見出し画像

スクランブル

学生という身分と一緒に君への好意を置いてきた。そんな春だった。あの子とは、もう会うはずがない。そう思っていたはずなのに。
表参道の喫茶店。観葉植物に囲まれた席に座っている。目の前にコーヒーを挟んで、眼差しを輝かせる君が座っている。
何故、ここに居るんだろう。

学生じゃなくなって、社会人になった。朝起きるのも辛くて、大好きな星も見られずに寝るだけの毎日だった。
異常に休みが尊くて、アラームに呼ばれた後も、頭は冴えない。開かない目を擦りながら、コーヒーを淹れる。
コーヒーを持って、外に出る。朝は空気がおいしい。見えないものに、おいしいという形容はあっているのだろうか。見えるものと見えないものの差はなんだろう。見えることと存在することは違う。目を閉じれば、それは見えないと同義だ。見えるものと見えないものには相違はない気がする。研修の最終日。朝からそんなことを考えていた。
そんな日の夜。渋谷駅に広がるスクランブル交差点。縦横無尽に人が横切る。仕事終わりの人間が数多に存在している。
信号を待っている間に、目を閉じる。誰も存在しなくなった。所詮、視覚情報はそんなもんだ。
信号が青になった気がして、目を開く。ちょうど、青になった。一歩踏み出そうとした時、後ろから声が響いた。
「木下くん」
その波長は、見えていなくても誰なのかという情報を与えてくれた。聴覚情報は優秀だ。
後ろを振り向くと、そこに君が立っていた。周りの人間に焦点が合わずに。
「久しぶり。北野さん」
その声のあと、君は笑った。その笑顔が輝かせて見せる。実際は、輝いているはずもないのに。視覚情報を信用できない。
そこで、次の週末、お茶する約束をした。

「まさか、渋谷で再開すると思わなかったね」
猫舌の君がコーヒーを口元に持っていく。触れた瞬間に顔をしわくちゃにする。そんな風景が懐かしく感じた。
こうやって、目の前にいたら、恋雨に打たれるかと思っていた。意外とそんなこともなくて安心した。
「どうなの?調子は」
僕はホットコーヒーと触れ合う。輸血したように、血液の流れが速くなる。
「楽しいよお仕事。覚えることは多いけどね。木下くんは順調なんでしょ?」
「そんなことないよ。わかんないことばっかり」
お互いに変わらない事実と微笑みあった。いや、変わってはいるのか。もう君は僕のことを好きではないし、僕も君のことを好きではない。
しかし、君が君であることは変わらないし、僕が僕であることも変わらない。
変わらないねって言葉は何が変わらないんだろう。
眼鏡越しに見える君の笑顔は何も変わっていなかった。
コーヒーを飲み終えた僕たちはお店を出た。

あの頃と違って振り返らずに、君と別れる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?