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五月病

雨音が響く教室。室内には、タイピングをする音も複合機が稼働する音も聞こえる。卒論の中間発表に向けて、作業をする男女。
いや、抽象化すると生きている人間。生きている人間って表現は合っているのだろうか。死んだ者はもう人間じゃないのか。ただの有機物。そんなことを考えていた。
「雨ばっかりでつまらないですよね。気分も上がらないし」
石原の声が微かに響いた。
「それ、僕に言ってる?」
「この状況で誰に話しかけるんですか」
「AIとかじゃない?」
「哲学科なんですから、そんな話はやめてください。ただでさえ、五月病なのに」
同期の石原(僕が一浪しているから歳的には一個下)が、頬杖をつきながらこっちを向いている。
「いつの間に病院に行ったの?五月病なんて」
「先輩つまらないですよ。だから彼女できないんですよ」
彼女の勝ち誇ったような顔が目の前にある。本当に五月病ならそんな生き生きとした表情が出ないだろう。また、この言葉に君もだろう、と答えるのはやめた。五月病らしい彼女に雷が付随したらそれこそ大変だからだ。
なんで五月病だけ存在するのだろうか。五月が嫌なら、六月も嫌だし、十月も嫌だ。無の存在を作り出すことで、概念を成り立たせようとしているのか。無いっていう形容詞のように、虚数のように。実に人間らしい。無を認識することと可視化することは異なる。
無を可視化するって矛盾しているはずなのに。世の中矛盾しかないのかもしれない。
今も目の前には、五月病の彼女が笑ってこっちを見ている。
「じゃんけんしませんか。負けた方がジュース奢りで」
「二人だけならコイントスの方が効率いいよ」
「じゃんけんでいいです。私これしか出しませんよ」
彼女は握った拳を僕に突き出してきた。目が合うと僕に笑顔でピースをしている。まるで、犬が餌を前にした時のように目を輝かせて。
彼女を信用して手を開くか。それを読まれることまで考えるか。安定は同じ拳を握るべきか。いや、彼女は拳をそのままにしないと信用を失うことになる。心理的に有利に立っているのはその面から完全に僕だろう。

「じゃんけん、ポイ」
静かな部屋。掛け声。雨の音。
彼女の笑う顔。
「私の勝ちです。レモンティーでお願いします」
僕は手を開いている。手のひらを見つめて。
「嘘つきっていい称号も得たようだけど?」
「私は、左手を出すとも、グーを出すとも言ってませんよ。元々、右手でチョキ出していたでしょう」
同じシルエットで、チョキでもピースでもあるなんて人間の認識はどうかしている。雨の音だって、雨が直接奏でていないってことか。
「現代の五月病は、頭の回転が早いことなんだね」

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