影響や、現働化している自身の経験や感情の蓄積によって生まれる記憶や肉体の反応、及びそれらの相互作用によって作り出される身体を、結んだり切り離したりする事で形作られる。それは一つの結びつきに固定化されるのではなく、極めて可塑的に変化可能である。また、形作られた自己も、一過性のものではなく別々のものとして共存、あるいは潜在するだろう。
 質的な性質と量的な性質の衝突による生成変化とは、こうした自己の形成に向けた身体の可塑的な変化のプロセスそのものである。身体はまず離散的に存在するが、離散的なままでは生きていくことができない。故に我々の身体は自己の形成を図るのだが、決してそのような統合や秩序に回収されるわけではない。我々の身体とは離散的でありながら同時に統合を求めるような運動体なのである。習慣化することによって、自身の行動や性質を統合しながらも、我々はいつでもそれを裏切ることができる。この裏切りこそが生成変化の契機となる。このような切断は、決して個人の身体に止まるものではなく、それは世界の生成にまで拡張され得るだろう。例えば四季の移ろいや、昼夜の転換など、普遍的とも思われるような反復する時間に我々の身体は影響をうけると同時に、そこへ質的で個別的な時間が流れ込む事によって量的な時間と思われる反復にズレが生じる。このズレと身体の裏切りは同じ構造であるといえるが、絶えずずれ続けるだけ、あるいは裏切り続けるだけではただ破綻の一途を辿るだけである。我々はズレ続け破綻しながらも同時に秩序を目指し続けるのであり、また、このズレの中で秩序を目指そうとする力の働きそのものによって時間及びそれに伴う身体はその都度可塑的に変化する。
 こうした切断と統合にはまさに可塑的であるような程度の差が存在する。例えば毎日観葉植物を育てている中で、突然サボテンに花が咲いたのを発見するような、習慣化が完全に損なわれない程度の切断がある一方で自然災害など我々の生活習慣を完全に変えてしまうような切断も存在するだろう。我々の営みを、このような多種多様の切断の中で自身の離散性を確認し、それを許容しながらもまた統合を目指そうとすることによって絶えず変容するような新しい秩序として捉えられないだろうか。
 このように本論の前半で私は反復を量的なものとして、まさに“位置付け”ていたが、順を追って考察していく事で、むしろ「本来的」な反復とは量的な時間と質的な時間との衝突が引き起こすズレそのものであると言った方が正しいのではないかと思われる。ズレや裏切りは、それが繰り返される事でそれ自体が定式化、習慣化されてしまうが、そのズレ自体は絶えず別質なものとして変容し続ける。例えば観葉植物は絶えず成長し続けるし、ジャイアントコーンとゆずレモンサイダーを買いに行く私も絶えず変化し続けているだろう。反復は、習慣化(量)と変質化(質)の両方を含んでいる。つまり、反復は絶えず我々を裏切り続け、同時に我々を統合する。実際に、ズレは反復しなければ起こり得ないし、また、反復はズレ続ける中で自身を統合しようとする力のプロセスそのものでもある。故に、反復による両義性を明らかにする事で、離散的なところから出発する新しい秩序のための生成変化を捉えられるのではないかと私は考えている。


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